影が触れる街
イェリホクの街についたのはノーヴィツを発って二週間もした夕暮れだった。ポツポツと明かりが見え始め、夕食の匂いが漂ってくる。
色とりどりのガラスでできた窓の美しい、可愛らしい街並みだった。夕陽を受けて街全体が小さな宝石箱のように輝いている。
「綺麗ねぇ。」
メフェルが辺りを見渡す。
珍しく石畳のあるような大きな街だ。
彼女の気分も上がっていた。
「おー、やっと着いたな。ここまで長かった。」
「誰のせいだと思ってる。」
イーヴァが寄る村々で人助けと称して厄介ごとを拾ってくるのだ。メフェルはそれに賛同するし、シーナも乗り気だし、ラガルは心の底から疲弊していた。
「いいだろう、急ぐ旅ではなかろう?」
「お前が決めることじゃない。」
ラガルがイーヴァを睨みつける。
しかしイーヴァには子猫が戯れて来ているようにしかみえてなかった。
「まあ、いいじゃない。お陰でお小遣い稼ぎになったし。」
メフェルがニコニコと微笑む。
ラガルは軽く舌打ちすると近くにあった宿へと足を進めた。
続いて、シーナとメフェルも宿へと入ろうとする。
そのときイーヴァだけが怪訝な顔をして遠くを見つめていた。
「どうしたの?イーヴァ。」
「いや、な。何か嫌な気配がしたんだ。」
言葉とは裏腹に、イーヴァの眉間には“理由の言えないざわつき”が走っていた。
風がひゅう、と通り抜ける。その一瞬だけ、街のざわめきが遠のいた気がした。
彼はそう言うと宿に消えていく。
閉じた扉の隙間で、ほんの刹那、影が揺れた。
灯火に照らされたはずの廊下で、そこだけが妙に“暗い”。
*
今日も眠れずにラガルは月明かりを見ていた。
(……胸の奥が、ずっと重い。最近ひどい。)
その様子にイーヴァが気づき口を開く。
「眠れないのか?」
「こんな……夜は特にな。」
空には満月が浮かんでいた。
そう言ってラガルは窓辺から離れる。
月光が床に薄く影を描く。ラガルの背のその影だけが、どこか孤独に見えた。
イーヴァはその背中に、かつての友を見たような気がした。
「懐かしいな、昔同じことを言う友がいた。」
イーヴァが目を細める。月明かりの夜は特に思い出すのだ。
「ふぅん。」
興味なさそうにラガルが返事をしたときだ。
何やら廊下が騒がしい。
イーヴァが鋭い瞳に変わり、扉を僅かに開ける。
そこには何かから逃げるそばかすの幼い少女と、それを追いかける狼のような魔獣がいた。
だが、毛色は毒の川のような濃い紫。輪郭がところどころ“闇に溶けるように”滲んでいた。
光が触れた端から、黒がじわりと深まっていく――そんな異質な揺らぎ。
(なぜ街中に?いや、それどころではない。)
一瞬でイーヴァは思考を切り替える。
瞳が月光を弾いて金色に輝いた。
「ラガル、行くぞ。」
「え?」
イーヴァが大剣を担ぎ、寝巻き姿のまま部屋を飛び出す。
ラガルも訳がわからなかったが、とりあえずイーヴァについていくことにした。
「この魔の匂い尋常ではない、もっとどす黒く、悍ましい。」
イーヴァは宿を出るとそう言う。
ラガルも魔の匂いに気がついていたが、
彼はどこか“懐かしさ”に胸が軋むのを覚えた。
(これは思い出したくない匂いだ。)
ラガルは顔を顰める。
そんな中、イーヴァは遠くに見える影を追う。
ラガルも遅れてその後に続いた。
影のような体躯が塀を乗り越える。
普通の魔獣とは違う、人間臭い動きにイーヴァは反応する。
イーヴァは息を呑んだ。
「もしかしてノフサルか!」
狼がイーヴァに気づいた瞬間、
その影とは別の“黒い霧”が地面の裂け目から滲み出した。
そして辺りを侵食していく。
「一人じゃない?しまっ。」
イーヴァがそう気づいたときには遅い。
足元から這うように伸びる黒い霧に彼は包まれていた。
闇は、音を“食べて”いた。
あまりにも深いせいで、息の音すら落ちていく。
闇の中、首元を狙う爪を彼は見もせず避ける。
まるで、初めからそこに爪が来る事を知っていたかのように。
闇は音すら奪っていた。
けれどイーヴァは迷いなく動く。
「なんだ?」
ラガルが遅れて着いたときには
その場は黒い闇に包まれていた。
月明かりの夜だというのに、光を一切通さない闇。
近づくほどに胸が圧迫されるような、重い“存在”。
(これは……ただの魔獣じゃない。)
肌が本能的に後退ろうとする。
中から鼻血を出したイーヴァが出てくる。
「おい。何があった。」
ラガルは状況を察しようとイーヴァに問うが、
イーヴァは口を開かない。
ただ、足元がふらつき、眼の焦点があっていなかった。
“ノフサル”と呟くと、そのまま意識を失ってしまう。
「お、おい!しっかりしろ。」
ラガルはそれ以上の追跡を断念すると、
イーヴァを担いで宿へと戻るのだった。
「あ、ラガル。」
小人族のミムラスだ。
何も知らないで見ると幼い少女のように見える。
遺跡で顔を合わせたばかりなので警戒心は薄かった。
「何してんだ。こんなとこで。」
「それはこっちのセリフ……。」
強気に言い返そうとしたミムラスの元気が萎む。
肩が小さく震えていた。
夜風のせいだけではない。
ラガルは変だなと思いつつ、宿に入ろうとする。
そこをミムラスが止める。
「ア、アンタねえ。こんな美少女が一人で夜中に外にいるのに何も思わないわけ?
ちょっと、ちょっとだけ側に居なさいよ。」
ミムラスの精一杯の訴えだった。
しかしラガルは察せない。
「黙れ、寝る。」
ラガルはそう言い残すと宿の中に入っていった。
*
「酷い!酷いんだよメフェル!」
次の朝、部屋の前で待ち伏せしていたミムラスがメフェルに泣きついたのは、起きてすぐのことだ。
ラガルはまだ起きていないが、起きていたらミムラスを宿から追い出していただろう。
「ミ、ミムラス?どうして貴女がここに?」
メフェルがミムラスに尋ねる。
「赤い石をお金に換えに来たの。でも変なやつに追われて。」
ミムラスが震えながら喋る。
その小さな肩は、夜の寒さでは説明できない強張りを帯びていた。
その様子に只事じゃないことを悟ったメフェルは、ラガルを起こしに隣の部屋へと向かった。
コンコン――。
扉が強く叩かれる。
しばらくして、寝起きのシーナが出て来た。
「ふぁい、おはようございます。」
「ラガル、いる?起こしてくれない?」
「ラガルさんですか?ラガルさーん。」
シーナは部屋の奥に消えるとラガルを揺する。
その間、メフェルはしがみつくミムラスを宥めては、幼子をあやすように話を聞いていた。
ミムラスの指先が、メフェルの袖を掴むたび震えている。
その震えが“何から逃れてきたのか”を静かに物語っていた。
「なんだ……人が寝てるっていうのに。」
しばらくしてラガルが出てくる。
メフェルは昨日の夜のことを詳しく聞くことにした。
「知らん、イーヴァが急に魔獣を追い出して。こいつがいた。」
説明にならない説明だった。
メフェルは一瞬だけ眉をひそめる。
しかしミムラスの話をよく聞けば、遺跡で拾った石を持っていたところを狙われたらしい。
「人間の女の子と巨人の男に助けられたの。だからその人たちに石を渡した。」
ミムラスが言う。
それが本当なら、次に狙われるのはその人物たちだろう。
メフェルの顔が強張る。
唇がわずかに震えた。胸の奥に冷たい予感が落ちてくる。
その瞬間、宿の外を走る蹄の音が遠くへ去っていく。
そのあとを追うように、酷く低い唸り声が風に消えていったような気がした。
風が止まる。空気が沈黙する。
“何か”がその方向へ向かった――そんな確信だけが残った。
夜の闇の向こう。
石を抱えた二人のいる方角へ。
誰もまだ知りはしない。
次の犠牲者がもう決まっていることを。




