踏み出す朝
翌朝、メフェルとシーナはラガルが宿から出てくるのを待っていた。もうとっくに起きてもいい頃合いだが中々起きてこない。
イーヴァが先に二人に合流した。
「よお、おはようさん。」
「お、おはようございます。」
「あら、まだついてくる気なのね。」
メフェルはどこか冷たい声色だったが、その顔は苦笑している。
イーヴァは宿を見上げるとラガルを探した。
「あいつは遅いんだなぁ。」
「無理に昨日飲ませたからよ。」
メフェルは呆れた声でそう言う。
実際、宿から帰るときはもうフラフラで3回は吐いていた。
「イーヴァ、二度とラガルに酒を飲ませないでちょうだいね。」
「お、二度とって事はこれからもついてって良いという事だな?」
「馬鹿言わないで。」
そんな会話をしているとようやくラガルが宿から出てきた。
その顔は真っ赤で、目線を横にずらしている。
シーナは真っ先にラガルに駆け寄ると元気よく挨拶をした。
ラガルは視線を合わせようとして、何かを思い出すのを押しつぶすように急に違う方を向く。
そして小さく返事を返した。
「おは、よう。」
その声は普段とは違い掠れていたが、いつもより明快だった。
シーナは昨日のウキウキした気持ちのまま、思い切ってラガルに尋ねてみた。
「ラガルさん、昨日のこと。」
「覚えてない。」
即答だった。
その瞬間、ラガルの喉仏がわずかに上下する。ほんの一拍、呼吸が乱れたように見えた。
シーナの笑みが引き攣った。
足が止まって胸の熱さが萎んだ。まるで冷水を掛けられたようである。
先程までの喜びを返してほしいとシーナは思った。
(昨日の喜び……返してほしい。)
シーナは心の中でそう思った。
覚えてないと言われた瞬間、昨日の喜びが他人の夢のように淡くなる。
(この男……!)
メフェルは後ろでラガルを睨んだ。
イーヴァはその三人を見て笑いを堪えるのに必死だった。
昨日からなぜかメフェルはラガルに怒っていて、その原因がシーナとのやり取りにあるというのは彼に十分察せられる。
少し逡巡してラガルは口を開く。
「シーナ、行くぞ。」
「は、はい!」
そのやりとりにメフェルの炎は燃え上がった。
杖を握る手に力が入る。
二人の背中を見ているのが辛かった。
(なんでシーナだけなの。)
胸がざわついた。
――私だけ置いていかれてるみたい。
寂しい瞳でラガルを見つめる。
けれどその視線に気づく者は誰もいない。
イーヴァ以外は。
「そうだ、メフェルさん。次の街はどこに行くんですか?いつ出発します?」
シーナが今後の予定を尋ねる。
慌ててメフェルは笑顔を取り繕った。
「ふふ、よく聞いてくれました。どこを目指してると思う?」
「え、目的なんてあったんですか。」
メフェルは地図を広げると、指を指す。
彼女の白く細い指がするすると目的の場所へと伸びていった。
「ふふん、なんと私たちは王都を目指しているのでした〜。」
パチパチとメフェルが拍手をする。
シーナの胸がふっと跳ねる。
胸の奥に、久しく感じていなかった“明るい熱”が灯った。
まさか王都に行けるなんて夢にも思わなかった。
「今はここドーラリトーアにいるから、南?に進んでイェリホクで船を捕まえるのよ。」
メフェルが慣れない様子で地図を回す。
ラガルがため息をついて北西だと突っ込みをいれた。
王都と聞いたイーヴァが目を輝かせる。
「王都に行くのか?ならば俺もついて行こう、丁度、用事があったんだ。」
「いらん、どこかへ消えろ。」
「そう言うな、旅は多い方が楽しいだろう?」
いつかのメフェルのようなことをイーヴァが口にした。
正直、得体の知れない男だったが、振り払っても付いてくるような気がしてメフェルは心が折れる。
道中、歩幅を合わせてくれたり、さりげなく道を拓いてくれていたので悪い男ではないのだろうが、なにぶん正体がわからなさすぎた。
「イーヴァ、わかったわ。付いてくるのは構わないけどあなたが先頭を歩きなさいね。」
「もちろんだ。子どもを守るのは年長者の責務だからな。」
子ども、という言葉にメフェルは若干苛立ったが軽く受け流す。
イーヴァはどうも豪快な反面、無神経な人物のようでメフェルは上手くやっていけるか疑問に思った。
「出発は3日後よ、それまで各々好きに過ごしましょう。たまには休みも必要だわ。」
「休み……。」
ラガルが初めて聞く言葉のように反応する。
「そう、お休み。最近色々あったでしょ。疲れちゃった。」
そう言われてラガルはここ最近のことを思い浮かべた。
竜退治に、霧の森の出来事、遺跡での一件。
確かに少し疲労が溜まっていた。
シーナも言葉にはしないが疲れていることは想像に難しくない。
「わかった。」
そう言ってラガルは宿に戻っていく。
メフェルは地図を持ったままどこかに消えた。
取り残されたのはシーナとイーヴァだけだ。
「どうしよう。」
突然の自由にシーナは戸惑う。
ここ最近はずっと人といたから一人になる時間なんてなかった。
何をしようか考える。
イーヴァはふと考え込んで、少し躊躇ったのちシーナに尋ねた。
「なぁ、よかったらでいいんだが。少し話さないか?」
シーナは突然の申し出を断る理由がなかった。
*
川のせせらぎ、森の木々の囁きが重なり合って雨のようにも聞こえた。
緑の匂いに包まれる中、シーナとイーヴァは川のほとりに座って話を始める。
「な、なんですか?話って。」
シーナが思わず吃りながら尋ねると、イーヴァは言いづらそうに切り出した。
「あー、昨日俺のことを助けてくれたとき泣いてただろう。どうしてかと思って。」
イーヴァが手元にあった石を川に投げる。
ぽちゃんと音がして石が沈んだ。
彼の声はいつもの不自然なほどに張った声色ではなく、もっと自然なものだった。
「俺でよければ聞こう。二人には話せないこともあるだろう。」
チラリとイーヴァがシーナを見る。
それは控えめな善意だ。
シーナはこの男のことを怖いと思っていたが、素の表情を見てルドーやベキアとは何か違うと思い始めていた。
柔らかな日差しのように金色の瞳がシーナを見つめる。
不思議とその輝きを見ていれば心が落ち着くような気がした。
「実は。」
シーナは思い切って胸の内を打ち明けてみることにした。
守られてばかりだということ。足を引っ張ってばかりだということ。もう解決はしたが、ラガルの触れてはいけない領域に触れて怒らせてしまっていたこと。
全てをイーヴァに話してみた。
「そうか、ラガルは難しいやつみたいだな。でもお前は少しも悪くないよ。何かあるとすればラガルの方だ。」
イーヴァは落ち着き払った様子で言葉を紡ぐ。
「でも。」
「お前は拒絶されるたび泣くのか?それってすごく面倒くさくないか?」
彼はハッキリとものを言う。けれどその物言いには優しさがあった。
「大丈夫だ。ラガルは多分、自分の心の扱い方もわかってない不器用なやつなんだ。それにお前が振り回されることはない。」
その助言は見てきたような言い方だ。
だがそう断言できるのは彼の経験故だろう。
シーナはイーヴァという人間が深い炎であることにようやく気づいた。
「弱さはなんとかなる。鍛えればいい。だがお前は決して弱くはない、泣きながらも俺を助けただろう。」
笑うイーヴァの笑みは豪快というよりも繊細で慈悲に溢れているものだ。
シーナは少しだけ胸が軽くなっていくのを感じる。
「シーナ、剣を習わないか?無理にとは言わん。」
そしてシーナの前に転機が訪れる。
風の音すら変わったように、何かが“動き始める気配”がした。




