愚かな2人
鉄錆の匂いがする。
喉の奥が焼けるように痛かった。
青年は床に押さえつけられていた。
頬を踏まれ、血を吐く。
「お前はどこにも行けねぇよ。」
男の言葉が降り注ぐ。
「逃げることなんてできやしねぇ。」
肺が苦しい、滲んだ涙が頬を伝って床を濡らした。
「トカゲ、命令だ。」
離された腕に熱が残った。
それすら錯覚に思えた。
青年――トカゲは血の味がする口の中を舌で転がして、痛みに耐えた。
幾度目かもわからない命令をトカゲは聞く。
耳鳴りの果てで、男の声が聞こえる。
「殺せ。」
今は、一番聞きたくない言葉だった。
殺意にも似た睨みを、男に向ける。
視界の端で居るはずがない蝶が舞う。
場に似つかわしくないそれは、ひらひらと舞い落ちて――戦場の灰へと変わる。
灰は、雪のように降り積もっていく。
*
洞窟の奥で、黄金が吠えた。
空気が震える。
割れた天井から差し込む光の中、
巨大な真紅の瞳がこちらを見ていた。
そこで彼の意識は現実に戻される。
交差した視線の中、薄紫の瞳が細められた。
かつて“トカゲ”と呼ばれた男――ラガル。
――殺せ。
その言葉が今も脳裏に焼き付いて離れない。
仲間の魔術師は、笑っていた。
“死者に会える鏡”――ヘレーの鏡。
亡き誰かを追い続ける彼女にとって、その名は呪いのようだった。
黄金竜が翼を広げる。
洞窟を埋め尽くすような巨体。
振るわれた尾が岩壁を砕いた。
眩く輝く黄金の鱗――。
目に痛いほどの輝きに魔術師の女は目を細めた。
そのときだった、死角から竜の尾が振るわれる。
「ラガル、横!」
危なげなくラガルが避ける。
竜の炎が大地を焼き、ちりりと肌を焦がした。
ふと女の視界の隅でキラリと何かが光る。
その光を見た彼女は声を張り上げた。
「あったわ!」
積み上げられた財宝の中、異質な紫の光――ヘレーの鏡。
*
時は移ろい、そこは煉瓦造りの街。
人混みの中で詩人が高らかに歌い上げる。
「そして魔女は言った。千年後、大いなる災いあるだろう。闇の王が生誕なされる。」
演目が終わり、次の話に差し掛かったころ。
舞台を眺めていた市井の女たちがうわさ話をはじめた。
「どこに行ってもこの話、ちょうどもう少しで千年だってね。魔獣は確かに増えてきたねぇ。」
「獣なんかより魔獣狩りみたいなゴロツキのが嫌さ。ほぅら、例えばあそこの亜人……。」
言い終わるや否や、ギロリ、とその男が睨む。
「睨まないのラガル。」
ひっ、と縮こまって女たちは逃げていったが、
亜人と呼ばれたその男――ラガルは機嫌が悪そうにその後ろ姿を睨みつけていた。
その様子に、男の背丈に隠れていた小さな女がひょこっと顔を出して宥める。
二人はこの国の人間の中でひどく目立った。
杖を抱えた小柄な魔術師。桃色の髪。
その隣には周囲とは頭ひとつ分、背の高いラガル。先が紫がかった薄水色の髪が、なおさら人目を引く。
ふと魔術師の女が建物の看板に目をやる。
「ねえ、ラガル。狩人協会ここにもあるみたい。」
「入るための金はあるのか?」
ラガルの言葉に女は笑って自分の服を指し示した。
ただの布で出来ている白いワンピース一枚だ。
「もはや旅を続けるのさえカツカツなのよ。」
「……お前が魔術書やらなんやら買い漁るせいでな。」
「それが目的だから仕方ないじゃない。」
ラガルは無言で息を吐く。女の浪費癖を知り尽くしていたからだ。
「あなたにとっては旅の目的が違うけど。」
その何気ないひと言に、ラガルは思いつめた表情を見せる。
首巻きの下にさげた銅の薄板を、無意識に指先でそっとなぞった。
鉄より軽いはずなのに――胸の奥は沈む。
――「殺せ。」
その声が、また耳の奥で蘇る。
ラガルはわずかに眉を歪め、指を離した。
「ここら辺に仕事はなさそうだが、魔術師限定の仕事はあった。俺は気が乗らないが。」
ラガルは彼女に目をやるとそう言った。
「あらそうなの。話を聞くだけ聞いてみたいわね。」
「話聞いてたか?……ああ、でも誰が死んでも構わないなら、行くが。」
ラガルは気乗りしなかったが、結局メフェルに押し切られ、依頼人の館へ赴くことになった。
そうして二人は館を訪れた。
「どうかお力になっていただけないですかな、メフェル様。」
一通りの話を済ませたあと、館の主らしい男が魔術師の女メフェルに尋ねる。
ラガルは椅子に座り、壁際で黙って二人の会話を聞いていた。
「ええ、まぁ。」
「本当ですか!さすがは魔術塔の魔術師様だ!」
「え?いえ私は――。」
何か言いかけたメフェルを、男は興奮気味に遮った。
喜色に溢れた顔で、男は続ける。
「もちろん目星はついております!黄金竜です。」
その瞬間、メフェルの顔色が変わった。
「お断りするわ。」
「ま!待ってください!最後まで……話だけでも。」
「報酬のお金で討伐隊でも組むことね。」
「違う!欲しいのはヘレーの鏡だ!あんなゴロつきどもに任せれば、きっと持ち逃げされる!」
その言葉にメフェルは動きを止めた。
一方ラガルは何がおかしいのかニヤリと笑い、面白そうに男へ詰め寄る。
「俺たちもその連中だ。魔術塔の魔術師と言ったのは俺だが、確かめもしないで迂闊だな。流れの魔術師とそのお付きの魔獣狩だ。」
「な!貴様、嘘を……メフェル様は塔の魔術師じゃないのか!」
男が食ってかかるその横で、メフェルが割って入った。
その声色は場の空気とは不釣り合いなほど明るい。
「待って、ヘレーの鏡? それ本当なの?」
ヘレーの鏡、その言葉にラガルの指が僅かに震えた。
「偽物だ。」
その一言だけが、やけに早かった。
まるで――考える前に拒むように。
「そんなもの、あるわけがない。」
低く吐き捨てる。わずかに呼吸が乱れていた。
しかしメフェルは聞いていなかった。
「死者に会えるという古の魔道具……伝承上は複数の系統があって、鏡型の媒体は――。」
早口になる。
瞳が明らかに別の熱を帯びていた。
「もっと詳しく聞かせて。」
早鐘のように胸が鳴る。
どうしても確かめたい。
もう朧げなあの笑顔。
――理論上は、会える。
「専門は古代魔法よ――その仕事、引き受けるわ。」
小さな身体が前のめりになり、声が高ぶる。
男は圧倒されていた。
「おい、馬鹿!」
気軽に竜退治の依頼を受けたメフェルに、ラガルが怒鳴る。
しかしメフェルの心臓は高鳴るばかりだった。
彼女はポシェットからメダルを取り出した。
男はそれを見るなり、顔色を変える。
「……失礼しました。どうか、お力を。」
「ふふ、任せて頂戴。」
男は深々と頭を下げ、依頼を託す。
ラガルはその様子を、不機嫌そうに見つめていた。
「おい、馬鹿女、魔女!気が狂ってるんじゃないのか。どう考えても無理だ。」
「私は魔術師。魔女って呼ばないで。」
そこへ男が、懐から一枚の鱗を取り出す。
「あの竜がなぜ“黄金”と呼ばれるか、ご存知ですか?全身が金でできているからなのですよ。」
ごとり、と重い音を立てて卓上に置かれたそれは、
手のひら大にもかかわらず、圧倒的な重量を感じさせた。
黄金の鱗――。
ラガルは目を奪われ、かすかに唾を飲んだ。
その美しさに目が奪われると共に、一瞬だけ思う。
――燃やしたい、と。
*
「……あなたって本当、お金のことになるとダメね。」
場面は変わり、二人は屋敷を出ていた。
メフェルがおかしそうに言う。
あの鱗を見せられた以上、断れるはずがなかった。
「黙れ、金は命に変えられる。」
その声は冷徹で、ラガルの目は、現実の重みだけを見ていた。
過去は変えられない。
だが金があれば、少なくとも明日は生き延びられる。
「ああ出た、あなたの口癖ね。」
(ラガルってば、ほんとうは違うのに……。)
ラガルはメフェルに目もくれず、前金の袋を開く。
そこには、家が二軒買えるほどの金額があった。
「これだけ用意できるなら、腕のある竜殺しでも雇って討伐隊を組んだ方がいいと思うがな。」
「知らないの? 黄金竜って竜殺しの間では“不落の竜”って有名なのよ。」
ラガルはその言葉に眉を動かす。
「黄金竜って“不落の竜”で有名なのよ。
十六年前に竜殺しの英雄――バルデンスが死んでから、誰も挑んでない。」
沈黙するラガルを、メフェルは笑いながら見ていた。
彼女の脳裏には、すでにヘレーの鏡しかない。
「今から断るのは絶対なしよ。」
その揶揄う声に、ラガルはむっとして言う。
「たかだか人間の強い、怖い、恐ろしいほど当てにならないものはない。」
「お金に浮かれてるわね。さて、当分の目標は竜退治になるわね。頼りにしてるわよラガル。」
ぴょん、と軽く跳ねるような動作でメフェルが振り返る。
「行きましょう、ナザレムに!」
黄金の鱗の輝きが、目に焼き付いていた。
ラガルはそれを、金としか見ていなかった。
それが、どこへ続くのかも知らない。
誤字脱字訂正→家名カット/ラガルの髪色描写に抜けがあったのを修正
話が冗長だったので肉屋のくだりをカットしました。
館のくだりが一部冗長だったのでカットしました
フックが足りなかったので冒頭追加しました。
ついでにラストを調整しました。




