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選ばなかった人生の博物館  作者: カイト
第四部 扉の前に立つ者たち

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第十七章 存在しない朝

二月十四日 午前八時〇四分


 朝になっても、資料館の中には夜が残っていた。


 地下二階の照明は閉館後の暗い設定のまま、足元だけを照らしている。


 その先に、黄色い扉。


 澪は一時間以上、扉の前にいた。


 開けなかった。


 離れもしなかった。


 向こうから、こよみの生活音だけが届いていた。


 包丁。


 冷蔵庫。


 椅子を引く音。


 一度だけ、くしゃみ。


 そのたび身体が反応する。


 今、台所にいる。


 林檎を切っている。


 そう思ってしまう。


 しかし本当に現在のこよみの家が向こうにある保証はない。第零が澪を誘導するために作った境界かもしれない。


「まだいたの」


 環が紙コップを二つ持って来た。


「コーヒー」


「ありがとうございます」


 砂糖なし。


 澪が普段飲むものと同じ。


 環が覚えていたのか。偶然か。


 以前なら気にしなかったことまで、理由を考える。


「開けないのね」


「はい」


「意外」


「開けたいです。だから開けません」


「こよみに会いたいから」


「はい」


 澪は否定しない。


「少し離れた方がいい」


「そのつもりです」


 一歩下がる。


 向こうの生活音が止まった。


「行くの?」


 扉越しの声。


 澪は答えない。


「お母さん。行っちゃう?」


 身体が動きかける。


「今は答えません」


 環へ向かって言う。


 こよみにも聞こえた。


 しばらくして。


「分かった」


 足音が遠ざかる。


「十二歳とは思えない」


 環が言う。


「待てるところ」


「待てるんじゃないと思います。待つことに慣れすぎた」


 環は何も言わなかった。


 二人が監視室へ戻ろうとした瞬間、館内放送。


「地上区画で履歴不整合。外部地図が変化しています」


 環が端末を開く。


「詳細を」


「資料館正面の道路名と接続先が違います」


 地上へ走る。


 午前八時十三分。


 正面玄関の外。


 朝の街。海。道路。車。人。


 一見、普通。


 だが左へ続くはずの大通りが、途中で細くなり、見慣れない商店街へつながっている。


 古い建物。赤い日よけ。


 現実世界には存在しない。


 三種類の地図を開く。


 国土地理記録。


 自治体道路情報。


 資料館内部端末。


 すべて違う。


 一つでは従来どおり。


 一つでは商店街。


 一つでは道路自体がない。


「外部通信先によって、参照している履歴が違います」


 設備担当が言う。


 作業着の男が、玄関へ近づいてくる。


「すみません。ここ、病院の裏口じゃなかったですか」


 第零側では、この土地は市立北浜医療センター。


「あなたには、ここが何に見えますか」


「北浜医療センター新館。工事中の」


「未生記憶資料館をご存じですか」


「何の?」


 その横を、別の女が通る。資料館を見て立ち止まる。


「今日は休館ですか」


「ここが何か分かりますか」


「資料館でしょう」


 同じ場所を、二人が違うものとして認識している。


 男と女が互いを見る。


「ここ病院ですよ」


「何を言ってるんですか」


 冗談だと思えない顔へ変わる。


「玄関を封鎖。一般人を近づけないで」


「説明は」


「ガス漏れでいい」


 混線域。


 資料館を中心に半径四百メートル。


 四百二十。


 増えている。


「破棄を再開できれば、抑えられる可能性はある」


 環が言う。


「第零は」


「急速に弱まる」


「人々は」


「消える可能性が高い」


「今は戻しません」


「被害が外へ出ても?」


「はい。今は」


 永久の判断ではない。


 現在の時点での選択。


 午前八時三十七分。


 凪から本人の通信。


「姉ちゃん」


「起きたの」


「うん」


「状態は」


「頭痛い。吐き気。あと、灯の顔を一回誰か分からなかった」


「今は」


「分かる」


「よかった」


 言ったあと、自分には灯の顔が分からないことを、凪へは言わなかった。


「食堂が消えた」


「何?」


「物件。灯が不動産屋へ連絡したら、契約書の住所が変わってた。同じ場所に、別の店がある」


「契約記録は」


「ない。私たち、その物件を契約したことになってない」


 来年四月。


 西口商店街。


 小さな食堂。


 おかえり。


 まだ始まっていない未来だから、履歴の境界で先に消えた。


「写真は」


「灯の端末にはある。私のにはない」


 同じ現在世界の二人でも、記憶がずれ始めている。


「これ、そっちのせい?」


「可能性が高い」


「姉ちゃんが止めたから」


「はい」


 沈黙。


「そっか」


 それだけ。


「ごめん」


「謝んないで。私は止めてって言ってない」


「それでも」


「姉ちゃんが決めたんでしょ」


 澪は口を閉じる。


「私が怒るかまで先に決めないで」


「怒ってる?」


「食堂のことは、めちゃくちゃ腹立ってる。姉ちゃんにも、ちょっと」


「はい」


「でも、まだ止めろとは言わない」


「なぜ」


「こよみって子も、十三歳になったら海に行きたいんでしょ」


「紙を見たの」


「病院でポケットから落ちてた。勝手にごめん」


「いい」


「食堂やりたい私と、海へ行きたいその子で、どっちが偉いとかないでしょ」


「ない」


「だから、もう少し分かってから決めて。ただ、私の未来が消えたことは忘れないで」


 澪は一瞬ためらう。


「紙に書いて」


 凪が先に言った。


「分かりました」


 通信終了。


 澪は書く。


 冬木凪・三枝灯。来年四月、西口商店街で食堂を開く予定だった。


 予定だった。


 過去形が嫌だった。


 午前九時二分。


 混線域、六百三十メートル。


 三人の職員記録が、存在しない部署へ変わる。


 市立北浜医療センター 神経科。


 本人たちは、資料館職員としての記憶と、病院職員としての記憶を両方持っている。


 一人が言った。


「娘が二人いる」


 現実では一人。


 第零では別の一人。


 どちらも同じ強さで覚えている。


「どっちが本当なんですか」


 誰も答えられない。


 澪は紙を渡す。


「両方、書いてください」


「でも」


「今は、どちらも消さないで」


 名前。年齢。好きな食べ物。昨日の会話。


 両方。


 自分も同じだった。


 凪。


 灯。


 資料館。


 こよみ。


 雨漏りの家。


 出産。


 どちらかを偽物にしなければ、身体が持たない。


 それでも今は、両方を書く。


 午前九時二十八分。


 技術者が声を上げる。


「十八年前の写真が変わっています」


 第零実験当日。


 実験前の集合写真。


 以前は十四人。


 中央に二十歳の澪。


 隣に十六歳の凪。


 反対側に二十一歳の朔。


 後方に四十四歳の環。


 現在の表示、十三人。


「誰が」


 名簿も十三名。


 最初から一人少ない。


 澪は写真を見る。


 自分。


 朔。


 環。


 いる。


「凪」


 声が出た。


 本来、澪の右隣にいたはず。


 そこだけ、空間が不自然に詰められている。


 紙のアルバムも同じ。


 十三人。


「本人が今いるのに、過去から消えるって」


 職員が言う。


「現在の人間が消える前に、過去が先に整合されてる」


 朔の声。


 保安職員とともに入口に立っていた。


「凪が消える?」


「可能性はある」


 澪は紙写真へ触れる。


 凪。


 五歳。


 十六歳。


 三十四歳。


 その人が、最初からいなかった形へ世界が準備を始めている。


「破棄を戻せば、今なら凪の履歴を固定できる可能性がある」


 環が言う。


 澪は写真の裏へペンを置く。


 冬木凪。


 この写真には、いた。


「破棄を再開しますか」


「まだです」


「凪が消えるかもしれないのよ」


「分かっています」


「妹より、向こうを」


「比較していません」


「結果は同じ」


「違います。凪を愛しているからこそ、凪を理由にして全部を決めたくない」


「きれいごとよ」


「そうかもしれません」


「本人が消えても?」


 喉が締まる。


「分かりません」


 声が響いた。


「凪が消えたら、今の判断を一生後悔するかもしれない。戻せばよかったと思うかもしれない。でも今、怖いからという理由だけで第零全体を消しても、私は後悔する」


 環は黙る。


「だから、まだ選びません」


 環は長く澪を見た。


「分かった」


 同意も許しもない。


 ただ、決定を奪わない。


 澪は再び写真を見る。


 十三人。


 その中から、冬木凪だけが消えていた。


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