第十五章 破棄命令
二月十四日 午前四時〇三分
破棄命令は、静かに始まった。
警報も館内放送もない。
監視室の大画面に、白い一行。
第零継続域 緊急停止手続き開始。
実行予定 午前五時〇〇分。
残り五十七分。
「外部監督局は館内管理系統を迂回しています」
環が言う。
「私の館長権限では止められない」
「どこを使っているんです」
「旧研究所の緊急停止系統」
朔の顔が変わる。
「まだ残ってたのか」
「あなたが外部解錠を残したのと同じ。研究所外から冷却層を直接操作できる」
「第零の電源を切る?」
「急速冷却」
「凍結破砕か」
朔が低く言う。
環は地下構造図を開いた。
現在の資料館。
旧実験施設。
その下の第零固定層。
周囲を囲む冷却区画。
「第零は自分で続きを生成している。でも基礎信号を安定させる物理媒体は存在する。臨界温度以下へ一気に落とし、神経信号を切ったあと、媒体構造を不可逆に壊す」
「保存ではない」
「破棄です」
「第零の人たちは」
環は答えない。
意識があるなら、終わる。
「苦痛は」
「分からない」
朔が机を叩いた。
「止める」
「言われなくても」
環は経路を表示する。
「地下四階の旧冷却区画から、手動で切るしかない」
「どれくらい」
「正常経路なら二十分。ただし途中が封鎖されてる」
「監督局が?」
「一部。残りは履歴混線」
「行きます」
澪が言う。
「あなたは残って」
「なぜ」
「破棄停止には、あなたの生体鍵は不要」
「誰ができます」
「私。旧研究責任者の鍵が残ってる」
「その結果を、私も引き受けます」
「破棄を止めると決めたの?」
「まだです」
「なら、なぜ」
「現場を見ないまま、館長が止めたことにしたくない」
今までなら、環が止めた判断へ乗れた。朔が止めても同じ。あとから必要だったと思うと言えばいい。
それではまた、結果だけを受け取る。
「私も見ます。破棄する装置も、止める装置も」
環は一秒考えた。
「分かった」
「僕も行く」
朔が立つ。
「駄目」
環が即座に言う。
「あなたは外部解錠の実行主体。冷却系統に触れさせない」
「今さら」
「今さらでも」
保安職員が朔の前へ立つ。
「一人で行くな」
「環がいます」
「環が最後の瞬間に、現在を守る側へ変えるかもしれない」
「あなたは黙って」
環の目が鋭くなる。
澪は二人を見る。
「館長が変えたら、その場で私が見ます。朔は残ってください」
「澪」
「今度は、ついてこないで」
朔はそれ以上動かなかった。
旧冷却区画への経路は、地下三階、第十一収蔵庫の奥にあった。
環、澪、保安職員二人、設備技師一人。
五人で階段を下りる。
古いコンクリート。露出した配管。油と埃の匂い。
「ここは事故後、一度も全面改修していない」
「触れば第零へ影響する可能性があったから」
「そう」
足元の照明が何度か消える。そのたび、黄色い非常灯が点く。
「この色、設定にありません」
技師が言う。
最初の封鎖区画。
遠隔ロック。
「監督局側が鍵を上書きしてます。解除に三分」
「一分で」
「無理です」
環が認証棒を差す。
旧研究責任者権限。
一秒で開く。
「まだ、その権限が」
「私も知らなかった」
「嘘でしょう」
澪が言う。
環が一瞬止まる。
「あとで聞きます」
進む。
二つ目の区画。
廊下が途中でなくなっていた。
灰色の壁。
図面では直進。
現実には、二メートル以上のコンクリート。
「構造混線」
技師が言う。
「別経路は」
「ない。この先が冷却中枢」
残り四十〇分。
「第零側の同じ座標は、何になっていますか」
澪が聞く。
流入した空間情報へ照合。
市立北浜医療センター 旧地下倉庫。
「第零側では、研究所跡地が病院の増設区画になっている」
「向こうでは通路がないから、壁へ置き換わった」
「いつ戻る」
「分かりません」
別系統から回れば四十五分。
間に合わない。
澪は壁を見る。
黄色い線はない。
こよみは、消えた場所へ扉を描く。
上着の内ポケットから、海の絵を出す。
壁へ重ねる。
何も起きない。
「黄色い塗料はありますか」
「今?」
「何でも」
保安職員が装備袋から、配管識別用の黄色いマーカーを出した。
澪は紙の扉と同じ形を壁へ描く。
上。
横。
下。
取っ手。
設備区画の灰色の壁に、幼稚な黄色い扉。
「これで何が」
技師の言葉が終わる前に、壁の奥で音がした。
一度。
低く。
黄色い線が光る。
「離れて」
環が言う。
中央に縦の亀裂。
壁が左右へ開く。
向こうに、現在側の廊下。
「通路が戻った」
違う。
黄色い扉が、二つの履歴の境界を短時間固定した。
こよみが、消えた場所を記録するうちに発見した方法。
「行く」
全員が走る。
澪が最後に境界を越える。背後で壁が閉じ、黄色い線だけが残った。
「こよみ」
小さく名を言う。
十二歳の少女が、外側の大人たちの知らない方法を何年も一人で試していた。
冷却中枢まで残り二十一分。
配管の間。梯子。狭い保守路。
最後の扉。
外部監督局封鎖。
「解除に五分」
「ない」
残り十九分。
環が扉横の金属板を外す。内部配線へ手を伸ばす。
「手動で安全回路を落とす」
「冷却制御全部が裸になります」
「暴走する前に切る」
澪が止める。
「待って」
「時間がない」
「これを切ったら、物理レバーが使える?」
「中枢室で。停止後、監督局の再実行には三十分以上かかる」
「午前五時を越えられる」
「そう」
「現在世界への影響は」
「急速冷却を途中で止めるから、媒体が不安定になる。第零流入が増える可能性が高い」
環が澪を見る。
「それでも止める?」
初めて、自分では決めずに尋ねた。
残り十八分。
何もしなければ、第零は午前五時に終わる。
現在世界の安定性は高まる。
凪。
灯。
資料館。
外の街。
守られる可能性が高い。
止めれば、第零の人々は残る。
こよみ。
河合美緒。
桑原実。
名前も知らない人々。
その代わり、現在側が混ざり始める。
人の記憶が変わる。
建物が変わる。
人が消えるかもしれない。
「今なら、何もしないことを選べる」
環が言う。
最も誘惑的な言葉だった。
何もしない。
自分の手で誰も消さない。
制度、命令、安全、専門家、現在世界。
全部がこちら側を支えている。
十一歳。
父と母。
五歳の凪。
二十歳。
赤い停止ボタン。
三十八歳。
違うのは、何もしないことにも結果があると知っていること。
「止めます」
「第零破棄を?」
「はい」
「現在世界に被害が出る可能性を理解している?」
「はい」
「人が死ぬ可能性も、ゼロではない」
喉が締まる。
「それでも、止めます」
環は一秒だけ目を閉じた。
「分かった」
配線を切る。
火花。
扉のロックが落ちる。
中枢室。
中央の旧式機械。
赤い物理レバー。
緊急媒体停止。
カウントダウン、十六分。
「レバーを上げれば、破棄停止」
澪は手をかける。
冷たい。
重い。
「あなたがやるつもりだった?」
「ここへ来るまでは」
「今は」
「あなたがいる」
「責任を渡すんですか」
環の顔が歪む。
「違う。あなたが選ぶと言ったから」
「あなたが止めてもいい?」
「それなら、あなたは止めなかったことにできる」
優しさだった。
同時に、逃げ道。
「やめてください」
環の手が止まる。
「それをされると、また同じになる」
澪は両手でレバーを握る。
「私が決めます」
重い。
金属が軋む。
「まだ、こよみを選んだわけではない」
中間位置。
警告音。
「現在世界を捨てるとも決めていない」
手動介入を検出。
「ただ、午前五時に、私以外の誰かが全部終わらせることを」
最後まで押し上げた。
停止。
緊急破棄命令 中断。
媒体冷却 解除。
第零継続域 保持。
音が消えた。
数秒、何も起きない。
「止まりました」
技師が言う。
その瞬間、床が大きく揺れた。
照明が消える。
黄色い非常灯。
現在世界安定性 低下。
第零境界 拡大。
中枢室の壁が透けた。
向こう側に、別の部屋。
食堂。
小さな木の机。
朝の窓。
見知らぬ女が、湯気の立つ鍋を運んでいる。
女はこちらを見る。
鍋を落とす。
白い陶器の破片が、境界を越え、現在側の床へ転がってきた。
第零の物質。
環の端末へ報告が押し寄せる。
存在しない扉。
職員記憶の混線。
地下一階の構造変化。
外部地図との不一致。
澪は白い破片を見る。
自分が止めた。
この現象を増やした。
「戻る」
環が言う。
「私が」
「そう」
環は逃がさなかった。
「あなたが止めた。だから、ここから先も見なさい」
責めても、慰めてもいない。
責任をそのまま返している。
「はい」
澪は答えた。
レバーを戻さなかった。




