祝福
こんにちは、恵曇と云う者です。
初めまして、あるいはお久しぶりです。
この作品は、「もし異世界にチート能力者が増えすぎたら、世界は本当に幸せになるのか?」という疑問から生まれました。
最強の主人公ではなく、ごく普通の村人が主人公です。
派手な戦闘はまだありませんが、第一話では「主人公が何を守りたいのか」を描けたらいいなと思っています。
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
この世界には、『祝福』と呼ばれる神々の奇跡が存在する。
生まれながらに授かる者もいれば、神託によって授かる者もいる。その力は千差万別。炎を自在に操る者、剣の冴えが神域に達する者、病を癒やす奇跡を振るう者───そのどれもが、人智を超えた力であった。
人々は祝福を授かった者を『神に選ばれし者』と称え、英雄として讃えた。戦乱の世では国を救い、飢饉の年には人々を飢えから守る。祝福は神の慈悲であり、世界の希望だった。
─── そう語られるようになったのは、いつからだっただろう。
少なくとも、俺が生まれた頃には違っていた。
祝福は、希望ではない。
それは、諦めるための言葉だった。
◇ ◇ ◇
朝露をまとった麦穂が、さらさらと風に揺れていた。
夜明けの冷たい空気を吸い込めば、湿った土の匂いと青い若葉の香りが胸いっぱいに広がる。東の山々から昇る朝日が畑を照らし始めると、黄金色の穂先はまるで一面の湖のように波打った。
この景色だけを見れば、誰もが豊かな村だと思うだろう。だが、その美しさは皮肉だった。
「……アスク。」
背後から父の低い声が聞こえた。
振り返ると、年季の入った鎌を肩に担いだ父が、少し猫背になりながら歩いてくる。日焼けした顔には深い皺が刻まれ、まだ五十にも満たないはずなのに、老人のような疲れが滲んでいた。
「そろそろ刈るぞ。」
「うん。」
二人で無言のまま麦を刈り始める。鎌を振るうたび、しゃり、しゃり、と乾いた音が響く。
子どもの頃は、この音が好きだった。
祖父はよく言っていた。
『この音は豊作の音だ。神様が今年も実りをくださった証なんだぞ。』
その祖父も、もういない。
借金を返すため、最後まで畑を耕し続け、三年前に病で倒れた。
医者を呼ぶ金もなかった。
それでも畑だけは手放さなかった。
この土地は、祖父の祖父、そのまた祖父の代から受け継いできたものだから。
「今年は出来がいい。」
父がぽつりと呟く。穂を一本摘み取り、指先でもみほぐす。粒は大きく、艶もある。
俺も思わず笑みがこぼれた。
「じゃあ、去年より高く売れるかな。」
その瞬間だった。
父の手が止まった。
麦粒が掌から、ぱらぱらと零れ落ちる。
風に運ばれ、土へ還っていく。
「……父さん?」
「いや。」
父は静かに首を振った。
「売れん。」
短い一言だった。
けれど、その言葉は鎌よりも鋭く胸を抉った。
「でも、今年は─── 」
「出来が良くても同じだ。」
父は俺の言葉を遮ることなく、淡々と続ける。
「王都じゃ今日も、あの祝福持ちが食料を配る。」
鎌がまた一振り。黄金の穂が倒れる。
「麦を買う理由がない。」
もう何年も聞き続けた言葉だった。市場には安い麦が溢れているのではない。市場そのものが、なくなったのだ。腹を満たすために金を払う者はいない。神の奇跡が、それを必要なくした。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
荷車いっぱいの麦を積み、父と町へ向かう。
村を囲む石垣はところどころ崩れ、木柵は腐りかけていた。屋根には穴が開き、壁板は陽に焼けて灰色へ変わっている。子どもの笑い声は少ない。
若者の姿も、ほとんど見かけなくなった。
「みんな王都へ行った。」
父は寂しそうに笑う。
「仕事がないからな。」
俺は返事をしなかった。
知っている。
幼馴染も、隣の家の兄ちゃんも、鍛冶屋の息子も、みんな村を出て行った。
この村には未来がない、と言って。
やがて町へ着く。
石畳の広場には、大勢の人々が集まっていた。
「始まるぞ!」
「今日も来てくださった!」
歓声と拍手。
まるで祭りだった。
広場の中央に、一人の青年が立っている。
年は二十代ほど。白を基調とした豪奢な衣装をまとい、胸元には黄金の装飾が輝いていた。その背後には、銀の鎧を着た女の人達が整然と並んでいる。
誰もが美しく、誰もが同じ穏やかな笑みを浮かべていた。
「商人様!」
「ありがとうございます!」
青年は気さくに手を振る。
「困った時はお互い様だよ。」
その声とともに、彼の足元に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
眩い光。空気が震えたその瞬間。
焼き立てのパンが、何百、何千と地面へ積み上がっていた。香ばしい匂いが広場を包む。歓声が一斉に上がる。子どもたちは目を輝かせ、老人は涙を流しながら青年へ跪いた。
「神の祝福だ……。」
「なんと慈悲深いお方だ。」
そんな光景のすぐ横で。市場のパン屋が、静かに木の看板を外していた。
誰にも見られずに。
誰にも聞こえないように。
その肩は、小さく震えていた。
アスクは立ち止まったまま、その光景を見つめていた。焼きたてのパンからは、香ばしい香りが立ち昇る。小麦の甘い匂い。ほんの少し焦げた表面。
幼い頃、母が誕生日に買ってきてくれたパンと同じ香りだった。
その匂いだけで、腹が鳴る。
─── だが。
アスクの視線は、パンではなく一人の老人へ向いていた。
老人はパンを抱えながら何度も頭を下げている。
「ありがとうございます……ありがとうございます……。」
その目には涙が浮かんでいた。
明日を生きられる喜び。
飢えから救われた安堵。
その感謝に、嘘はない。
だからこそ、アスクは何も言えなかった。
善意なのだ。
あの青年は、本当に困っている人を助けたいだけなのだろう。
誰も飢えない世界。
それだけを願った結果なのだ。
「……行こう。」
父が荷車を押し、市場へ入る。しかし、人影はまばらだった。肉屋は店を閉めている。八百屋も開いていない。鍛冶屋の煙突から煙は上がらず、樽職人の工房にも誰もいない。
市場全体が、眠っているようだった。
唯一営業していた穀物商が、二人を見るなり申し訳なさそうに頭を下げた。
「すまない。」
それだけで十分だった。父は何も言わず荷車を引き返そうとする。
「待ってくれ。」
穀物商が小袋を差し出した。
「全部は買えない。」
袋の中には、銅貨が数枚。
「……これしか払えない。」
父は袋を受け取らなかった。
「気にするな。」
「しかし……。」
「お前さんも苦しいんだろ。」
穀物商は俯いた。
扉から見える奥の倉庫には売れない麦が積み上がっている。それでも今日も、無料のパンが配られる。誰も悪意でやっていることではない。
だから誰も責められない。
誰も。
◇ ◇ ◇
町を出る頃には、夕日が西の山を赤く染め始めていた。荷車には、朝と変わらぬ量の麦が積まれている。
父は何も言わない。
アスクも何も言えない。
車輪だけが、石を踏む音を響かせていた。
「父さん。」
「なんだ。」
「昔は、本当に売れたの?」
父は少しだけ笑った。
「ああ。」
「祭りの日なんかは忙しかった。」
「村中で歌って。」
「酒を飲んで。」
「子ども達はパン屋の前に並んでな。」
父の目は遠くを見ていた。もう戻らない景色を。
「母さんとも、その祭りで知り合った。」
アスクは初めて聞く話だった。
「そうだったんだ。」
「ああ。」
父は照れくさそうに笑う。
「焼きたてのパンを落として泣いてた。」
「俺が半分やった。」
「それが始まりだ。」
二人は少しだけ笑った。
だが、その笑顔も長くは続かなかった。
「今は、誰もパンを買わん。」
静かな声だった。
「祝福があるからな。」
◇ ◇ ◇
村へ戻る頃には夜になっていた。家々の窓から漏れる灯火は少ない。薪も高くなった。暖炉に火を入れられない家もある。
なのに。
村の中央に建つ教会だけは、昼間と変わらぬ白さを保っていた。
白亜の壁。磨き抜かれた大理石の階段。色鮮やかなステンドグラス。夜だというのに、その窓は月明かりを受けて淡く輝いている。まるで、建物そのものが光を放っているかのようだった。アスクは幼い頃から、この景色に違和感を覚えていた。
村人の家は朽ちていく。橋も崩れる。井戸も壊れる。だが、この教会だけは何十年経っても変わらない。誰が修繕しているのか。誰が掃除をしているのか。考えたこともなかった。
「また教会か。」
父が少し困ったように笑う。
「ああ。」
「神様に頼んでも仕方ないぞ。」
「分かってる。」
そう答えたものの、足は自然と教会へ向かっていた。信じているわけではない。
だが、祈ることしか出来なかった。
◇ ◇ ◇
教会の中は静まり返っていた。
誰もいない。
祭壇の前には一本の蝋燭だけが灯っている。
ゆらゆらと揺れる炎が、女神像の表情を柔らかく照らしていた。
女神は微笑んでいる。
慈愛に満ちた、美しい微笑み。
その姿を見上げながら、アスクはゆっくりと膝をついた。
「女神様。」
静寂。
「お願いです。」
拳を握る。
「俺は……世界を救ってほしいなんて言いません。」
喉が詰まり。
「王様になりたいとも思いません。」
視線を落とす。
「ただ。」
「父さんが…皆が笑える村を返してください。」
「それだけでいいんです。」
返事はない。
蝋燭の火だけが、小さく揺れていた。しばらくして、アスクはゆっくりと立ち上がる。やはり、
神は願いを聞いてはくれない。
そう思い、教会の扉へ手を掛けた───その瞬間だった。
ゴォォォォン……
教会中に、鐘の音が響き渡る。誰も鐘楼にはいない。
風も吹いていないのに、それでも鐘は、確かに鳴っていた。
そして。
祭壇の女神像から、一筋の白い光が静かに零れ落ちた。その光は、まるで朝霧のように祭壇から溢れ出していた。
柔らかく、そして、暖かく。
それでいて、どこか神聖さを感じさせる輝きだった。教会を満たしていた静寂は消え、世界そのものが息を潜めたような感覚がアスクを包み込む。
「……なんだ。」
思わず一歩後ずさる。しかし足は床へ縫い付けられたように動かない。女神像から零れ落ちた光は、床を這うように広がり、祭壇の前に巨大な魔法陣を描き始めた。
見たこともない文字と、見たこともない紋様で。
それらはまるで生き物のように脈動しながら、教会全体を淡い光で照らしていく。
鐘の音は、まだ鳴り止まない。
ゴォォォォン……
ゴォォォォン……
一打ごとに、空気が震える。
外では村人たちが異変に気付き始めたのだろう。遠くから驚きの声が聞こえた。それでも教会の中だけは、不思議なほど静かだった。
やがて。
祭壇の奥、女神像の前に、一人の女性が現れた。
白銀の長い髪。月光を溶かしたような白い法衣。背には翼のように広がる光。
その姿は、人ではない。
ただ美しいだけではない。
見る者すべてに「跪くべき存在」であると本能で理解させる、圧倒的な神性があった。アスクは息を呑む。
その女性は静かに目を開き、蒼く澄んだ瞳で、真っ直ぐアスクを見つめる。
長い沈黙が続く。
互いに言葉はない。
やがて女性は、ふっと柔らかく微笑んだ。
その笑みは、どこか寂しげで。
そして、ひどく安堵したようにも見えた。
「……やっと。」
小さく呟く。
「やっと、来てくれましたね。」
その一言に、アスクは目を見開いた。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
「俺を……知っているんですか?」
女性は頷かなかった。否定もしなかった。ただ優しく笑みを浮かべたまま、ゆっくりと祭壇を降りてくる。
一歩、また一歩。
足音は無く、床に影は落ちていない。
まるで光そのものが形を成しているかのようだった。
「アスク。」
名前を呼ばれる。
それだけで心臓が跳ねた。
「あなたは今、この世界を救ってほしいと願いました。」
「……はい。」
「ですが。」
女性は少しだけ首を振る。
「あなたは、自分が英雄になりたいとは願わなかった。」
アスクは俯いた。
「俺なんかが英雄になれるなんて思っていません。」
「それに。」
「俺一人が強くなったところで、父さんは笑えません。」
女性は静かに聞いていた。
「村のみんなも。」
「パン屋のおじさんも。」
「鍛冶屋も。」
「みんな元通りになってほしいだけなんです。」
その言葉を聞いた瞬間。
女性は目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……良かった。」
その声は震えていた。
「本当に。」
「良かった。」
涙だった。
頬を、一筋の雫が静かに伝っていく。
神が泣いている。
その光景に、アスクは何も言えなくなった。
「何百年も。」
女性は空を見上げる。
「何百年もの間、私は待ち続けました。」
「力を望まない人を。」
「世界ではなく、目の前の誰かを救いたいと願う人を。」
「そんな……。」
アスクは困惑する。
「俺は、ただの村人です。」
「ええ。」
女性は微笑んだ。
「だから、あなたを選びました。」
教会を満たしていた光が、ゆっくりと彼女の右手へ集まり始める。
やがてその光は、一振りの長剣となった。
鞘は純白。柄には金色の蔦模様。刀身はまだ抜かれていない。それでも、その剣が人の手で作られたものではないことだけは、一目で分かった。
「これは……。」
「神器。」
女性は静かに告げる。
「神々が世界の均衡を守るために造り上げた剣です。」
アスクは恐る恐る受け取る。
驚くほど軽かった。まるで羽のように。だが、その奥には山をも支えるような重みを感じる。柄を握る手が震えるほどに。
「これで……。」
「戦えばいいんですか?」
女性は首を横に振った。
「いいえ。」
「あなたに祝福は授けません。」
アスクは耳を疑った。
「……え?」
「魔法も。」
「剣術も。」
「身体能力も。」
「奇跡も。」
「何一つ授けません。」
教会は静まり返る。
「あなたは最後まで、一人の人間として戦ってください。」
その言葉に、アスクは剣を見つめた。祝福がなければ勝てない世界。祝福を持つ者が王となり、英雄となり、人々を支配する世界。
そんな世界で。
祝福を持たず戦えと、神は言う。
女性は微笑む。
その笑みは、どこまでも優しかった。
「───それこそが、
この世界に必要な最後の"祝福"なのです。」
その瞬間。
教会の鐘が、夜空へ向かって高らかに鳴り響いた。
その音は村を越え。山を越え。王都を越え。
世界中へ静かに広がっていく。
まるで、長い眠りについていた世界が。
今ようやく、目を覚まそうとしているかのように。
第一話を読んでいただき、本当にありがとうございます!
……お気付きの方もいるかもしれませんが、まだ誰も剣を振っていません。
「異世界ファンタジーなのに戦わないのか!」と思われた方、安心してください。次回から少しずつ世界の真相や女神、神器について語られていきます。
感想やブックマークをいただけると、作者は麦畑でソーラン節で踊ります。
それでは、第二話でお会いしましょう!




