婚約破棄されて「死んだこと」にされたので、自分の葬式で殿下の弔辞を訂正しました
「故人エルネは、家族も故郷も捨て、自ら望んで王家に生涯を捧げました」
「訂正を」
私は、棺の隣で立ち上がった。
自分の葬儀で、初めて口を開いた。
「家族を捨てたのではありません。故郷で行われた母の葬儀への参列を、王家に許されなかったのです」
ジェラル殿下が、弔辞を持つ手を下ろした。
誰も声を上げなかった。
祭壇の前に立つ司祭が片手を上げ、殿下を制した。祭壇右手の記録机で、止まっていた筆が動き始める。
王家への献身。
そう記されるはずだった一行に、母の葬儀へ行けなかった事実が書き加えられていく。
祭壇の中央には、蓋を開けた棺が置かれていた。
中は空だった。
死ぬ予定の私は、つい先ほどまでその隣に座っていた。
棺の内側には、深い赤の布が張られていた。縁には金糸、足元には白い花。
死体がないことを除けば、立派な棺だった。
生葬が成立すれば、私の代わりに、王家から賜ったドレスと装身具が納められる。
生きたまま、この国から名前だけを葬られるからだ。
王太子妃候補の生葬は、処分が正当な手続きによるものだと示すため、国内外の立会人を置いて行われる。
参列者の列には、その立会人たちが並んでいた。
誰も私を見なかった。
喪服を着て棺の隣に立った女は、もう人として見てはならないらしい。
その中で、神殿書記のノアだけが、私の言葉を追っていた。
王太子の婚約者は、年に一度、神殿で誓約を更新する。その記録を、この七年、書き取ってきたのが彼だった。
誓約のたび、ノアは同じ問いを口にした。
「この婚約は、今もあなた自身の望みですか」
母が亡くなった年、私は長く黙った末に、はい、と答えた。
記録を終えたノアは、顔を上げずに言った。
「定型の文でない答えでも、私は、そのまま記録いたします」
その言葉を、私は忘れたことがなかった。
ノアは、弔辞の一行に細い線を引いた。
その下へ、私の言葉を一字も削らず書き加える。
「訂正を記録しました」
神殿から渡された手順書に、記されていたとおりだった。
◇
「故人は私的な望みを持たず、常に、王太子たる私の判断を尊重しました」
「訂正を」
私はジェラル殿下の言葉を制した。
「望みを持たなかったのではありません。口にしなくなったのです。十六歳の誕生日に、家族と一日を過ごしたいと申し上げました。王太子妃となる者が、自分のために時間を求めるものではないと教えられました。それから私は、自分のための望みを申し上げたことはございません」
殿下は口を開かなかった。
記録机で、筆が動いた。
「訂正を記録しました」
ノアの声は、さっきと同じ高さだった。
殿下が次を読む。
「故人は、王太子たる私を常に立て、決して──」
そこで殿下は言葉を切った。
巻紙を大きく繰る。
「──以上をもって、故人の生涯を、王家は永く記憶するものとする」
弔辞は、そこで終わった。
巻紙には、まだ読まれていない文字が残っていた。
司祭はそれを咎めなかった。
受け取った弔辞を祭壇へ置き、代わりに、王家の封蝋が押された別の巻紙を取り上げた。
「続いて、死者処分申立書の確認へ移ります」
ジェラル殿下の手が止まった。
「それは神殿書記に読ませよ」
「申立人ご自身の声による確認が、生葬成立の条件でございます」
司祭の答えは、事務的だった。
殿下が、記録机のほうへ目をやる。
ノアは、筆を止めていた。
殿下と目を合わせもせず、代読を引き受ける気配もなかった。
殿下はノアから目をそらし、手元の巻紙へ視線を戻した。
その後ろで、リディアが両手を組んでいた。
ひと月前、殿下が婚約の破棄を告げた時にも、彼女の名が出た。
◇
城の一室で、殿下は穏やかだった。
「君を罰したいわけではない。ただ、今後も君が王太子妃候補として扱われ続ければ、リディアが苦しむ」
リディアも、その部屋にいた。
淡い金色の髪に、真珠の髪飾りをつけ、殿下の半歩後ろに立っていた。
王太子妃候補へ贈られる、王家の真珠だった。
「私はただ、皆がエルネ様と私を比べるのをやめてほしいと申し上げただけです」
リディアは、私ではなく殿下を見て言った。
「分かっている。そのために必要な処置だ」
殿下が答えると、リディアは、それ以上、何も言わなかった。
「ですから、私は死者になるのですか」
「そう言うな。名を捨てて、静かに暮らすだけだ」
一度は、それでもいいと思いかけた。
母が亡くなった夜を思い出さなければ、そう答えていたかもしれない。
あの夜、私は王家の晩餐会で、隣国の使節に杯を上げていた。母が土へ還される時刻に、王家を支える献身的な婚約者だと褒められていた。
「領地も、暮らしの費えも、こちらで用意する。何も不自由はさせない」
殿下はそれを慈悲だと思っていた。
その顔に、迷いはなかった。
話が終わると、侍従が、封をした一冊を私へ差し出した。
「神殿から、対象者へお渡しするようにと」
表紙には、『生葬手順書』と記されていた。
「儀式では、司祭の指示に従えばよい」
殿下は、それだけ言った。
私は手順書を持って、部屋を出た。
その夜、最初の頁から最後の頁まで読んだ。
自分がどのように死者にされるのかくらい、自分で知っておきたかった。
◇
司祭が封蝋を割った。
巻紙が、殿下の手に戻される。
殿下はしばらくそれを見ていた。
それから読み始めた。
「申立人、王太子ジェラル。対象者、エルネ。同意人、次期王太子妃候補リディア。右の者、王家との婚約により、王家の内情に深く通じるに至った。その知識は、対象者が他家に属した場合、王家の安寧を損なうおそれがある。ゆえに、旧名および王家との婚姻資格の抹消を、ここに申し立てる」
殿下は、読み終えてホッとしたように巻紙を下ろしかけた。
「確認を」
司祭が、記録机のノアへ告げた。
ノアは、新しい頁を開け、ジェラル殿下に問いた。
「対象者エルネに、機密漏洩の事実はございますか」
「……ない」
「他国、または他家から、機密の提供を求められた事実は」
「ない」
「守秘の誓約に違反した事実は」
「ない」
殿下の指が、巻紙の縁を歪めていた。
「以上、対象者による違反の事実は、すべて否定されました」
司祭が、殿下へ向き直った。
「違反がないのであれば、守秘を誓わせ、他家との婚姻を禁じるだけでは足りないとした理由を、補充理由書からお答えください」
司祭が続ける。
「死者処分には、通常の措置で王家を守れない理由の記録が必要です。その理由が正当であったかは、成立後、王位継承審議会が審査いたします」
殿下の指が、巻紙の下のほうで止まる。
そこに、殿下自身の字で書かれた一節があった。
殿下はそれを読まなかった。
「その必要はない。理由は、今読んだとおりだ」
「補充理由書を朗読しなければ、生葬の手続きは成立いたしません」
「ならば、生葬を中止する」
司祭は殿下を見た。
「その場合、エルネ様は生者として身分を保持し、王家の監督下へ戻られます」
殿下は固まった。
それだけはどうしても避けたかった。
「……」
無音の時間が続く。
しぶしぶと、諦めたように殿下は巻紙を持ち直した。
「補充理由書。対象者は長年、王太子妃候補を務め、その資質を広く認められてきた」
声が硬い。
「対象者が生きている限り、新たな王太子妃は対象者と比較される。対象者を支持する者が集まり、王家の分裂を招くおそれもある」
殿下は一度、言葉を止めた。
「守秘を誓わせ、他家との婚姻を禁じても、対象者の名と影響は残る。ゆえに対象者の名と身分を抹消し、いずれの家にも属さない死者とする必要がある」
読み終えて、殿下は巻紙を下ろした。
続きはなかった。
参列者たちはもう目を伏せず、ジェラル殿下を見ていた。
参列席の奥では、隣国の使節が、ノアの筆先を確かめるように見ていた。
「同意人リディア様」
司祭が、殿下の後ろへ目を向けた。
「補充理由書には、あなたの同意署名がございます。こちらは、御本人のものに相違ございませんか」
リディアが、髪に挿した王家の真珠へ触れた。
「……相違、ございません」
「対象者エルネが死者となることで、あなたが次期王太子妃候補の席を得ることも、承知しておられましたか」
沈黙が落ちた。
リディアはうなだれながら答えた。
「承知しておりました」
ノアが、その答えを書き取った。
書き終えて、顔を上げる。
ノアと一度だけ、目が合った。
表情が、少し柔らかく感じた。
司祭が、私へ向き直った。
「対象者エルネ。補充理由書に記された処分理由について、訂正はございますか」
「訂正は、ございません」
ジェラル殿下が、おそるおそる顔を上げた。
「私が王家へ害をなしたとは、どこにも書かれておりません」
私は殿下をはっきりと見た。
「私の名と評価が残り、邪魔だから、私を死者にする。そのように、ここには記されております」
殿下は何も言えなかった。
そのすぐ後ろで、リディアは、王家の真珠へ手をやったまま、うつむいていた。
◇
「最後に、生葬の成立後、どの保護下で新しい身分を得るか確認いたします」
司祭が、私へ向き直った。
「王家、修道院、神殿のいずれの保護を望みますか」
殿下は、私が王家の保護を選ぶと思っていただろう。
名もなく、王家の目の届く場所で、暮らしていくのだと。
「神殿の保護を望みます」
私は答えた。
ジェラル殿下が顔色を悪くしながら声を上げた。
「認めない。王家の領地を用意してある」
「どの保護を受けるかは、御本人がお選びになります」
司祭が、そう告げる。
「神殿の保護下で新しい身分を得た者は、その後の居住地を御本人がお選びになります。一度神殿が引き受ければ、王家へ身柄を渡すことはできません」
「ならば、生葬を──」
言いかけて、殿下は言葉を止めた。
ここで生葬を中止すれば、私はエルネとして、生き続ける。
すべてを知り、殿下の脅威になるものとして。
「……続けろ」
殿下はもう一度、私を死者にするほうを選んだ。
◇
司祭が、死亡証書を祭壇へ広げた。
旧名で署名するようにと、私に告げる。
私は筆を執った。
迷いはなかった。
署名を拒めば、私はエルネのまま、王家の監督下へ戻る。
この名を残すことと、王家の外へ出ることは、両立しなかった。
私は、エルネと署名した。
自分の手で、その名を終わらせた。
署名を検めた司祭は、死亡証書をそのまま神殿の保護台帳へ綴じ込んだ。
「これをもって、エルネの生葬は、成立いたしました」
それから司祭は、もう一枚の書類を取り上げた。
「申立書と補充理由書の写しは、神殿から王位継承審議会へ送付いたします」
ジェラル殿下が顔を上げた。
「王位を継ぐ者が、罪のない者を死者にした。その判断が次代の王にふさわしいか、審議会が判ずることになります」
鐘が鳴った。
神殿の者が、出口への道を空けた。
私は棺に背を向けた。
「エルネ」
ジェラル殿下の声が、背中に届いた。
その声は弱々しかった。
足は止めなかった。
その名で呼ばれても応じてはならない。それが、生葬の最後の作法だった。
「エルネ、待て」
殿下が一歩踏み出した。
「殿下」
司祭が、死亡証書を綴じた保護台帳を示した。
「その名の女性は、先ほど、殿下ご自身が、お亡くしになりました」
殿下は足を止め下を向いた。
もうどうすることもできなかった。
◇
神殿の保護を選んだ者の新しい名は、王家へ知らされない。
身分登録は、葬儀を行った場所とは別の神殿で行われる。
生葬の記録を引き継ぐノアは、死亡証書の謄本を携え、私と同じ馬車に乗った。
指定された神殿までは、四日かかった。
箱馬車では、年配の侍女が、私とノアの向かいに座った。
城の門を出るとき、一度だけ、後ろを振り返った。
七年暮らした場所に残っているのは、私の沈黙を献身と記した記録ばかりだった。
そのまま、前を向いた。
二日目の夜、街道沿いの宿で、食事が出た。
卓に、白いパンと、黒いパンが並んでいた。
黒いパンから、好きな香草の匂いがした。
「黒いほうを」
私は言った。
ノアは、黒パンの籠を、私の手の届く場所へ寄せた。
「私も、こちらが好きです」
「香草が、お好きなのですか」
「いいえ。白いパンより、少し安いので」
思わず彼を見た。
ノアは真面目な顔をしていた。
笑ってよいのだと気づくまで、少し時間がかかった。
侍女が、口元を隠して笑っていた。
彼の意外な一面を知れて、その夜私は久しぶりによく眠れた。
◇
三日目、窓の外に、幅の広い川が見えた。
城と神殿を往復するだけの七年で、私はこの国のことを、何も知らずにいた。
「あの川を越えれば、神殿はもう近いのですか」
私は、ノアに尋ねた。
「はい。おそらく」
「記録には詳しいのですが、道には、あまり」
向かいの侍女が、首を振った。
「神殿は、まだ明日ですよ」
ノアは黙って窓の外へ顔を向けた。
耳だけが、少し赤くなっていた。
「では」
私は話を変えた。
「行ったことのある場所で、好きなところは、ありますか」
ノアは少し考えた。
「王都の、南門です」
「景色が、よいのですか」
「焼き栗の屋台が、あります」
真剣な口ぶりだった。
この人は、甘いものが好きらしい。
そういうことを尋ねてよいのだと、私は知らずにいた。
尋ねれば、答えが返ってくる。
当たり前のことが、私には、ずいぶん久しぶりだった。
「私からも、一つ、お尋ねしてよろしいですか」
「毎年、誓約が終わると、あなたは神殿の中庭で、鐘が鳴り終わるまで立っておられました」
私は彼を見た。
「……見ていたのですか」
「記録には残しておりませんが」
ノアは窓の外へ目を向けた。
「なぜ、鐘が鳴り終わるまで、あそこにおられたのですか」
「母の故郷の鐘と、音が似ていたのです。城へ戻る前に、もう一度だけ聞いておきたくて」
誰にも話したことはなかった。
ノアはそれを記録に残さず、覚えていた。
◇
翌日、神殿で、ノアが一枚の紙を私の前に置いた。
白紙の、身分登録書だった。
「ここには、死んだ人の名前は、書けません。これから生きる人の名前を、お決めください」
私は筆を受け取った。
エルネを捨てたいわけではなかった。
だから、その響きを少しだけ残した。
エレン、と。
書き終えて顔を上げると、ノアがそれを読んでいた。
毎年、誓約の日にそうしていたように。
けれど、問いは、以前とは違った。
「この先、その名で生きることは、あなた自身の望みですか」
「はい」
私は迷わず答えた。
ノアが、その名を声に出して呼んだ。
「エレン」
私を、その名で呼んだ最初の人だった。
呼ばれて、私は返事をした。
「これから暮らす場所は、どちらになさいますか」
ノアが、居住地の欄を示した。
「母の故郷へ」
葬儀には間に合わなかった。
墓前に供えるはずだった花も、とっくに枯れている。
それでも、今度は、誰の許可も要らなかった。
身分登録書とともに、半年分の定着金が渡された。
その先をどう生きるか、自分で決めるための短い猶予だった。
ノアが、身分登録書へ神殿印を押した。
これで、葬儀から続いていた彼の記録の仕事は、すべて終わった。
「母の故郷では、春に、市が開かれます」
私は言った。
「その頃に、お訪ねしても、よろしいですか」
ノアが、尋ねる。
「はい」
私はうなずいた。
「次にお会いするときも、エレンと呼んでくださいませ」
◇
母の故郷へ着いたのは、冬の初めだった。
宿の女将は、マルタといった。
貸してもよい部屋を尋ねると、二つ紹介された。
一つは広く、通りに近い。
もう一つは狭いが、南向きの窓があった。
「どちらでも」
そう言いかけて、私は、窓辺へ近づいた。
冬の低い日差しが、床の半分まで届いている。
「こちらにします」
「狭いほうで、よろしいので」
「はい。朝は明るい部屋が、好きですから」
口にしてから、自分の好きなものを初めて知った。
王家では、私の部屋は北向きだった。
嫌だと、言ったことはなかった。
◇
母の故郷で暮らし始めて間もなく、私はマルタの宿を手伝った。
異国の商人から届いた手紙を、マルタが読めずに困っていた。
私はそれを読み、返事を書いた。
王宮での経験が唯一役に立った。
数日後、マルタが、あらたまって私に言った。
「この前は助かったよ。おかげで無事に取引出来たし。良かったらまた手伝ってくれるかい。その分、部屋代をまけるよ」
私は、少し考えてから答えた。
「どの仕事を、どれだけ引き受ければ、いくら分になるのか。それを、先に決めてください」
マルタが目を瞬いた。
「細かいねえ」
「引き受ける範囲を、自分で知っておきたいのです」
「それだけやる気があるなら、他の仕事もやってくれると助かるよ。その分の報酬は出す」
以前の私なら、役に立てるだけで十分だと答えていた。
もう、そうは答えなかった。
週に二度、手紙を読み、返事を書き、勘定を確かめる。
一回ごとの賃金を決め、月末に、部屋代を差し引いて精算する。
小さな仕事だった。
けれど、私が自分で範囲を決めた、初めての仕事だった。
冬のあいだに、その仕事は、暮らしの一部になった。
◇
ひと月目の終わりに、マルタは、部屋代を差し引いた賃金を、小さな布袋へ入れて渡してくれた。
掌の硬貨は、王家から与えられた宝石より軽かった。
それでも、私にとってはなによりも重く感じた。
翌日、私は花屋へ寄った。
冬にも枯れにくい白い花と、手紙を書くための紙を三枚選んだ。
「贈り物かい、エレン」
花屋の女に、尋ねられた。
「花は、母へ」
私は紙の束へ目を落とした。
「こちらは、返事を書くために」
◇
その足で、私は母の墓へ向かった。
墓は、村のはずれにあった。
墓石には、母の名が刻まれていた。
私は枯れた花を取り除き、白い花を置いた。
「エレンです」
母が知らない名を声に出した。
「遅くなりました」
墓石へ触れると、指先に、冷たさが伝わった。
刻まれた母の名を、指でゆっくりとなぞる。
「南向きの部屋を、借りました。朝になると、窓から日が入ります」
「宿で、週に二度、働いています。今日の花は、その報酬で買いました」
白い花が、冬の風に小さく揺れた。
「まだ、慣れないことばかりです。でも、朝が来るのを、嫌だと思わなくなりました」
母の葬儀に、私はいなかった。
けれど、母の墓前に立つのに、もう、誰の許しも要らなかった。
買ってきた紙は、南向きの窓辺に置いた。
◇
冬の終わり、神殿から、審議の結果を記した書面が届いた。
王太子ジェラルは、王太子位を解かれた。
現実に害をなしていない婚約者を、その名と影響を消すために死者にした。そのような者を、次の王にはできない。審議会は、そう判じたとあった。
殿下は王都を離れ、王家の領地で暮らす。生活の費えは王家が負担し、何も不自由はさせない。ただし、許可なく領地を出ることはできず、政務への関与と、王族の名による命令を禁じられた。
リディアも、王太子妃候補の資格を解かれた。
王家の真珠は返還され、以後、宮廷への出入りを禁じられた。
彼女の家は、殿下に命じられただけだと訴えたという。
けれど申立書には、リディア自身の署名が残っている。
「ずいぶん、穏やかな処分だね」
書面を覗き込んで、マルタが言った。
「そうですね」
書面の終わりに、もう一つ記されていた。
生葬の取消しを望むか、と。
私は希望欄に、望みません、と書いた。
その下へ、エレンと署名した。
◇
それから間もなく、私宛ての手紙が届いた。
「エレン、あんたにだよ」
マルタから渡された封筒には、見慣れた字でエレン、と書かれていた。
王家の称号も家名もない。
差出人はノアだった。
『春市は、雪解けから二度目の満月のあとと伺いました。日を違えれば、私は焼き栗のない広場で一人になるため、正しい日をお教えください』
「ずいぶん、真面目な恋文だね」
肩越しに見ていたマルタが言った。
「恋文では、ありません」
「じゃあ、なんで笑ってるんだい」
私は口元へ手をやった。
笑っていたことに、言われるまで気づかなかった。
返事を書くため、机へ向かった。
王家にいた頃の手紙は、挨拶も季節の言葉も、書く順まで決められていた。
今は何を書いてもよかった。
その自由を前にすると、最初の一行がなかなか決まらなかった。
私は一度筆を置いた。
それから、ノアが七年してくれたように、自分の言葉が出てくるのを待った。
『ノア様。春市は、雪解けから二度目の満月の翌日です。焼き栗の店は、広場の東側に出ます。その屋台で、お待ちしております』
最後に、エレン、と署名した。
◇
春が来た。
市の立つ日、私は広場の東側へ向かった。
ノアと約束した焼き栗屋台が出ている。
屋台の前には、灰色の外套を着た彼が立っていた。
手に記録帳はなかった。
「ノア」
彼の名を呼ぶのは、初めてだった。
ノアが振り向く。
「あなたが私の名を呼ぶのを、待っていました」
「お待たせしました」
ノアが、わずかに息を吐いた。
二人で屋台の列に並んだ。
「王都の南門よりおいしいか、確かめましょう」
「覚えていたのですか」
「記録には、残しておりませんが」
焼き栗を一袋買い、二人で分けた。
ノアは一つ食べると、しばらく黙っていた。
「どちらが、おいしいですか」
「こちらです」
「すぐに、お決めになるのですね」
「こちらでは、一人で食べなくて済みますから」
今度は私が黙る番だった。
ノアが少し不安そうに私を見る。
「書記としてではなく、これからも、あなたの隣にいたいのです」
私は、すぐには答えなかった。
「訂正は、ございません」
ノアが笑った。
私は焼き栗の袋を片手に持ち替え、空いた手を差し出した。
ノアは少し目を見開き、その手を取った。
手をつないだまま、二人で春市の人混みへ歩き出した。
春の風が私の新しい居場所を包んだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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