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第7話:龍の取引

 「この先、危険」

 

 立て札は、風に擦れて乾いた音を鳴らしていた。


 岩肌は黒く焼け、ところどころガラスのように溶けている。

 

 かつて吐かれた炎の記憶が、地形そのものに刻まれていた。


 その境界で、ルシルが足を止めた。

 

 「……ここから先は、我一人で行く」


 言葉は簡潔だった。説明を削ぎ落とした刃のように。


 リリナがすぐに口を開く。


 「待ってください。単独は——」


 「人間が来れば、話し合いになる前に焼かれる」


 遮る声も、やはり簡潔だった。

 

 反論の余地はある。だが、納得もしてしまう。ここはそういう場所だ。


 リリナは一歩踏み出しかけて、止まる。


 その横で、レギウスが静かに言った。


 「ルシル様の判断だ」

 

 リリナは唇を結び、やがて息を吐く。

 

 「……分かりました。でも、必ず戻ってきてください」


 ルシルは振り返らない。

 

 ただ、わずかに肩が揺れたように見えた。


 それが肯定だったのかどうか、誰にも分からないまま——彼は山へと消えた。

 

 残されたのは、三人と二匹。


 そして、やけに広い沈黙。


 「……暇ですね」


 リリナがぽつりと言った。


 緊張が抜けきらない声だったが、それでも何かを動かしたくて言葉を置く。


 ピクスがくるりと宙を回る。


 「ひまー。るしる、いないと、つまんなーい」


 ガルは鼻を地面に近づけ、くん、と鳴いた。


 「るしるしゃま、におい、あっち……」


 山の方角を見つめて、尾をゆらゆら揺らしている。


 リリナは苦笑した。


 「追いかけたら怒られるよ、たぶん」


 「おん……」


 分かっているのかいないのか、ガルは小さく喉を鳴らす。


 再び沈黙が落ちる。


 リリナは膝を抱え、視線を遠くに投げた。


 この旅を思い返す。


 ルシルは、時折、何かを言いかけてやめる。


 踏み出す瞬間に、ほんのわずかだけ、躊躇う。


 そして——「善処する」と言うとき、その言葉だけが妙に軽い。


 あれは約束ではない。逃げでもない。


 では、何なのか。


 「……理解しづらい人」


 「……嫌いじゃ、ないですけど」


 小さく呟いて、自分で少し驚いた。


 そんな感情は、持ったことがなかった。

 ♢

 

 山の上。


 空気は薄く、熱を帯びている。


 巨大な影が、岩の上に横たわっていた。


 それが動くたび、地面が低く鳴る。


 「来たか、人の子」


 声は、風ではなく、地そのものが震えているように響いた。


 ルシルは歩みを止めない。


 その黄金の瞳が、こちらを見下ろしている。


 龍の族長——ヴァルドゥス。


 老いてなお、山そのもののような存在だった。


 「貴様が負けを認める日が来るとは思わなかった」


 その声音には、嘲りと——どこか懐かしさが混じっていた。


 ルシルは足を止める。


 「負けは認めていない」


 即答だった。


 ヴァルドゥスの口元が、わずかに歪む。


 「ほう」


 短い応酬。だが、その間には確かな“過去”が横たわっていた。


 戦ったことがある者同士の距離。


 近くも遠くもない、奇妙な均衡。


 「で、何の用だ。再戦か?」


 「違う。依頼だ」


 その言葉のあと、わずかな間があった。


 ヴァルドゥスの黄金の瞳が、細くなる。


 「……人の子が、龍に“頼む”か」


 低く唸るような声。


 次の瞬間、空気が焼けた。


 前触れもなく、熱が膨張する。


 ——炎。


 ルシルの視界が、赤に染まる。


 交渉に値するかを測る、ただの呼吸のような一吐き。


 ルシルは避けない。


 半歩だけ踏み込み、腕を上げる。


 炎が、直撃した。


 衣服の端が焼け、皮膚に熱が食い込む。


 だが——それだけだ。


 ルシルは動かない。


 焦げた匂いが、風に混じる。


 やがて炎が引いたとき、彼はその場に立っていた。


 わずかに煙を上げながら。


 「……それで、終わりか」


 声は、変わらない。


 ヴァルドゥスが、低く笑った。


 「ほう。昔よりは、燃えにくくなったな」


 ルシルは答えない。


 ただ、焼けた袖を無造作に引き裂く。


 露わになった腕に、赤く残る痕。


 それを一瞥し、何事もなかったかのように言う。


 「話を続ける」 


 ルシルは簡潔に要件を告げる。


「種族同士を繋ぐ。戦場じゃなく、同じ場所に立たせる」


 ヴァルドゥスはしばし沈黙した。


 山の風が、二者の間を通り抜ける。


 やがて、低く笑う。

 

 「見物、か。面白いことを言う」


 黄金の瞳が細められる。


 「いいだろう。参加してやる」


 ルシルはわずかに目を細めた。


 「条件がある」

 

 「言え」


 「つまらなければ、帰る。その際、会場はどうなっても知らん」


 あまりにも龍らしい、傲慢な条件。


 だが同時に、妙に正直だった。


 ルシルは一瞬だけ考え——頷く。


 「いいだろう」


 即断。


 その迷いのなさに、ヴァルドゥスは小さく鼻を鳴らした。


 「気に入らんな。その顔」


 「そうか」


 「だが——嫌いでもない」


 そして、龍はふと視線を外した。


 「……貴様の父親も、変わった男だったが」

 

 風が、わずかに鈍る。


 「貴様も、たいがいだな」

 ルシルは答えない。


 答えないまま、踵を返す。


 その背に、龍はもう何も言わなかった。


 ♢

 

 麓。

 

 「……来た」


 レギウスの一言で、全員が顔を上げる。


 岩場の向こうから、ルシルが姿を現した。


 いつもと同じ歩調。だが、どこかだけ違う。


 リリナが駆け寄る。


 「どうでしたか」


 ルシルは一瞬だけ言葉を探すように間を置いてから


 「……条件付きで、来る」


 「条件?」


 「飽きたら帰るそうだ」


 一拍。


 リリナが苦笑する。


 「それは責任重大ですね」


 「そうだな」


 あまりに他人事のような返答に、リリナは肩をすくめた。


 手帳を取り出し、さらさらと書きつける。


 《ドラゴン、参加 ※面白くすること!》


 横で、ガルがルシルの足元に寄る。


 くんくん、と鼻を鳴らす。


 「るしるしゃま、だいじょぶ?」


 「問題ない」


 短く答えながら、ルシルはほんの一瞬だけ、ガルの頭に手を置いた。


 撫でる、というほど長くはない。

 触れた、というには少しだけ長い。


 その曖昧な時間が、妙に印象に残る。


 リリナはそれを見て、ふと気づく。


 風に混じる、わずかな違和感。


 顔を上げる。


 ルシルの袖口が、黒く焼けている。


 「……ルシル」


 「なんだ」


 短い返事。


 リリナは距離を詰める。

 

「その腕、見せてください」

 

「問題ない」


 即答。


 「問題があるかどうかは、私が判断します」


 わずかな沈黙のあと


 「……好きにしろ」


 観念した声。


 リリナは破れた袖をめくる。


 露わになった腕に、赤く残る焼痕。


 「……これを“問題ない”って言うんですか」


 「言う」


 迷いのない返答。


 リリナは苦笑し、ポーチに手を入れる。


 ——ベルザードから渡されたポーション。


 布に含ませ、そっと傷に当てる。


 じゅ、と小さな音。


 「……っ」


 ルシルの指先が、わずかに動いた。


 だが、それだけだ。


 リリナは気づかないふりをする。


 手元を見たまま、淡々と続ける。


 「……これ、ベルさんが見たら怒りますよ」


 「言わなければいい」


 「私が言います、叱ってもらいます」


 ルシルは一瞬止まったが、何も言わなかった。


 ——ポーションが浸透していく。


 焼けた皮膚が落ち着き、赤みがゆっくり引いていく。

 

 処置を終え、布を外す。


 「……これで、とりあえずは大丈夫です」


 「そうか」


 「どうして言わないんですか」


 「……言う必要がない」


 変わらない答え。


 リリナは小さく息を吐く。


 「ありますよ」


 静かに。


 「あなたが思っているより、ずっと」


 それ以上は言わない。


 一歩、下がる。


 ルシルは腕を戻す。


 ほんのわずかに視線を逸らしてから。


 「……礼は言わんぞ」


 「期待していません」


 間髪入れずに返る。


 ——そのあと。 リリナは、ほんのわずかに口を開きかけて、やめた。


 そして小さく息を吐いた。


 ピクスがくるりと回る。


 「なんか、なかよしー」


 「違います」「違う」


 声が重なる。


 ガルが、くん、と鼻を鳴らした。


 焦げた匂いは、もうほとんど残っていなかった。

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