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境界を超える少女の物語  作者: Sekhmet
第1章

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【1ー1】名も無き目覚め

――けもみみ族とは、感情で魔力を操る種族である。


 怒りや恐怖、歓喜といった内側から湧き上がる感情が、そのまま力へと変わる。代々“獣化”という本能的な現象を通じて、身を守り、力を放ってきた――それが、彼らの魔術の源だ。


 ただし、魔力が強すぎると、感情の制御一つで暴走に至ることもある。だからこそ、この国では魔力の定着や制御のために、早い段階から魔術式の教育が義務づけられている。

 けもみみ族とて、例外ではない。むしろ、魔力の制御を学ばねば生きていくことさえ難しい。


 そしてその中でも、彼女――ティアナ・フェイルは特にその扱いに何を抱えていた。かつて幼い頃、いじめを受け、追い詰められた末に彼女の魔力は暴走した。怒りと恐怖が重なった瞬間、抑えきれずに”獣化”が起きたのだ。相手は半死状態にまで追い込んだ。殺しはしなかった。だが、もう戻れなかった。


……ただ、一人を除いては。

 彼――ティアナの幼馴染だった人間の少年だけは、離れなかった。その優しさは、いつだって無言で彼女のそばにいた。だが、中等部進学と同時にふたりは別々の道を歩むことになり、再開は叶わぬまま時が過ぎた。


 そうしてティアナは、”独り”になることを選んだ。怒りも悲しみも、嬉しさも顔に出さず、ただ静かに過ごすだけの毎日だった。

――けれど、この学院に入ってからは違う。

 フィオナという少女に出会って、少しずつ、何かが変わり始めている。

 それはあの頃の温もりを思い出させるようであり、同時に、封じていた”何か”を呼び起こすようでもあった。


 彼女自身にも、それが何を意味するのかは、まだわからない。けれど一つだけ、確かなことがある。今の彼女はもう無感情だけではいられない。

 だからこそ、魔力に振り回されないように――制御し、学ぶしかない。


――ペンを持つ手がじっとりと汗ばむ。


 魔術には、構文ひとつで効果が変わるものがある。それを正しく記述し、安定した形で“定着”させるのが魔術式――この国の魔法教育の基礎中の基礎だ。

(やばい…次の問題、構文逆にしたら爆発魔法になるやつだ…!)

 ティアナは歯を食いしばりながら、必死にペンを走らせていた。試験中とはいえ、軽く命に関わるなんてひどい問題だ。


 その時だった。窓から差し込む日差しが、ぴくりと揺れたように見えた。

 ……いや、揺れたのは光じゃない。ふと顔を上げる。斜めから差し込む光が、何かに反射して――ティアナの瞳にチラ、と触れた。


 一瞬、視界の奥がきらりと光る。

(いま、なに……?)

 まぶたの裏に残る、妙に鋭い緑の残光。その瞬間、胸の奥がざわめくように波打った。どこからともなく、風が頬をかすめたような錯覚。


……おかしい。何もしていないのに、魔力が、動いた?

 左は青、右は緑。淡く混ざり合うその色は、幼い頃から「ちょっと不思議だね」と言われてきた。

……けれど最近、ティアナ自身も、この“緑”のほうに違和感を覚えることがある。


 まるで、なにかが宿っているみたいに――

 自分の視線じゃないような気がする時が、確かにあって。

(いや、今の……ただの反射なんかじゃない)


 窓の外では風ひとつ吹いていないのに、光が揺れる。

 何かが――見えない“何か”がそこにいるような、不気味な感覚。ぞわり、と胸の奥に走る、異様な気配。

(……なに、今の……?)


 魔力が、妙に引っ張られるような感覚――しかも内側から。

(なにこれ……自分の中から、何かが動こうとしてる……?)


 けもみみ族に生まれた者は極度の緊張や危機的状況かで”獣化”という状態に入ることがある。それは本能的な防衛反応であり、古代からこの種族が生き延びるために受け継がれてきた力。普段は耳や尻尾程度の特徴に留まっているが、制御を失えば――人の姿さえ保てなくなる。


(まさか、わたし……?)

 そんな思考がよぎった瞬間、教室に響いた小さな声。


「ティー…なぁにそわそわしてるの~っ もしやカンニング?」(小声)

「今の聞いた?窓の外側で変な感じするの」

「ん?そんなことよりティーの眼!ほんの少し光ってるよ!鏡見て!」

「え?わっ、ほんとだ!……な、何もしてないのにっ!」

「ちょっと、騒がないでって……ッ!ティアナさん!」

 ミリア先生が鋭い声が飛んだ。

「すぐに《魔律安定室》へ! いい?走って!」

「えっ……な、なんで……」

「今はいいから、とにかく早く!他の皆さんはそのまま試験を続けてください!」

「えっえっ、えーっ!?」


 ティアナは戸惑う間もなく、先生に手を引かれて教室の外へ。

「心配なんで私も行きます!」

 フィオナも慌てて後を追い、教室から飛び出していった。勢いのまま廊下を抜け、石敷きの階段を駆け下りる。

 靴音がカツンカツンと響き、心拍の早まりと重なるように、ティアナの胸がざわめいていた。


 数分も経たぬうちに、目の前に見慣れた扉が現れる。ひんやりとして空気をまとった、木製の重厚な扉――ここは、《魔律安室定(ルーンスタビラリウム)》。


 強い魔力や感情によって、けもみみ族に現れる“獣化の兆候”を抑えるために設けられた特別な場所だ。人でありながら獣の力を持つ彼らにとって、それは一種の防衛本能でもあり、時に制御不能な暴走へと繋がる。魔力量が未成熟な学生たちは、大抵“耳”と“尻尾”だけで済むが、それでも異変が出れば、即座にここへ連れてこられる決まりになっている。


 中に入ると、部屋はどこか草木の香りが漂っていて、淡い光の石灯りが優しく灯っていた。

 診察用のベッドと小さなテーブル、それにポットと湯気の立つカップ。

 ミリア先生は手早くカップを差し出しながら、にっこり微笑んだ。

「はい、これ飲んでね~。大丈夫、ただのハーブティーよ」


 ミリア先生が優しくカップを差し出すと、ティアナは少し戸惑いながらも手を伸ばす。「ごくごく……」と喉を鳴らせば、ほんのり甘い香りと暖かさが、喉を通り、胸の奥へと染み込んでいく。


「ねぇティー、大丈夫なの?」

 フィオナが心配そうに身を乗り出してくる。いつものおちゃらけた調子はどこにもない。

「少し、マシになったかも…」


 その一言を聞いた瞬間、フィオナの表情がふにゃりと崩れた。肩の力が抜けたように、ほっと息をつく。

「良かったぁぁ~」

 その耳がぴくぴくと揺れ、しっぽもぱたぱたと安心したように動く。

 さっきまで教室で冗談を飛ばしていた彼女とは、まるで別人のようだ。不安と安堵が入り混じった、少し頼りない――けれど、心からの笑顔。

「もう……ビックリさせないでよぉ……」

 そう言いながら、フィオナはそっとティーの手をぎゅっと握る。その手は、あたたかかった。


 いつもは軽くてにぎやかで、どこか掴みどころのないフィオナが、今はまっすぐに自分だけを見ている。普段おちゃらけていても、親友のことになるとこんなにも真剣なんだ。

 ティアナは少し驚きながらも、その手のぬくもりに、心の奥がふっと緩むのを感じた。

 そして――そっと握り返す。

 ほんの少しだけ、胸の奥のざわめきが静まっていく。

(大丈夫……私は、まだ制御できる)

 そう自分に言い聞かせるように、静かに深呼吸をする。


けれど、次の瞬間――

「……ッ!」

 ふいに、左目の奥がちかりと痛んだ。思わず眉をひそめ、まぶたを閉じる。その暗い裏側に、ぱちりと鮮やかな緑の光がきらめいた。まるで何かが、ゆっくりと目を覚ましたかのように――。


 ティアナの左目にきらめいた緑の光。それが消えるのとほぼ同時に、ミリア先生はそっとティアナの手元からカップを受け取った。淡い香りの残る器が、静かにテーブルの上に戻される。

 その仕草は穏やかで、けれどどこか慎重で。まるで、壊れやすい何かに触れるような――そんな繊細さがあった。


「ティアナさん」

 名前を呼ばれるだけで、背筋がすぅっと伸びる。その声は優しいのに、なぜか耳に深く残る。

「こういうこと……初めて?」


 ティアナは一瞬、言葉に詰まり、思わず隣のフィオナをちらりと見た。フィオナは驚いたように目を見開きながらも、すぐにふっと小さく頷いた。――大丈夫、とでも言うように。その瞳が、ティアナの背中をそっと押してくれる。

「……はい。初めてです」


 ぽつりと答えたその言葉に、ミリア先生の表情がすっと変わる。穏やかな笑みはそのままに、けれど瞳の奥に静かな光が灯る。やさしい。けれど、逃げ道はない――そんな魔術師のまなざしだった。

「そう。じゃぁこの機会にちゃんと話しておくわね」


 室内の空気がひとつ、ぴんと張り詰める。それは教室の中では決して見せない、先生の”本当の顔”だった。

「さっき――あなたの目、うっすら光ったでしょ?」

 静かに投げかけられた言葉。ただそれだけなのに、ティアナの胸がドクンと強く脈打つ。

「授業でも話したと思うけど、あれは……極端に言えば、”魔力暴走”の兆候なのよ」


”魔力暴走”。

 その言葉の重みが、胸の奥にじくりと染み込んでくる。

 喉がひゅっと細くなり、息が止まりそうになる。

――まさか、自分が。

 ティアナの手が、無意識にフィオナの袖をひゅっと握っていた。小さく、震えていた。


「えっと、その……暴走って、そんな急になるもの…なんですか?」

 ティアナの声はかすかに震えていた。

 隣で心配そうに見つめていたフィオナが、そっとティアナの背に手を当てる。

 その手は力を込めないまま、そっと背に触れていた。けれどそのぬくもりが、胸の奥にすっと入り込んでくる。


 ミリア先生はほんの少しだけ視線を落とし、考えるように間を置いてから、静かに口を開いた。

「……誰にでも、なにかしらの”前触れ”はあるはずなの。完全に予兆なしで暴走することなんて、まずないわ」

 優しく断言するような声音。

「さっき、目が光る前――なにか、変な感じとか……心当たり、なかった?」


 ティアナは少しだけ黙り込み、胸元に手を当てた。

(さっきの……あの時)

「……はい。試験中に……なんか、胸の奥がザワっとして……それで……風、みたいなものが通った気がして。誰もいないのに、横をすっと……」


 言葉を選びながら、ぽつりぽつりと語っていく。その瞬間の不安と違和感が言葉にすることで改めて自分の中に立ち上がってくる。教室で感じた、奇妙な”なにか”の気配。部屋の空気が少し静まった。


「風……?」

 フィオナが眉をひそめて、首をかしげる。

「それってさ、ただの緊張でそう感じただけじゃ……?」


 ティアナが返事をする前に、ミリア先生がふいに反応する。

「……風、ね」

 その短い言葉の中に、これまでの柔らかい空気とはまったく違う、研ぎ澄まされた気配があった。先生の目が真剣そのものに変わる。光を帯びるようなその視線が、ティアナをまっすぐに射抜く。

「ティアナさん――あなた、最近……”夢を見たりしてない?”」


「え……?」

 不意を突かれて、ティアナはわずかに息を呑んだ。思い浮かぶのはあの夜の夢――。


 湿った空気。濡れた石畳。誰かが足音を立てて近づいてくる音。

 影の向こうから、微かに聞こえてくる声――まるで、自分の名を呼んでいるかのように。


「……はい。少し……変な夢を、何度か」

 ティアナは視線を落としながら、胸の奥にひっかかっていたその言葉を、ようやく吐き出した。ミリア先生は驚くでも焦るでもなく、静かな理解の色を瞳に浮かべて黙って頷く。


「魔力と夢はね、深い関係があるの」

 先生は言葉を選ぶようにして、ゆっくりと語りだした。

「特に”眠っていた力”が目を覚まそうとするとき……無意識の領域が、先に反応するのよ。本人の意思より、もっとずっと深いところでね」

 ティアナは何も言えず、ただ耳を傾けていた。自分の奥底で、何かがじっと蠢いている――そんな感覚が、確かにある気がした。


「つまり、それって――」

 フィオナがぽつりとつぶやいた。ティアナの手を握ったまま、顔を伏せたようにして続ける。

「ティーの中に、まだ……知らない”なにか”があるってこと?」


「そんな……」

 ティアナの声がかすかに揺れる。

 「わたし……自分のこと、ただのけもみみ族だと思ってたのに……っ」

 その言葉には、戸惑いと恐れが混じっていた。自分の中に、夢と繋がるような、得体の知れないものが――自分自身の奥に眠っているなんて。


 ふいにミリア先生がそっと微笑んだ。

 それは母親のような、魔術師のような、穏やかで芯のある表情だった。

「誰だって、最初は”普通”なのよ」

 ティアナの肩に手を置いて、やわらかく続ける。

「でもね――自分の中の変化に、ちゃんと気づける人は……もう、”普通”ではいられない」


 静かな言葉だった。けれど、その意味がとても重くて、温かかった。ティアナは息を呑んだ。胸の奥に何かがぽつんと落ちる音がした。


「ティーはティーだよ」


 その瞬間、隣からフィオナの声が届く。低く、でも真っ直ぐな声。

「何があっても、わたしがついてるから」

 そう言いながら、フィオナはそっと握っていた手に少しだけ力をこめた。その手のぬくもりが、ティアナの全身をじんわり包み込んでいく。

「……フィオナ……」

 ティアナの目に安心と不安が混じりあったような、揺れる光が宿った。


その時――


コン、コン……


 部屋の扉が、控えめに二度、ノックされた。沈んでいた空気が、わずかに揺れる。まるで、静かな湖面に落ちた一粒の雫のように。


 誰が、何のために、今この扉を叩いたのか。その答えは、まだわからない。

 けれど、確かに何かが動き出そうとしていた。


 ティアナはそっと息を吸い込む。胸の奥のざわめきが、ほんの少しだけ――形を持ちはじめていた。

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