第1章 救済
あいつは、今日も姿を見せない。
いつもは周りの生徒たち同様、迎えた週明けに気だるさとしょうがなさを見せるものの、空の机を眺める少年にはそれが無かった。
上川泰志は、高校二年生に進級したばかりの五月も終わりを迎える頃、何日も登校して来ない幼馴染である遠藤真由美に対し、不安感を募らせていた。彼女の休みの理由は特別周知されている訳ではなかったために、彼は空いた彼女の机に目を向けるたび、見つからない答えを考えるようになっていた。
このままでは授業に集中できないと考えた泰志は、部活動もなく日の暮れかける頃、隣のクラスを訪ねた。同じく幼馴染で、真由美のことを知る古谷竜二に相談するために。しかし相談といっても、年頃の少年が率直にそのようなことを、まして同い年の同性にまともにすることはない。彼もその例に自然に倣ってしまう。
「竜二、しばらく遠藤見てないよな?」
「ん、ああ」
「うちの担任に一応休みの理由聞いてみないか」
泰志は相談という彼にとって恥ずかしい事柄を、竜二に同意を求める形を取ることでカムフラージュしようとした。安易な、そして安直なアイデアである。
「そうだな。確かに気になるしな」
意外にも竜二は彼の言葉に乗った。逆に不自然なほど流れるように。二人はそれ以上その場では会話を掘り下げることなく、職員室を目指して歩き出した。
「失礼します」
ノックの後扉を開けて一歩職員室内に小さく踏み入れる泰志。竜二は室内を一通り見渡した後、彼を追うように室内へ足を踏み入れる。机に座るクラス担任を見つけた泰志は、初めは恐る恐るの足取りで担任のもとへ歩き始める。その足取りからは徐々に迷いが無くなっていく。
「先生、少し聞きたいことがあるんですが」
泰志は担任の机に辿り着きそうなその時、担任と目が合った瞬間に声をかけた。竜二は彼の後方で黙って様子を伺っている。
「ああ、上川か。どうしたんだ?」
書類を持った手を机上に置き、泰志と竜二に順に視線を向けながら担任は返事をする。
「遠藤…どうかしたんですか?」
竜二は、彼が単刀直入に聞くとは思っていなかったのか、一瞬彼に視線を向ける。担任は一瞬考える様子を見せ、口をもごもごとした後、答える。
「忌引きだよ」
泰志は忌引きの意味を理解していなかったように、少しばかり不思議そうな表情をする。彼にはそういった経験が、物心ついてからは無かった。
「誰が亡くなったんですか?」
言葉を発することができない泰志に代わるかのように竜二が彼の担任に問いかける。少し躊躇するように視線を外した後、担任は口を開く。
「遠藤のお母様だよ」
それを聞いた二人は一瞬の考える表情の後、はっと気付いたように顔を上げる。彼女には兄弟は無く、保護者も母親ただ一人であった。そういった事情もあり、幼い頃から共に時間を過ごす機会が多かった彼女を心配する彼らの気持ちは急激に高まった。彼らは互いに目を合わせた後、担任にそっけなく礼を言い職員室を後にした。
共に帰路に着く二人は、互いに考えていることはなんとなく分かっていても、それを率先して口に出せずにいた。帰宅路は真由美も含めほぼ同じ方向だった。痺れを切らした泰志が、竜二に提案するべく口を開いた。
「遠藤の家に行って様子を確かめるか?」
またしても同意を求める形の問いだったが、問題は皆無だった。
「そうだな」
竜二はその問いを待っていたかのように二つ返事だった。先程までの迷いを混じらせた足取りはその瞬間から消えていた。
真由美の家は、彼らの家から少しばかり離れた場所に並ぶ集合住宅の一つ。真由美の唯一の身内である母親は、仕事を続けながら女手一つで彼女を育てていた。彼女の家に近付くほどに、彼らは母親を亡くした彼女の負った心の傷を徐々に感じ始めていた。
彼女の家のある棟の下にたどり着いた二人は、彼女の住む部屋の窓へ視線を向ける。三階にあるその場所は、上下の部屋に挟まれ、この瞬間はどこか寂しく、圧迫されているように見える。下からは部屋の中に人がいるかどうかは分からない。この季節、彼らの下校時間帯は太陽が最後の日を照らしている。
しばらく見上げた後、二人はゆっくりと踏み出し階段を登り始めた。これまでに、これほど足取り重くこの階段を登った経験は二人には無かった。登り慣れているはずなのに、訳の分からぬところで足を小さく滑らせる。それでも二人は一列になり三階を目指す。残り五段というところで先を行く泰志は彼女の家の玄関扉を見上げる。どこか悲しみを感じるように、静かにそびえる扉がそこにはあるだけだった。
二人で立つには少し狭く感じる玄関前の踊り場で、二人は扉と互いの目に交互に視線を移す。気まずさに先に耐えきれなくなった泰志は、インターホンを押す。その指は、中から返事が聞こえるのを待つように、押した後もボタンの前に留まる。しかし中から返事が返ってくることは無かった。
「…出掛けてるんじゃないか?」
竜二は自身の不安を掻き消そうとするかのように、小さめの声で言った。しかし彼の泰志へ向けるその表情には、この場でできる他の方法はないかと提案していた。ようやくインターホンの前から手を下ろした泰志は、その手を続けて玄関のドアノブに伸ばした。冷えたドアノブを握った彼の手は一瞬力が緩むも、すぐさま力を入れて握り直した。恐らく開いてはいないだろうと、腕の力を抜き上体を後ろに傾けながら引いた扉は、若干の錆びれた音を立てながら大きく開いた。少し開いた扉をしばらく眺めた二人は、躊躇しつつも部屋の中を覗き込んだ。整理された玄関周りの中に、乱雑に脱ぎ捨てられた彼女の登校靴の存在が際立つ。
「遠藤…?」
ドアを開けている泰志に代わるように、竜二は室内に向かって呼びかける。当然のように返事は返ってはこない。それどころか、物音一つしない。彼らは迷いを見せつつも、扉を大きく開き玄関へ足を踏み入れる。錆びれた音を再び立てながら閉まる扉の音をもってしても、その静寂を破ることはかなわなかった。
「遠藤!…」
泰志は自身の不安感を掻き消すかのように声を出して真由美を呼ぶ。しかし、それを嘲笑うかのようになおも静寂が包み込む。二人は、これは仕方ないだろうと互いの意思を確認し、ゆっくりと靴を脱ぎ部屋へ上がった。玄関から正面はすぐ彼女の母親の部屋だった。非常に整理された部屋が、彼女の母親の几帳面さを物語る。左手には二人が食事を共にしていたであろう食卓が部屋の中央に綺麗に佇んでいる。二人は右手に視線を移す。奥には台所が、誰かの使用を待っているかのように銀色のシンクを輝かせている。二人は高校生になってからは真由美の部屋に足を踏み入れたことがない。台所の左手がその未踏の地だ。
小中学生の頃には、バルコニーへ出るためのガラス戸の横に彼女の勉強机があった。彼女の母親に招かれ、出されたお菓子をつまみながら勉強する彼女を横目に談笑した記憶が蘇る。真由美は成績優秀だった。しかし二人が訪れた時は、思春期真っ只中の中学生時代に多少の嫌な顔を見せつつも、一度も彼らを拒むことはなかった。ペンを離さず彼らの話に加わり、私も食べるとお菓子に手を伸ばす彼女の姿を思い出しつつ、二人はその部屋を覗く。
他の部屋とはまるで別の家かのように、彼女の部屋は散らかっていた。脱ぎ捨てられた制服が床に放り出され、机上のペン立ては流れ出た水のように倒れて中身が溢れ出ていた。その様を二人にはっきりと見せるように、窓からの沈みゆく日差しと少し開いた窓から吹き込む風で揺れるカーテンしかそこにはなかった。ただ一つ、彼女の机上に小さく光る物体を除いて。
二人は、彼女の痕跡と足の踏み場を探すように部屋の中を見渡す。他の部屋とは違い、確かにそこには傷心していたであろう真由美の痕跡がある。二人はしばらくしてようやく部屋に小さな一歩を踏み入れた。几帳面な彼女からは想像できなかった、床に落ちる制服を避けながら部屋の奥にある勉強机を目指して歩く。
その途中、机上に輝く銀色の立方体に目を奪われる。彼女の部屋には似つかわしくない。それどころか、この世界にすら似つかわしくない程に、窓からの日差しに鏡面反射した光で小さくも妖艶に光る。
二人は恐る恐る手を触れる。しかし何も起きることはない。角度を変えることで光を反射し、二人の謎をただ深めるのみだった。ただこの部屋に、何より真由美という人間の机の上にそれがあることは確かに妙だという感覚だけが残る。竜二は心に引っかかりはあるものの、見えぬ彼女の姿に諦めの表情を見せる。
「出掛けてるんだよきっと」
竜二は風で揺れるカーテンを落ち着かせるため窓を閉める。揺れ落ちたカーテンの下端が窓に挟まる。彼はそれを引き抜くか否かちょっとした迷いを見せている。窓を閉める音を機に、泰志は手に持った銀色の立方体を彼女の机上に丁寧に置いた。
「遠藤…」
泰志が真由美の名前を小さく呼んだ。その瞬間、それに呼応するように立方体から眩い光が放たれる。二人の驚きの表情は瞬く間に光の中に消えていった。彼女の部屋には、カーテンが挟まり隙間のできた窓から流れ出る、風の通り抜ける小さな音のみが響いていた。




