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第1章2部「眠れる記憶に呼ばれて」

……あのとき、確かに聞こえた。

 静まり返った空間に、控えめなノックの音が――「コン、コン」と二度。

 その瞬間、胸の奥がざわついた。

何かが始まる、そんな予感だけを残して――。

「失礼。学院長が話を聞きたいそうだ。ティアナさんをお連れする」

 扉越しに届いたその声は、穏やかでありながら、どこか感情の温度を感じさせない。

 まるで機械のように整っている。けれど、それ以上に――この場の空気が、確かに変わった。

 ミリア先生が一瞬、動きを止め、小さく息を呑む。

 ティアナも、思わず扉の方を振り返る。


「……学院長の使いの方ね。案内はこの人に任せて、大丈夫よ」

 そう答える声には、かすかな緊張が混じっていた。

 先生の言葉と同時に、ゆっくりと扉が開いた。

 そこに立っていたのは、フードを深くかぶった人物だった。

 その顔は影に隠れ、表情は伺えない。

「はい……」

 ミリア先生に返事を返す声は、自分でもわかるほど小さかった。

 けれど、その手は知らぬ間に、緊張でこわばっていた。

 胸の奥に、ほんのりとした不安が広がる。

 学院長がどんな人なのかも、何を話されるのかもわからない。

 ただ、その名にだけ、圧のような重さを感じていた。

そのとき――

 魔律安定室の静寂を破るように、フィオナがティアナの横で慌てて声を上げた。

「えっ、ちょ、まって!学院長って、あの!?めっちゃ偉いって噂のあの人よね!?」

 ティアナが思わず振り向くと、フィオナは肩をすくめ、小さくため息をついたあと、苦笑しながら手を広げてみせた。

「やば!ティー、背中にホコリついてる!あ、髪も……もう、時間ないって!」

「フィオナ……ありがとう。でも、行ってくるね」

「……うん。大丈夫、ティーはティーだよ。」

 その一言に、ティアナは思わず笑みをこぼしそうになる。

 ほんの少しだけ、肩の力が抜けた。

 フィオナに背中をそっと押され、ティアナは前を向いた。

 案内役の人物が一歩引くように道を開ける。

 静かに頷き合い、ティアナはその背に続いて歩き出した。

 廊下を抜け、いくつかの扉を越えて――やがて、学院の奥、

 ひときわ存在感のある一枚の扉の前にたどり着いた。

 厚く重ねられた木材に、渦を巻くような紋章が彫り込まれている。

 淡く揺れる蒼光が、その模様の谷間をなぞるように静かに流れていた。

 ティアナは思わず、その扉を見上げる。

 胸の奥が、静かに――けれど確かに、波打っていた。

(……私、本当に、今から話すんだ)

 そう思った瞬間、再び――「コン、コンッ」と、案内役が無言のまま扉を叩いた。

 今度は、それがティアナの心の中にも、はっきりと鳴り響いた。

 直後、中から低く、落ち着いた声が返ってくる。


「どうぞ」


 案内役が取っ手を回し、静かに扉を開ける。

 そこに広がっていたのは、静謐そのものの空間だった。

 高い天井に、深い色の厚手カーテン。

 すべての窓は閉じられ、光源は天井に吊られたランプの柔らかな灯りのみ。

 それが室内の机や棚を、深い陰影で照らし出している。

 中央に据えられた長い机――

 その奥に、ひとりの人物が静かに座っていた。

 空気にはほとんど動きがない。

 けれど、室内には、言葉にできない“密度”のようなものが漂っていた。

 無音なのに、耳の奥がじんとする。思考の輪郭がにぶくなっていく。

 ティアナは一歩、室内に足を踏み入れる。

 その瞬間、胸の奥で何かが「カチリ」と音を立てた気がした。

 目には見えない歯車が、どこかでゆっくりと回り始めたような――

 そんな、世界の切り替わりを告げるような感覚だった。

 窓際には観葉植物が並び、整然とした書架が空間を囲んでいる。

 そして部屋の中央。重厚な机の向こう側に、ひとりの男が座っていた。

 銀色の髪。穏やかな微笑みと、すべてを見透かすような光を湛えた瞳。

 その人物はただそこに座っているだけで、空気のすべてを掌握しているかのようだった。


「ようこそ、ティアナ・フェイル君」


 椅子から立ち上がることなく、彼はゆったりと声をかける。

「初めまして。私はリュミエール高等学院の学院長、シグレ・リュミエールだ」

 その名を聞いた瞬間、ティアナの背筋がぴんと強張る。

「あ、あの……呼ばれてきたんですけど……」

 彼女は戸惑いながら立ち尽くしていた。

 どこに立っていいのかも、何をすればいいのかもわからない。

「ふむ……まずは、そこへかけたまえ」

 シグレは机の前の椅子へ、ゆるやかに顎を向ける。

 その声にとげはない。だが、逆らうという選択肢を、自然と奪っていくような圧があった。

 ティアナはこくりと頷き、そっと椅子に腰を下ろす。

「問題、というほどのことではない」

 シグレは、ふっと目を細めて続けた。

「だが――少々、君の”状態”について、気になる点があってね」


「……状態?」

 ティアナの眉がわずかに寄る。

 その言葉が、思考の中でうまく形にならずに溶けていく。

 学院長――シグレ・リュミエールは静かに立ち上がると、ゆっくりと彼女へ歩み寄ってくる。

 その動きに威圧はない。ただ、沈黙が自然と引き寄せられるような存在感があった。

「昨夜から、体に異常はなかったか?」

 彼の声は静かだった。

 けれど、その静けさの奥に、ひやりとした鋭さが潜んでいた

「――例えば、視界の揺れ。耳鳴り。あるいは、“何かが聞こえる”ような感覚……」

 ティアナの瞳が、かすかに揺れる。

「っ……どうして、それを……?」

 誰でも言っていない。

 知られているはずのない自分の異変を、なぜこの人は知っているのか。

 心の奥に隠していた不安が、言葉に引きずり出されたようで――ティアナは不意に、手を握りしめる。

 今朝、目覚めたときの胸騒ぎや、耳の奥に残った違和感。

 それが何だったのか、自分でもまだ整理がついていなかった。

けれど――なぜ、この人はそれを“知っている”のだろう?

 言葉にできない不安が、じわじわと胸の奥を満たしていく。

 ティアナは無意識に、自分の両手をぎゅっと握りしめていた。

 冷たい指先が、かすかに震えているのに気づいて、彼女はそっと目を伏せる。

 ティアナの問いかけに、学院長――シグレは小さく微笑した。

「――では、少しだけ、失礼するよ」

 そう言うと、彼はそっと席を立ち、ティアナの前まで静かに歩み寄る。

 その仕草にティアナは身をこわばらせた。だが、すぐに目の前に差し出された手が、驚くほど穏やかで――どこか、あたたかいことに気付く。

「なぁに、力づくではない。ただ、確かめたいだけだ」

 シグレの指先から、淡い青白い光がふわりと揺らめき始める。


「《ミラージュ・アーク》――」


 その瞬間、空気が変わった。

 ひとしきり静かだった学院長室の空間に、波紋のような魔力が広がっていく。

 天井も、壁も、床も――すべてが、ゆっくりとたゆたうように揺れはじめる。

 それは、水面の内側に迷い込んだかのような錯覚を誘った。

 ティアナの背後に、静かに――あの夢の風景が映し出される。

 空間そのものが薄い硝子となり、そこへ染み出すように浮かび上がる幻影。

 それは静かに、しかしあまりにも鮮明だった。

 広く澄んだ泉。その中央で輝く巨大な結晶――

 湿った石畳に、近づいてくる足音――

 そして、遠くから――誰かが彼女の名を呼ぶ声。

「これ……っ、私の……夢?」

 ティアナの肩が震える。

 自分の内だけにあったはずの光景が、今、目の前に――。

「これは、君の記憶の断片だ。夢の形をした、”記録”といってもいい」

 シグレの声は静かだった。だが、その眼差しは真剣だった。

「ティアナ・フェイル。君の内に宿る”魔力”は、すでに目覚め始めている。

 この泉は――その呼び水だ」


 揺れる記憶の映像。

 それは、ただ眺めるものではなく――彼女自身を”引き込む”ものだった。

「――!」


 ティアナの意識が、一瞬ぐらりと傾いた。

 気がつけば、彼女はその光景の中に居た。

 足元に広がるのは、ガラスのように澄んだ水面。

 立っているはずなのに、靴が塗れない。不思議と冷たさも感じない。

 周囲は霧のように白く、ただ、ほんのりとした蒼の光が全体を包んでいた。

 その中心に――輝く巨大な結晶がある。

 それは脈動するように光を放ち、まるで彼女を呼んでいるかのようだった。

 そして、聞こえた。

 声。

 誰かの声。

――「……ナ」

――「ティ……アナ……」


「……誰?」

 ティアナは無意識に声を返していた。

 息が、少しだけ白くなる。声を出したはずなのに、音になったのかもよくわからなかった。


 音もなく、結晶の光が強まった。

 その刹那――ズンッ!と腹の奥を打たれたような重圧が走る。

「……っあ!」

 視界が――白く、弾けた。


――気がつけば、彼女は再び、学院長室にいた。

 息が浅く、手足が冷たくなっている。

 椅子に座ったまま、ティアナは震える指先を見下ろした。

「……これ、は……」

 まるで、夢の続きを――今、現実で”体験した”ような感覚。

 目に映ったわけじゃない。けれど、足元の湿り気や、空気の温度、そして誰かが呼ぶ声の響き――

 すべてが、身体の奥に確かに“刻まれている”。

 ティアナは震える息を、そっと押しとどめるように吸い込んだ。

「今の……夢の中で見た場所と、同じ……?」

 そう呟いた声には、戸惑いと、わずかな確信が滲んでいた。

 シグレは頷きながら、表情を少しだけ和らげる。


「ほう……そこに導かれたか。君の”直感”は確かだ」

 ティアナの眉が僅かに動く。

「あそこは……どこなんですか?」

 問いかけに、シグレは手元のカップにそっと口をつけた。

 香り立つ紅茶の湯気が、彼の目元をかすかに揺らす。

「君は……この場所を、地上だと思っているかね?」

 唐突な問いに、ティアナはきょとんの目を見開く。

「えっ……?」

 シグレはゆっくりと立ち上がり、書斎の大きな窓へと歩み寄る。

 そして静かにカーテンを開け、外を見やった。

 淡い光に染まった青空には、穏やかに雲が流れていた。

「リュミエール高等学院の空は、今日も綺麗だ」

 その言葉に、ティアナは困惑の色を深める。

「……何が言いたいんですか?」

 シグレは、少し笑みを浮かべたまま――

 だが、その声には確かな重みがあった。

「あれは本当の空ではないのだ」

 その一言に、ティアナの心臓が軽く跳ねた。


「幻影空(Illusory Sky)――この学院全体を包む、環境結界だよ。

 天井は本来、厚い岩盤と魔石層で覆われている。

 だがそこに、超高位の幻術と古代精霊魔法を組み合わせた投影魔法が常に作用している」

 ティアナは息を呑む。

 外に見えていた空、光、風、雲の流れ……あれが――すべて、作られたもの?

「“幻影投射晶”と呼ばれる古代の魔法石が、学院全域の天井に埋め込まれていてね。

 朝焼けも、夕暮れも、星空すらも――すべて完璧に再現されている」

 思い返せば、空はいつも“綺麗すぎた”。

 雨の日すら、なぜか心が落ち着くほど美しかったことを思い出す。

「……じゃあ……私たちは……」

「この学院は、地上に建っているように見えて……実際には、“地下”に存在している」

 シグレは振り返り、ティアナをまっすぐに見た。

「君はまだ気づいていなかっただろうがね」

 ティアナは、言葉を失っていた。

――空が、幻だった?

――じゃぁ、この場所は……本当に、地下にあるって事?

「信じがたいだろう?」

 シグレは静かに言った。

「だが、事実だ。

 この地には、三層の”世界”が存在する」

 言葉も選び方が、”階層”ではなく”世界”だったことが――妙に引っかかった。

「最上層――ウィステリア地下都市。

 かつて地上から移された、貴族たちの町並みが今も残っている都市だ。

 古い建築、荘厳な聖堂、そして……今もなお消えない”魔法の痕跡”がそこにはある」

 その語り口に、ティアナは自然と引き込まれていく。

「中層――我々が今いる場所。

 正式には”学院区”と呼ばれている。

 リュミエール高等学院、魔導図書館、研究塔、そしてけもみみ族の集住区域も含まれている。

 ここは教育と共存、そして選ばれた者たちの管理の場でもある」


 ティアナは思い返す。

 広大すぎる学園の敷地、地図に載っていない裏路地、不自然なほど静かな寮区……

 その全てが普通ではなかったのだと気づかされる。

「そして――最深層」

 その言葉の響きに、ぞくりと背筋が震える。

「”忘れられた層”と呼ばれる禁忌の区画。

 かつて魔法戦争の遺物が封じられ、

 今では監獄や禁書目録、封印領域など……人の手が及ばぬものが集められている」

 シグレは窓から目を離し、ゆっくりとティアナへ向き直った。

「君が夢で見たのは――その三層の中でも、最も古く、最も”意思”に近い場所。


『ヴァンリルの泉』。

 ウィステリアの中心にして、古の記憶と精霊の声が交わる場所だ」

 ティアナはその名を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

……あの夢の中で、自分を読んでいた”誰か”の声。

 濡れた石畳。澄んだ水面。

 それが”現実に存在する場所”だったという事実に、震えが止まらない。

「君は”そこ”に導かれたということは……」

 シグレの声が、ほんのわずかに低くなる。

「君の中に眠る力、あるいは記憶。

それがただの偶然ではないことを意味しているのだろう」


 しばらくの沈黙が落ちた。

 ただ風の音だけが、窓の外から静かに流れ込んでくる。

 その空間の中で、シグレは静かに言葉を落とした。

「君のことは、以前から知っていたよ」


――え?

 ティアナは息を止めたように、シグレの顔を見つめる。

 どこか淡々とした口調。それなのに、その言葉は確かに――胸の奥を揺らした。

「君の名を最初に私に届けたのは、とある”けもみみ族”の長老だった。

君がこの学院に来る、もっとずっと前の話だ。

……彼は、君の未来を気にかけていたのだよ」

 心臓が、小さく跳ねた。

 耳の奥で、何か懐かしい音がしたような気がして、ティアナはそっと眉をひそめる。

「けもみみの、長老……?」

 知らないはずの言葉。でも――どこか、心当たりがあるような。

 シグレはゆっくりと頷いた。

「街の喫茶店に、よく通っていたそうだね。君は」

「……!」

 思わず、ティアナは小さく息を呑む。

 喫茶店――あの、静かであたたかな場所。

 金色の髪、優しい声、そっと紅茶を入れてくれた……あの人。

「どうして、それを……?」

 シグレは、やわらかく目を細めた。

 その表情は、どこか遠くを見るようで――ほんのりと、懐かしさが滲んでいた。

「その店は、私の兄が営んでいる。名は――シグ・ロッシュ。

 けもみみ族の長老であり、私よりもずっと”人に近い場所”でこの世界を見守ってきた男だ」


――シグ・ロッシュ。

 その名を聞いた瞬間、ティアナの胸に、ぽたりと波紋が落ちたような気がした。

 知っている――気がする。

 でも、はっきり思い出せない。

 それでも、胸の奥に残るぬくもりが確かに語っていた。あの優しい時間が、あの場所は――幻ではなかったことを。

「君の名が”学院にやって来る少女”として告げられたのはずっと前のことだった。

 その時から、彼は君のそばにいた……見守り続けていたのだよ」

 ティアナは目を伏せる。

 知らなかった。そんなふうに誰かに想われていたことも――自分が”見守られる存在”だったことも。

 どうして。なぜ。どうしてそんな――。

「……でも、なんで……私のことを……?」

 ぽつりと落とした疑問に、シグレはそっと首を振る。

「それを知るにはまだ早いかもしれないな。

 だが、いずれ君自身が、その答えにたどり着くだろう――必ず、ね」

 彼の瞳は、決して未来を否定しなかった。

 その不覚、どこまでも静かなまなざしに、ティアナはふと――かすかな安心を覚えていた。


◇ ◇ ◇


――そして、世界は静かに動き出す。


少女の内に眠る“鍵”が、未来の扉を叩く音がした。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


今回、物語の中で名前の出た「シグ・ロッシュ」という人物について――

実は彼とティアナの関係には、“もうひとつの物語”があります。


本編よりも前の、ティアナがまだ学院に入学する前。

ひとりの少女がとある喫茶店に通い、

くすんだ亜麻色の髪の、名も知らぬ老人と静かに時を重ねていた頃のこと――


彼女の心に灯った“はじまり”を描いた前奏譚を、別枠で短編作品として投稿予定です。


タイトル:『境界を超える少女 ―前奏譚―』

彼が何を見ていたのか。

なぜ“学院へ向かう少女”の名を知っていたのか。

あの日、あの店で交わされた言葉の記憶を、どうぞお楽しみに。


次回の更新と併せて、前奏譚もぜひ読んでいただけたら嬉しいです。

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