第1話 処刑台の上で、彼女はまだ自分の名前を知らない
第1話から構成を見直しました。
春の終わりだった。
風は少しだけ湿っていて、頬に触れるたびに、妙に現実感があった。
冬野ひかりは、屋上のフェンスに寄りかかって空を見ていた。
特別な理由はない。
ただ、教室に戻る気になれなかっただけだ。
「……はぁ」
ため息は、自分でも驚くくらい長く伸びた。
誰かに嫌われているわけじゃない。
でも、誰かに必要とされているわけでもない。
クラスの中での自分は、ちょうど“透明と背景の間”みたいな存在だった。
あと一年ちょっとで卒業して、大学に行って、就職して、結婚して。
たぶん、そうなる。
全部「たぶん」でできている人生だと思った。
そのときだった。
風が、少しだけ強く吹いた。
「あ」
足元が、消えた。
正確には、消えたと思った瞬間にはもう遅かった。
視界が反転し、身体が浮く。
冷たい感覚と、落下の感覚と、理解できない現実が一瞬で重なる。
そして――。
目を開けたとき、そこは空ではなかった。
木の匂いがした。
冷たい板の感触。
そして、手首に食い込む縄の痛み。
「……え?」
ひかりは、ゆっくりと視線を上げた。
銀色の刃が、そこにあった。
半円を描く処刑具。
その下には、自分の首が通る穴。
「悪女クラリス・ヴェルディアナ」
知らない声が、上から落ちてくる。
「王太子妃殺害未遂、毒物使用、及び民衆への暴行の罪により、これより処刑を執行する」
ざわ、と周囲が揺れた。
ひかりは理解できなかった。
理解できないのに、身体だけが震えている。
広場。
人、人、人。
無数の視線が、自分に向いている。
怒り。
軽蔑。
そして、少しだけ――期待。
「……あの」
声が漏れた。
喉が乾いていた。
「私……何もしてないんですけど……」
その瞬間。
空気が止まった。
完全に、止まった。
誰かが息を呑む音さえ、聞こえない。
ひかりは慌てて続けた。
「本当に、何も知らなくて……さっきまで屋上にいて……えっと、ここどこで……」
言葉が途中で崩れる。
理由は簡単だった。
口が、勝手に動いている。
知らない言葉。
知らない抑揚。
けれど中身だけは、紛れもなく自分のものだった。
「最期に、言い残すことは」
執行官の声。
ひかりは息を吸った。
怖い。
いやだ。
死にたくない。
でもそれ以上に――
「……あの」
出てきた言葉は、あまりにも弱くて、あまりにも普通だった。
「私、本当に、何もしてないんですけど……」
沈黙。
そして、どこかで笑い声が聞こえた。
次の瞬間。
最前列の男たちが見えた。
金髪の青年。
整いすぎた顔に、冷たい色を宿した王太子。
その隣に、剣に手をかけた黒髪の騎士。
そして、泣きそうな銀髪の少年。
その全員が、同じ名前を呼ぶ。
「クラリス」
――その瞬間、ひかりは理解する。
ここは、知らない世界だ。
そして、自分は――
誰かの罪で、殺される側の人間になっている。
喉の奥が、ひりつく。
それでもひかりは、ゆっくりと頭を下げた。
縄に縛られたまま、不格好に。
「すみません」
「たぶん、私、別人です」
ざわり、と空気が揺れた。
その言葉は、嘘ではなかった。
ただの事実だった。
なのに――誰も信じなかった。
最初に動いたのは、黒髪の騎士だった。
「……執行を、待て」
鋭い声。
王太子が振り返る。
「ジルベール、何を言っている」
「この女は」
騎士の視線が、ひかりに刺さる。
「クラリス様ではありません」
その一言が、世界を少しだけ歪ませた。
ひかりはまだ知らない。
この瞬間が、すべての誤解と執着と救済の始まりだったことを。
そして――
誰かが初めて、彼女ではなく彼女の中の誰かを見た瞬間だったことを。




