第二十一話 12月22日「女性用トイレの男三人」
1
夜。仕事帰りのことだった。駅を目の前にして、私は唐突に便意を催した。後ろに背負った鞄の中で、仕事で使用した画材がガチャガチャ鳴っている。お腹の中で排泄物が大移動するのを感じる。駅の中にもトイレはある。だが、駅に隣接する公園の方がここから近い。私は内股で走り出した。
えっちらほっちらしてたどり着いたそこは、少し大きくて白い外見のトイレだった。女性用の入り口の隅には蜘蛛の巣が張っている。中に踏み入れると、謎の虫の死骸や枯れ葉が点々と落ちていた。
私が選んだのは一番奥の個室だった。叩きつけるような勢いで扉を閉め、便器の蓋を乱暴に開き、ズボンを下ろす。便器に腰掛けた直後、私の股間から言葉で表してはいけない類の音が響き渡った。人を不快にさせないギリギリのラインで表現すると、排尿と脱糞と屁の合唱だった。ここ一ヶ月で聞いた中でもダントツで下品な音だった。一瞬の苦痛の後、お腹がすっと軽くなる。排便は十秒と経たずに終わった。
さて、用も済んだしさっさとお暇しようとトイレットペーパーをちぎり、ケツの割れ目をごしごし擦る。力を入れすぎてちょっと切れた気がしたが、気にしない気にしない。
大便を水で流し、パンツとズボンを履き直す。ふと下を見ると、個室トイレの扉の隙間でジタバタと小さい虫がひっくり返って暴れていた。そして、気を取られた一瞬の隙に、異変は起きた。
突然、視界が暗転した。外の車の走行音もピタッと止んだ。完全な暗闇と完全な静寂。停電かとスマホをポケットから取り出し、ライトをつけたその時、
「アサですよ、もうアサですよ、起きる時間だよ!」
「……ヒルですよ、もうヒルですよ、遊ぶ時間だ!」
「ヨルですよ、もうヨルですよ、眠る時間ですよ!」
何者かが絶叫した。身体が硬直する。異常な調子の声だった。音程が波のように上下していて、言葉の内容とは裏腹にとてつもない必死さだった。しかも男の声。それも三人分だ。
また怪異。ここ最近、なんだか多すぎやないか。立ち尽くしたまま、男たちの声に耳を澄ます。少しの沈黙の後、再び「アサですよ、もうアサですよ……」と、先ほどの狂言のリピートが始まった。
だが、その様子を聴き続けるにつれて徐々に、何か違和感を覚え始めた。怪異にしては、特有のオーラというか、嫌な感じがしない。圧がない。勿論彼らのしていることが意味不明なことに変わりはないため、怖くない訳ではないのだけれど、にしても何か変だ。たまに道端で出くわす危ない人たちと、彼らの雰囲気には大差がない。
いや違う、大差がないどころではない。これは、この気配、怪異ではない。人間だ。
2
闇の中に手を伸ばしても空を切るだけ。個室トイレの扉が消えている。唯一の灯であるスマホのライトで周囲を照らす。
一面、見渡す限りの闇。赤黒い土の地面以外およそ物と言えるものがない。だが一方で、そこまで広い空間というわけでもなさそうだ。空気が悪い。具体的には、埃っぽいし薄い。長いこと窓を開けずにタクシーに乗っているのに近い。そして臭い。間違ってニ日連続で履いた靴下のような臭いが充満している。
また、一目瞭然の事実ではあるが、ここはもう女性用トイレではない。数分前まではそうだったのだが、あの一瞬の暗転で変わってしまった。
……どういうことだ。意味が分からない。
「アサですよ、もうアサですよ、起きる時間だよ!」
「……ヒルですよ、もうヒルですよ、遊ぶ時間だ!」
「ヨルですよ、もうヨルですよ、眠る時間ですよ!」
まただ。男たちの声がする。状況は怪異のそれだ。だが、声の主の気配は人間だ。化物が狂言を口にしているわけではない。怪異的現象の原因と思われるものが、怪異でないという矛盾。事態が余計にややこしい。
ライトを更に奥へと向ける。強烈な光が地面を舐めて直進する。照らし出されたのは赤い足。三人の足。皮脂だの毛だのが固まり薄い膜を作り皮膚を覆っている。一生風呂に入らないとああなるのだろう。
顔を確認しようと光を上へと移動させかけて、止める。男の腰、下着すら纏っていない真っ裸の腰に注視する。赤いのは足と同じだが、同じ赤色だが、違う。血が滴り、筋が波打っている。
肉が露出している。
「……うっそ……」
思わず声が出て、口を塞ぐ。男たちは特に気にする様子もなく、例の言葉を反芻していた。胸を撫で下ろす。
意表を突かれた。人間と思っていたら、皮膚をひん剥かれた身体を見せつけられた。本当にどういう状況だ。
気を取り直して、再びライトで、今度はさらにゆっくりと男たちの腰を照らす。確認し直しても、やはり肉が露出している。三人揃って剥かれている。痛くないのだろうか。彼らは絶叫こそしているが、痛くて叫んでいるという風ではない。どちらかというと、必死に何か訴えようとしている感じだった。
「アサですよ、もうアサですよ、起きる時間だよ!」
「……ヒルですよ……もう……ヒルですよ遊ぶ時間だ」
「ヨルですよ、もうヨルですよ、眠る時間ですよ!」
朝昼夜。それをひたすら繰り返している。謎ではあるが、まるで支離滅裂というわけではない。規則性がある。意味していることは分からないが。
そして、もう一つ、今丁度気づいたことがある。昼を叫んでいる男の声が、どんどん弱々しくなっている。消え入りそうなほどに。
胸がざわついた。男たちの向こうから、おぞましい気配が近づいてくる。ライトを消し、鞄を前へと背負い直す。中に入っているのは画材だけで、攻撃を防げるだけの厚さはない。こうなるくらいなら、一度も開くことなく終わった業界研究の本でも入れて来るんだった。
「アサですよ、もうアサですよ、起きる時間だよ!」
「……ヒル……ヒルです……」
「ヨルですよ、もうヨルですよ、眠る時間ですよ!」
「アサですよ、もうアサですよ、起きる時間だよ!」
「………………」
昼の声が途切れた。身を屈め、頭を腕でガードする。
「…………」
「……………………」
「………………………………」
「……………………………………………………」
が、が、が、が、が、が、ががががががっががががががっががががががががががががががががががっ………………………………………………………………。
どん。
地面が揺れる。闇の中に放り込まれて結構な時間が経ったのに、まだ目が慣れない。ライトも消したから、もう何も見えない。何が起こっているのか分からない。周りの音だけが頼りだ。さらに耳を澄ます。
「アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ!アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ! アサですよ!」
何かが蠢いている。大きな何かが。地面が微かに揺れる。闇の先で、それは出現した。
3
手。
大きな掌が闇に浮いている。墨汁で塗りつぶしたかのような暗黒の中、それが目視で確認できるのは、掌の輪郭が白く縁どられているからだった。黒い画用紙に白クレヨンで描いた落書きのような物体。この世のものではないし、この次元のものとも思えない物体。スマホのライトで照らせばその姿はより鮮明なものになるのだろうが、もちろんそんな勇気ない。
手は闇の中をゆるゆると旋回していた。男たちは何も言わない。手の出現とともに黙り込んでしまった。もうこの空間に音はない。無音の闇を巨大な手が旋回する様は恐怖を通り越してシュールに感じられる。
手の旋回は徐々に速度を落とし、やがてピタリと止まった。完全な闇に包まれた今、勘でしかないが、あそこは「ヒル」を叫んでいた男のいた所だった気がする。一人だけ「アサヒルヨル」の絶叫から外れ、沈黙した男のいたところだ。
突然、手が降下した。地面に接近し、何かを持ち上げるように人差し指と中指をくっつける。そして、
べりべりべりべり、ぐちゃ
聞いたことのない音、だけど、肉の露出した男たちがよぎり……人皮の剥がれされる音だと分かった。
手はもぞもぞと動き続ける。べりべりと鳴る音はだんだんと静まっていく。ここに来てようやく、腕で頭をガードしたことの過ちに気づく。皮膚を防御に使ったことの間違いに気づく。「ヒル」の男がやられたとすれば次は他の男たちか、私だ。いや、他の男たちはもう皮を剥がされていた。ならば、次は。
べちゃっ。
手が何か放り投げ、再び浮かび上がる。指先が、私の方へと向く。そこからは一瞬で、あのゆったりした旋回が嘘のような速さで、手が私の目前にまで移動した。両腕に鋭い苦痛が広がる。
体をよじり、抵抗を試みる。薄皮一枚繋がっていた皮がプつりと取れ、腕の肉が露わとなる。以前化物に頭をぶん殴られたことがあるが、それとは比較にならない程の激痛。拷問じみた激痛。意識がぶっ飛びかける。が、「ここでトんだら死ぬ」と奥歯を噛みしめて堪える。
手は私の頭につかみかかった。耳と鼻に指をかけ、ミリミリと上へと引っ張っていく。剥がそうとしている。ぐちゃぐちゃになった両手を振り上げ、巨大な手を殴打する。爪を立てて引っ掻く。だが圧倒的に力が足りない。抗いにすらなっていない。視界の下部に黒いものが出現する。肉から引きはがされかけた下瞼だ。噛みしめた奥歯がバキバキ鳴り、血の味が広がる。
「アサですよ」
目前に、目と鼻の先に、「目」が現れた。「口」が現れた。それは顔だった。暗闇なんて関係なくなるほど近くに、私を襲う「手」のすぐ向こうに、肉の露出した顔があった。
「アサですよ!」
例の言葉を絶叫している。「ヒル」が欠けたというのに、「アサ」を口にして………………
…………………………………………………………………………アサ?
それはまるで反射するかのように、意識と切り離されて発せられた言葉だった。
「ヒルですよ!」
私は叫んだ。
「ヒルですよ! ヒルですよ! ヒルですよ! もうヒルですよ! 遊ぶ時間だ!」
顔を掴む「手」に込められた力が、少し緩む。
「ヨルですよ、もうヨルですよ、眠る時間ですよ!」
男が叫ぶ。顔の皮を引っ張る力がふっと消えた。手が顔から離れ、ずり落ちる。闇へと消えていく。吸い込まれていく。
その姿が完全に見えなくなった時、安堵と言うより放心してしまい、私も崩れ落ちた。力が抜けてしまった。ものすごく痛いし疲れているせいで、頭の中が混沌としている。ただ、意識せずとも自然と、言葉が口から出ていた。男たちに、合わせていた。
「ヒルですよ、もうヒルですよ、遊ぶ時間だ」
4
スマホのライトが血で汚れている。袖で拭き取ろうにも、そっちも血でぐしょぐしょなせいで完全には取る事は出来ない。おかげで随分と照らせる範囲が狭くなってしまった。
スマホ片手に自分の血だまりに胡坐をかく。普通なら失血死してそうなほどに血が流れている。気分は最悪だが、死にかけているという感じはしない。というより、血が抜けたからか数分前より少し冷静になれている。現状も多少は見えてきた。
アサ
ヒル
ヨル
それらを繰り返すことで、男たちはあの「手」を封じ込めていた。
違う。
眠らせていた。
あの手は消えるとき、無理矢理封印されるというよりも、意識がプツンと切れた、という風な消失の仕方だった。眠りにつく様に。推測するに、男たちは朝昼夜を唱え続けることで、手を起こし、遊ばせ、眠らせていたのではないだろうか。爆速で、ひたすらに一日を繰り返すことで手の動きを止めていたのではないか。するとヒルの男が沈黙してすぐに手が動き出したのにも説明がつく。私が今しているのは、その代わりということになる。
一方で謎も残ったままだ。手は封印された邪悪だと仮定できても、なら男たちは一体何だ。
人間なのは間違いない。身の皮を剥がされてもなお死なないのは意味不明だが、それについては私も人のことは言えない。
考えられるとしたら、人柱だろうか。男たちの衣服はもはやぼろきれ同然であるため言い切ることはできないが、もし大昔からここにいて、例の言葉で封印を施していたのなら生きているのがおかしい。こんな不衛生で水も食事も娯楽も採れない空間で生きられるのは虫だけだ。
ならば、私のように最近ここに連れてこられたのだろうか。充分考えられる。可能性は高い。
何気なく血だまりをなぞる。不快な生暖かさを持つ液体だ。私の身体を流れているとは思いたくない。そして、それに気が付いた。
地面が赤い。血で赤くなっているのはそうなのだが、それとは別だ。足で血だまりを拭き取る。やはり、赤い。元々地面が赤い。他の箇所もそうなのか。私が見落としていただけか。ライトで遠く照らす。ぼんやりとした心もとない明かりだが、少なくとも地面が黒いことは確認できる。
私の周りだけが赤い。血が地面に染み込んだのだろうか。そんなことあるのか。さらによく見るため、足をワイパーのようにして血を拭き取る。手が使えていたらどれほど楽だっただろう。
体感三十秒ほど経った頃。地面にあるのが「太陽」であることが分かった。太陽の絵だった。「アサ」の象徴だった。
頭の片隅に、閃きが舞い降りる。何の根拠も説得性もない妄想が。更に周りを、可能な限り隅から隅まで照らす。私の考えが正しければ、おそらくは…………
「あった」
そこからはもう、行動に移すのみだった。鞄に画材を入れていたのが奇跡だった。絵の具を取り出し、ライトをつけたスマホを首と肩の間に固定し、筆を振るう。地面に描く。皮がはがれてまともに動かせたものではなかったが、この際上手い下手は気にせず、がむしゃらに描いた。修復した。
朝を。
昼を。
夜を。
筆を、地面から離す。描き上げる。私の推測が正しかったことは、すぐに分かった。なぜなら瞬きほどの一瞬で、私はトイレに戻っていたのだから。
5
「なんで皮膚が剥がれてるんですかね」
別の怪我で通院している病院。藻蛇神先生が恐怖している。包帯で全身ぐるぐる巻きになった私の姿を見て、表情を引き攣らせている。そりゃそういう反応にもなるかという気持ちと、そんなキモいもの見るような目で私を見るな、という二つの気持ちがこみ上げる。
「神崎さん失礼ですが、自傷してませんか」
犯罪に巻き込まれてないですか、ではないのか。
「していません」
「ならもう一度状況を教えていただけますか。なぜ頭と腕の皮が剥がれているんです」
「…………台所で転んだ時に、包丁が絶妙な角度で顔と腕を切っちゃって…………」
「精神科を紹介します。一度診察を受けてみてください」
異常者扱いか。もやもやした感情のまま、それでも一応は手当てを受ける事が出来たため、病院を後にした。
6
女性用トイレで何が起きたのか。ここからはあくまで憶測になる。だが、現にそれで生還できたのだから、完全に間違った考えということもないはずだ。
私はあの手の封印に巻き込まれていたのだ。男たちが「朝」「昼」「夜」を繰り返すことで封を施していた。おそらくかつては地面の絵が、「朝」「昼」「夜」を表す絵が、封印の代わりだったのだろう。私がその存在に気が付いた時にはもうぼろぼろに掠れていて、辛うじて「太陽だ」とわかるほどの状態になっていたが。
そこまで傷ついてしまったのなら当然、封印の効力も失われてしまったのだろう。その代わりに、朝昼夜を告げて封印する役目として引き込まれたのが、多分私だったのだろう。そして私がしたのはただ、その修復を行っただけである。絵を描き直しただけなのである。
……ただ、問題はあの男たちだ。生還して以降姿を見ていない。私と同じような封印に巻き込まれた人達かとも思っていたが、やはり腑に落ちない。あんな大怪我負った状態であんな不衛生な環境に身を置いて、人は生きていられるものなのか。そもそも人だったのか............いや、人のはずだ。
なら一体あれは......?
最後まで読んでいただきありがとうございます!
次回の更新は3/31の13:00になります。




