第二十四話 12月24日「見知らぬ地下にて 後編」
道に迷った。
地下通路に入って右往左往しているうちに、構内ナビゲーションがバグった。どこだここ。こんな所、これまでに迷子になった時にも来たことがない。
そこは寂れたシャッター街だった。暗く、静寂に包まれた商店街だった。明かりはお情け程度の蛍光灯数本しかなく光量が圧倒的に不足しているせいで、暗闇にいるのと大差ない。そしてシャッターに張られたポスターの数々、「閉店」「テナント募集」「迷い込まれた方は、○○○―○○○○―☓☓☓☓」…………。
最後のは電話番号だろうか。掠れていてよく見えない。
いやそれよりも注意すべきは、油断ならないのがこの環境だ。この不衛生さだ。黒く変色した段ボールや、ぐしょぐしょの新聞紙があっちこっちにとっ散らかっている。至る所にゲル状の生ごみや吐瀉物らしき謎の液体がぶちまけられ、飛び散っている。しかもそれらは半分乾きかけており表現するのも憚られるような凄惨な様相をしている。汚物が乾燥してひび割れてるところなんて誰が見たい。誤って転んであそこに顔面から突っ込もうなら絶対に病気になる。
そうあまりにも汚い。公園のトイレより不衛生だ。そして空気もじめじめしていて臭い。臭気が煙として立ち込める幻覚すら覚える。
母の部屋より汚くて臭くて不衛生な場所が存在するとは思いもしなかった。
だがおそらくまだマシには感じられてはいるのだろう。インフルエンザ対策でマスクをしてきたのは正解だった。マスクがなかったら私の吐瀉物もあそこに混じっているところだった。
「この先十五メートル、右方向です」
黙れ。いい加減な案内しやがって。
目標としている新幹線発車時刻まであと二十分。近くにまで来ている気はするが、二十というのは間に合うか微妙な数字だ。もし仮にここから抜け出す事が出来て、急に用を足したくなってトイレに駆け込み、そこに列ができていたらギリギリ乗り遅れそうなラインだ、別にもう一つ後のものでもいいのだが、そうすると足畑に到着するのが深夜になる。ド深夜なんかに、日が昇っていない時間帯なんかに、この厄介なおつかいはしたくない。というか、この不気味な通路から出なければ、新幹線に乗れるかどうかすら怪しい。
いやとにもかくにもまずは、この地下シャッター街を抜け出さなければならない。
もうアプリは信用ならない。そして私自身の勘もあてにはできない。ならば人を探すしかない。誰かに出口を聞くしかない。今まで東京駅踏破にチャレンジして失敗した時は、この方法に頼って脱出してきた。一見人気がなくとも駅なのだし、奥の方まで行くと誰かしらいるものだ。誰かしらと言うかあの男がいるのだ。茶色く薄汚れたコートを羽織った奴が。
私が初めて奴と出会った時、それは進学のために東京に越してきた時のことだった。いざ東京に着いたはいいものの、案の定道に迷って孤立した私は途方に暮れていた。その時迷い込んだのは、灰色のトンネルだった。明かりは十分にあるが、他には何もない、広告も人も音もない、無機質で冷たいどこまでも続く穴。この年齢で迷子になった恥ずかしさと、見知らぬ地下通路への恐怖で小さくなっていた乙女の前に、奴は、茶色く薄汚れたコートを身に纏った少年は、幽霊のように突然現れ開口一番こう言った。
「おばさん、迷子かい」
私は当時十八だった。老け顔なのは自覚していたが、それをカバーするためにお手入れは欠かさないようにしている。そして同時に老け顔なのは、コンプレックスでもあった。中学時代のクソオスとカスメスども、あのDQNどもの罵詈雑言が不意に脳裏に反響する。気づいた時にはもう、私の拳は奴の顔面に伸びていた。
はずだった。
「ヒステリックババア」
空を切る。
奴はいつの間にか、私の真後ろに移動していた。
「カリカリしないでよ、もうお仲間なんだから」
耳元で囁きかけるように、奴は語りかけてくる。首のあたりがぞわぞわして、思わず裏拳を繰り出してしまう。
「どうすればいいのか教えてあげようか? おばさん」
空振りだった。
「チッ」
埒が明かないとついに構えをとったところで、ようやく正気に戻った。おばさんと言われてキレるのはまだしも、暴力に訴えるのはやりすぎた。色々と精神がすり減っていて、動転していた。
「…………ごめんなさい、どうかしてました」
奴は鼻で笑い、さもおかしそうにこう返す。
「急に冷静ぶり始めるのも、ババアっぽいね」
拳を固める。慌てて緩める。
「…………あの、私東西線を探しているんですけど、どこにあるか分かりますか」
「東西線? おばさん、東胎来るの初めて?」
「あの! 東西線はどこですか!?」
奴は笑っていた。顔中垢まみれだが、肌に皺はなく、目は爛々と輝いている。背丈は私より若干低いくらいか。それに多分、こいつ年下だ。
「無理だよもう。おばさんは迷い込んじゃったんだから」
「迷い込んだ?」
迷ったのは事実だが、その言い方ではまるで、駅から出られなくなったようではないか。
「だから、出られないんだよ。ここはそういう場所なんだ」
奴は笑っていた。ニタニタ笑いながら、凄まじい視線を向けてくる…………いやらしい視線を向けてくる。だがそれは、バレていないとでも思っているのか、路上で胸元を凝視してくる変態野郎のものとは違ったいやらしさだった。性的なものではなく、別方向の…………「酷いことをしてやろう、嫌な目に遭わせてやろう」という類のものだった。
「じゃあさ、おばさん。一度試してみるといいよ。この道をまっすぐ行ってごらん。もしかしたら、億分の一くらいの確立で、外に出られるかもよ」
「…………」
奴の助言に従ったわけではない。ただこれ以上ここに、奴と共にいるのは良くないと本能が叫んでいただけだ。この場から離れなければならないと。
「…………分かった。やってみるよ」
言うやいなや私は走り出した。奴の言った方向に、奴の立っている方向とは逆なので結果的にはその助言に従う形で、一目散に駆けだした。かんかんかんかん、と足音が反響して響く。灰色の壁がびゅんびゅんと過ぎ去っていき、壁に走った長いひびがパラパラ漫画みたいに波打っている。あらぶっている。
…………いくら走っても終わりが見えない。合わせ鏡のように、このトンネルはどこまでも続いている。ここに来るまでの道は、こんなに長くなかったはずだ。この道がおかしくなっているのか、私の感覚が狂ってしまったのか。都会ではこういうこともあるのか。
…………多分、百メートルは走ったはずだ。にもかかわらず相も変わらず、トンネルの終わりが見えない。「奴の言うことは本当かもしれない」と嫌な言葉がよぎる。だが止まるという選択肢もなかった。だって、ずっと後ろの方からは、奴のあの視線が感じ取れたのだから。
…………どれほど走っただろうか。途中から疲労で前を見れなくなるくらい、長く長く走り続けた。終わりは見えない。だが、トンネル内の様相はやや変化していた。道中において突然、何の前触れもなく奇妙なものが、トンネルには似つかわしくないものが顔を覗かせるようになった。
まずそれは売店だった。壁にめり込んだ売店のように見えた。たまに公園に出ている屋台に近く、暖簾の先には焼き鳥と思しきものが並んでいた。微かに肉の焼ける臭いがするが、お世辞にも美味しそうには思えない。焦げている。このまま放置していたら火事にでもなるのではないか。そしてそこに人の姿はない。
つぎにそれは本屋だった——————いや、本を売る露店だった。あまり横幅の広くはないトンネルに堂々とブルーシートを広げ本を塔のように積み上げている。これの書類バージョンがあふれ返っているのがうちの事務所なんだよなあ、とか場違いなことを思いつつ、ジャンプして本の塔を飛び越える。そこにも人の姿はない。
そしてそれは紙の山だった。トンネルの天井から地面まで、まるで三日月を描く様な紙の山があった。アート作品と言われても違和感がない。そんな姿にやや親近を覚えつつ、そのせいなのか、これには前のニつよりも目をやる時間が長かった。足を止めることはしなかったが、完全に通り過ぎるまで紙を見つめていた。線———だろうか。地図のようにも見える。無数の線が毛糸のように絡まり何かを形作っている。矢印のような記号もある。その紙の山付近にも人の姿はなかった。
全力で走り続ける。もう先の方に妙なものはない。東胎駅とはこんな場所だったのか。通り過ぎてきたものを思い返すと、本屋に食事、地図(?)と最後のを除き生活を感じさせるものばかりだった。駅の中で生活が完結するのか。都会は知らないことだらけだ。
感心とも恐怖ともなんとも言えない感情を抱く。直後、このランニングは唐突に絶たれた。目の前に看板が出現したのだ。「転職なら○○」とポップなフォントで書かれている。当然、派手にぶつかり派手にぶっ倒れる。そして、世界はぱっと暗くなった。すると遠くから、だんだんと人の声が近づいてくる。一つではない、数えきれないくらいたくさんの声が、ゆっくりと迫ってくる。雑多な音に混じって、こんな声もする。
「大丈夫ですか」「大丈夫ですか」
視界がぼんやりと開けてくる。私を見下ろしているのは、制服を着た男性…………駅員さんだった。目を開き、駅員さんの手を借りながら体を起こすと、そこは東胎駅を出てすぐの場所だった。
それ以降、奴は私が東胎駅で迷うたびに出現するようになった。出迎えるかのように向こうから来ることもあった。奴の指さす方に、いつも同じような方向に、私の来た道を引き返すと必ず出口があった。乗り換えはできなくても外に出ることはできた。
東胎駅に挑むたびに色んな場所に出た。先述のような不気味なトンネルもあったが、逆に幻想的な場所に出ることもあった。時計が壁を埋め尽く廊下とか、うねうね歪んだ鉄の棒を中央にして広がり、何階にも連なる吹き抜けの映画館とか(アニメを見ようとしたが人が居なくて断念した)、地平線まで広がるプールなどなど、本当に多岐にわたった。乗り換えが出来なくても、そういう面白い場所に行けるのは東胎駅チャレンジの醍醐味でもあった。
ただ一方で、不気味を通り越して恐ろしい場所に出ることもあった。駅にあるはずのないものが、出現することがあった。曲がり角を抜けた途端に深淵の如き暗さのあぜ道が現れたり、階段を登ったところで突如墓石の並ぶ一本道が出てきたり、トイレを済ませて出ると夕日の差し込む学校の廊下があったりと、思い返したくもなくなるような最悪が姿を見せるのだった。
東胎駅にこんなギミックがあるなんて、とか最初こそ思っていたが、流石に今なら察せている。私が迷い込んでいたのは、そもそも東胎駅ではない。東胎駅内にいる事には変わりないのだが、その中にあるまるで別の空間、ようはおそらく、私は異界の類に迷い込んでいたのだ。
かなり奥まで来た。シャッター街はどこまでも続いているし、まだ空気が臭い。蛍光灯はいよいよ明かりとは言えない光量にまで落ち、いつぞやのようにスマホのライトをつけざるを得なくなった。
そういえばあの邂逅以降、奴の態度は露骨に軟化していた。いやらしい感じは相変わらずだが、それがもっといやーな感じに、媚びるようなものに変化していた。以前のように煽らなくなったし、道を聞くと素直に教えてくれるのでありがたくはあるが同時に不気味なものでもあった。
「おい、いるんだろ」
声を張り上げる。空虚なシャッター街にやまびこのように反響する。返事はない。地面に飛散する黄土色の液体を踏まないよう慎重に慎重に先に進む。鼻をつまむのも忘れずに。妙な状況だった。声をかけても、奴が出てこない。前まではならこうして声を上げると、「案内してやる」とこっちに突っ込んでくるような勢いで現れたのに。
気持ち程度だが進むにつれて暗闇が濃くなってきている。闇が黒い霧のように漂っている。ライトをもってしても先が見えない。光が闇に遮られているかのように。
「おい」
やがて声も反響しなくなった。激臭も消え、逆に風通しの良いところに出た。周囲が見えなくとも広い空間であることは分かる。生理的に無理なものが消えたので気分が多少は晴れたが、それでもなんだか嫌な感じがした。
今まで空気が悪い場所になら何回も迷い込んできたがしかし、逆なんてなかった。足を止めて耳を澄ます。風の音がする。普段使用している東西線のホームと同じだ。地下鉄特有の「ごおおおおお」という唸るような低音がする。
ゆっくりと探索を進める。地面には石畳と誘導ブロックが敷かれている。やや亀裂が走っている箇所もあるが、先ほどまでの劣悪な環境に比べれば遥かに楽に思えた。そしてこれは転落防止用の自動ドアだろうか。発展している街の駅にしかないやつだ。ここはおそらく駅のホームなのだろう。そのつもりなのだろう。見ている感じ巨大なトンネルと言った方が近いか。
というか、やはりそういうことか。
この空間がなんのために作られたのかは分からない。だが、ここはもう限界のようだ。
こつん。
音がした。スマホのライトを前へとかざす。誰がいるか、なにが音の主かは大方予想がついた。
そして予想通り、そのなにかはいた。煙のような闇が部分部分をモザイクのように遮っていてはっきりとは見えない。
茶色く汚れたコート。私より低い背。立ち姿、身なり、その全てが奴であることを示している。が、何故か奴の感じがしない。その理由はすぐに分かった。私に背を向けているが、私に後頭部を向けているが、奴は私を見ている。ぐちゃぐちゃの髪の毛の隙間から、私に目を向けている。頭部がねじれている? のか。
これ以上進んではいけない。一定の距離を保ちつつ、奴のようなものと向き合う。先手を切ったのは向こうからだった。
「なぜおまえが出られて、私俺が出られない」
ぼそぼそと聞き取りづらかったが、かろうじて意味は理解できた。
「…………ここに何回も来たけど、全部同じだったからだよ」
「なぜおまえが出られて、私俺が出られない」
「一本道だっただろ。全部。状況は違ったけどさ、それが廊下だったり吹き抜けの映画館だったりしたけど、全部一本道だった」
「なぜおまえが出られて、私俺が出られない」
「一本道ってことは、引き返せば戻れるってことなんだよ」
「なぜおまえが出られて、私俺が出られない」
「お前は、あんたたちは、それでも迷ったんだろ。一本道でも、迷ったんだろ。引き返せなかったんだろ」
ああもうこれで、私は東胎駅には来られなくなるのだろう。というか、もう来てはいけなくなる。奴のことは気に入らないが、嫌いという訳でもなかった。
奴は沈黙した。もう人のふりをすることもなくなっていた。私に背を向けているにもかかわらず、その目は確実に私に向けられている。後頭部、髪の毛でおおわれているはずのそこから視線を感じた。奴は微動だにしない。だが、「か、かかっ、かっ」と痙攣するような不可解な音が発せられている。
闇の先にいる奴は、闇と一体化しつつあった。
「お前は—————」
「…………私はまだ、引き返す事が出来るから」




