第4話:森の境界
出発の朝、ベルザードが静かに言った。
「道中、ぼっちゃまの素性はお隠しください。魔王が直々に動いていると知れれば、警戒される種族もございます」
「じゃあ、何と紹介すればいいんですか」
「旅の同行者、とでも。細かいことはレギウスに確認してください」
リリナはルシルを見た。ルシルは特に気にした様子もなく地図を眺めていた。
気にしなくていいのか、気にする必要がないのか、判断がつかなかった。
♢
城を出てしばらくは、石畳の道が続いた。
魔王城の周囲は思ったより開けていて、遠くまで見渡せた。リリナは歩きながら景色を手帳に書き留めようとして、やめた。歩きながら書くのは難しい。
ピクスがリリナの肩に腰を掛ける。
「ねえねえ、人間の世界ってどんな感じ?」
「普通ですよ。魔法もないし、魔族もいないし」
「つまんなくない?」
「つまんなくはないですけど……刺激はなかったかな、確かに」
「じゃあここの方がいい?」
リリナは少し考えた。
「それはまだわかりません」
ピクスは「そっかー」と笑った。
昼前になって、道が森に差しかかった。
ルシルが先を歩いていた。リリナはその少し後ろ、レギウスはさらに後ろで周囲を確認しながら歩いている。
「レギウス」
ルシルが振り返らずに言った。
「様はいらない」
レギウスの足が、一瞬だけ止まった。
「……かしこまりました、ルシル様」
ルシルは足を止めた。振り返る。
「今、様と言ったか」
「言いました」
「……なぜだ」
「習慣というものは、そう簡単には変わらないものでございます」
淡々とした答えだった。言い訳ではなく、事実の報告だった。
ルシルはしばらくレギウスを見た。
「……そうか」
それだけ言って、また前を向いた。
ピクスが笑いながら耳元でささやいた。
「あれ、毎回やってるんだよね」
次に、リリナに視線を向ける。
「お前もだ」
「え?」
「様はいらない。道中、我は魔族ではなくただの旅の同行者として動く。余計な呼称は不要だ」
リリナは少し考えた。
「……ルシル、と呼べばいいですか」
「そうだな」
間があった。
「……わかりました、ルシル様」
ルシルの目が、わずかに細くなった。
「今、様と言ったか」
「言いました」
「……なぜだ」
「習慣というものは」
「お前は今日会ったばかりだろう」
リリナは少し黙った。
「……呼び捨てにしていいのか、まだ慣れなくて」
ルシルはしばらくリリナを見た。何か言いかけて、やめた。
「……好きにしろ」
「では、1つお願いがあります」
ルシルが、わずかに振り返った。
「なんだ」
「人間、ではなくリリナと呼んでもらえますか」
間があった。
「……理由は」
「呼ばれるたびに、私だけ違う、という気がして」
仲間として見てもらえていない、と言いたいわけではない。ただ、名前で呼ばれる方が、ここにいる理由が自分にはある気がした。
「……リリナ、と呼べばいいか」
「そうしてください」
ルシルはしばらく何も言わなかった。
「……善処する」
「善処、ですか」
「習慣というものは、そう簡単には変わらないものだ」
さっきのレギウスの言葉を、そのまま返してきた。
リリナは思わず笑った。
♢
道の途中で、ガルが立ち止まった。
鼻をひくひくとさせて、藪の方を見ている。
「ガル?」
「なんかいる」
それだけ言って、ガルが藪の中へ駆け込んだ。
「え、ちょっと待って」
リリナが後を追おうとした瞬間、レギウスの手が肩を掴んだ。
「待て」
藪の中で、葉が激しく揺れた。ガルの「おん!」という声。それから、何かが勢いよく遠ざかる音。枝を踏み折りながら、どんどん遠くなっていく。
やがて、静かになった。
ガルが藪から出てきた。しっぽを振っている。
「ガル、何がいたの?」
「おっきいの」
「おっきいの?」
「おん、どっかいっちゃった」
ピクスが笑う。
「ガルに会って逃げたんだ!」
「ガル、こわくない!でもにげた!」
リリナは思わず笑った。
レギウスが藪を一瞥した。それだけで、もう視線を戻す。
「……行くぞ」
ルシルは最初から立ち止まってさえいなかった。前を向いたまま、ただ歩いていた。
リリナは小走りで列に戻りながら、ガルを見た。
「ガル、何かしたの?」
「なにもしてない!」
「何もしてないのに逃げたの?」
「うん!」
ガルは誇らしそうだった。何もしていないのに、誇らしそうだった。
リリナはもう一度だけ藪の方を見た。何がいたのかは、わからなかった。
♢
道中、軽い雨が降った。
空が暗くなる間もなく、ぱらぱらと落ちてきた。
「ピクス、雨は大丈夫?」
「フェアリーは雨に弱いって思ってるでしょ!」
「違うんですか」
「弱い!」
ピクスがリリナの襟の中に潜り込んだ。思ったより温かかった。
レギウスが無言でリリナの頭上に手をかざした。薄い膜のようなものが広がり、雨粒が弾かれる。
「あ、ありがとうございます」
「わーい、レギウスありがとー!」
濡れる心配はなくなったのに襟元からは出ていかないようだ。
レギウスは何も言わなかった。ただ、少しだけ歩く位置がリリナに近くなった。
ルシルは雨の中を普通に歩いていた。
「濡れても大丈夫なんですか」
「問題ない」
「魔法で弾けないんですか」
「できる」
「……なぜしないんですか」
ルシルは少しの間、黙った。
「雨は嫌いじゃない」
それだけだった。
リリナはルシルの横顔を見た。雨粒が黒いマントを濡らしていく。
ガルがルシルの足元で「ガルもへいき!」と鳴きながら、歩いていた。
エルフの森が見えてきたのは、午後になってからだった。
遠目でもわかった。木々の色が、少し違う。
「あそこだね」
ピクスが襟から顔を出した。雨はすでに上がっていた。
一行は足を止めた。
レギウスが周囲を見渡す。ガルが鼻をひくひくとさせる。
リリナは手帳を開いて、ベルザードから聞いたエルフの項目を読み返した。
長命ゆえの、深い疲れのようなものがある。世界の歴史を直接知っている者が多い。
手帳を閉じた。
「……行きましょう、ルシル」
我ながら、まだ少しぎこちない。
ルシルは何も言わなかった。ただ、前を向いたまま歩き出した。
♢
森は、境界からすでに違っていた。
魔王城の周囲の森とは、空気が違う。湿り気は同じなのに、どこか"整っている"。
枝の伸び方、地面の起伏、風の通り道。すべてが意図されているような、不思議な自然だった。
「エルフの森だねー」
ピクスがくるくると回る。
「ここから先、勝手に入ると怒られるよ」
「怒られる、で済めばいいですけどね」
目の前には、何もない。門も、柵も、看板もない。ただ木々が続いているだけ。それでも、ここから先が"中"だとわかる。
理由はわからない。ただ、わかる。
境界の手前で、レギウスが低く言った。
「ルシル様の素性は伏せる。名前だけ出すなら構わないが、立場は言うな」
「わかりました」
「このまま入るか、呼ぶか」
どちらでも対応できる、という声だった。
「呼びましょう」
リリナは一歩前に出た。
「失礼します。お話をさせていただきたく、参りました」
声を張るわけではない。けれど、森の奥まで届くように、はっきりと。
返事はなかった。
風だけが、葉を揺らす。
そのとき。
「――人間が、何の用だ」
横から、声。
気づいたときには、いた。正面の木の幹。少し離れた枝の上。背後の影。いつの間に現れたのかもわからない。
長い金髪。透き通るような肌。緑の瞳。若く見えるが、年齢は私よりはるか上なのだろう。
弓を持っているが、構えてはいない。ただ、距離は絶妙だった。一歩でも近づけば、射抜ける位置。
そのとき、足元で何かが変わった。ガルの体から、うっすらと黒い靄が漏れる。首輪の銀の装飾が一瞬だけ闇に沈んだ。
次の瞬間にはもう、ただの子犬に戻っていた。
リリナは気づいていない。
「突然失礼します」
リリナは頭を下げた。
エルフはリリナを無言で見た。次に、レギウスを見る。ほんのわずかに、目が鋭くなった。
「……ダークエルフか」
空気が変わった。
ダークエルフとエルフは、元は同じ種族だとベルザードから聞いていた。何らかの理由で分かれ、今も複雑な関係が続いていると。
レギウスは何も言わない。目線を外さず、ただ見据える。
その沈黙の重さが、リリナには少しだけわかった気がした。
エルフの視線がリリナに戻る。次に、ルシルへ。また、リリナへ。
「……人間が二人、ダークエルフが一人、フェアリーと犬が一匹ずつ」
どこか、探るような声だった。
「妙な組み合わせだな」
「そうですね」
リリナはあっさり認めた。
ガルも続いて「おん!」と鳴く。
「私も最初はそう思いました」
エルフの目が、わずかに細くなる。
「……どういう関係だ」
「雇われています」
一拍おいて、付け加える。
「一応」
エルフはしばらくリリナを見た。嘘をついている様子はない。それがかえって、判断を難しくしているようだった。
「族長の方にお取次ぎをお願いできますか」
エルフは答えなかった。
かわりに、別の声が降ってきた。枝の上から。
「族長は人間に会わぬ」
短い言葉だった。
「……では、あなたにお話しさせていただけますか」
「……用件を言え」
「交流の場を作ろうとしています」
リリナはすぐに口を開いた。
「人間と魔族が、安心して顔を合わせられる場です」
間があった。
「……不要だな」
切り捨てるような声だった。
「我らは人間と関わらぬ。それで均衡は保たれている」
話では聞いていた。でも、実際に言葉として聞くのは違う。空気ごと、冷たかった。
「はい。その通りだと思います」
リリナは頷いた。
「ただ」
続ける。
「その均衡って、"関わらないこと"に依存してますよね」
エルフの目が、わずかに動いた。
「もし、どちらかが関わる側に動いたら、どうなりますか」
「……仮定の話に意味はない」
そのとき。
――とん。
軽い音。ルシルが、一歩前に出た。
何も言わない。ただ、立つ。
エルフの視線が、一瞬だけ揺れた。
「その仮定は、すでに起きている」
短い言葉だった。
「人間は、魔族に接触している。学者、呪術師、商人。意図は様々だが、関わりは始まっている。関わらぬことで保たれていた均衡は、すでに崩れかけている」
森の空気が、わずかに動いた。
エルフは黙った。
「……だから何だ」
「だから、先に"安全な形"を作ります」
リリナが言葉を継いだ。
「無秩序に関わるより、ルールのある場で関わったほうがいい」
「……人間の都合だな」
「そうです」
リリナはあっさり認めた。
「でも、魔族側にもメリットはあります。"選べる"ようになります」
「……何を」
「関わるか、関わらないかを」
視線を逸らさない。
「今は、知らないから関わらない。でも、知った上で関わらないのは、違います」
風が、葉を揺らした。
エルフはしばらく何も言わなかった。やがて。
「……帰れ」
明確な拒否だった。
「現時点で、必要性は認められない」
「わかりました」
リリナはそれ以上押さなかった。
「もし、必要だと感じることがあれば、そのときはぜひ族長とお繋ぎいただければ」
一歩下がりながら、リリナは言った。
「あの、お名前を聞いてもいいですか」
エルフは少しの間、黙った。
「……なぜだ」
「また来るかもしれないので」
「……フィルと呼べ」
「ありがとうございます、フィル様」
「様はいらない」
リリナは少し笑った。
「わかりました、フィル」
エルフは答えなかった。
ただ、視線だけが最後まで残った。
リリナは深く頭を下げ、その場を離れた。
「……変わった人間もいるものだな」
去り際に、森の奥からそう聞こえた。
リリナは気づかなかったが、レギウスは聞いていた。そして何も言わなかった。
◇
森を出てから、しばらく誰も喋らなかった。
レギウスは歩きながら、一度だけ足元のガルを見た。ガルは何食わぬ顔ではねるように歩いている。
先に口を開いたのはレギウスだった。
「……無駄足だったな」
責めているわけではない。事実確認だった。
「そうですね」
リリナは頷いた。
「でも、"完全拒否"ではなかったです」
「……違いがあるか」
「あります」
手帳を開いて、さらさらと書き込む。
「"必要性を認めない"って言いましたよね。つまり"必要なら来る"です」
「私の話も族長に届く可能性があります。聞く気がなければ、最初から追い返していた」
レギウスは少しだけ黙った。
後ろでピクスが笑う。
「うんうん、あのタイプはそう!めんどくさいけど!」
「めんどくさいですけどね」
「それがエルフだよ!」
的確だった。
リリナは手帳を閉じた。
ガルが足元で「つぎ、どこいくの?」と鳴いた。
「次の種族のところかな」
「おん!がんばれごしゅじん!」
リリナは苦笑した。
ふと気づくと、ルシルが少し先を歩いていた。いつもの黒いマント。背中だけが見える。
リリナは少し、その背中を見た。
さっき、ルシルが一歩前に出た瞬間のことを思い出した。何も言わなかった。ただ立っただけだった。それだけで、空気が変わった。
あれは、助けてくれたのだろうか。
それとも、ただそうしただけだろうか。
わからない。
でも、ゼロではなかった。今日の交渉も、この旅も。
まだ、始まったばかりだ。




