【 序章 】遠くの星の光
けもみみを揺らしながら、全力で廊下を駆ける少女。
心の中で絶叫する。
「夜更かしするんじゃなかったぁっ!!」
狼のような勢いで走るその少女――ティアナ・フェイル。
徹夜で再テストの勉強をし、挙げ句の果てに夢の中でも魔術式を反復していたせいで、起きた時には登校時間ギリギリだった。
もし再テストを逃せば、待っているのは恐ろしく長い魔術補習。
毎日の楽しみである放課後の散歩も奪われてしまう――それだけは絶対に避けたい。
必死の形相で走り続け、ようやく廊下の先に木製の扉を見つける。
勢いよく押し開け、息を切らしながら教室へ飛び込んだ。
「っ……間に合ったーっ!!」
肩で荒く息をするティアナの視線の先。
教壇の前で腕時計をつんつんと指しながら、呆れ顔を浮かべる背の高い女性がいた。
「ティアナさん、早く席についてください。まもなく始業のチャイムが鳴りますよ」
その女性――魔術講師のミリア先生だ。
どうにか間に合ったことに安堵しつつ、ティアナは自分の席へ駆け込む。
その瞬間、前の席に座る少女が耳をぴょこぴょこと揺らし、にこりと笑いかけてきた。
「ギリギリだったね~。焦ってるティーちゃんも、可愛いなぁ♪」
彼女はフィオナ。犬耳のように見えるが本人曰く“狐耳”の、ティアナの親友であり同級生だ。
指でティアナの頬をつんつんしながら、さらにからかう。
「いつも夜更かししてるからじゃないの~?」
ティアナは頬をぺしっと払い、むっと顔を逸らす。
「い、いつもは……ちゃんと寝てるもん!今日は、たまたま再テストでっ――」
――その言葉を遮るように、
キーンコーンカーンコーン……
澄んだ音色が教室に鳴り響いた。始業の合図。
「テストはもう始まりますよ! ティアナさん、集中してください!」
バンッ!と教壇を叩き、ミリア先生が鋭く言い放つのだった。
「す、すみませんっ!」
ティアナは慌てて口を塞いだ。
それを見たフィオナは、くすっと笑って小声で囁く。
「続きは……テスト終わってからねっ♪」
そう言って、くるりと前を向き、試験用紙に取りかかった。
「わ、私も早く取り掛からなきゃ……っ」
ティアナは必死に、昨晩詰め込んだ魔術理論を思い出しながら、ペンを走らせる。
――そして、教室の空気がふっとほどけた。
「そこまで! 答案を前に回収しなさい」
ミリア先生の声が響き、生徒たちが一斉にペンを置く。
「ふぅ……これで完璧……!」
ティアナは勝ち誇ったようにペンを置き、答案用紙を見下ろした。
――そして、凍りついた。
「なっ……なななな……なんでぇぇぇっ!?」
自信満々だったはずの答案には、ほとんど文字が書かれていない。
ページの大半が白紙。要するに――寝落ちしていた。
「う、嘘でしょ!? 私、夢の中で答案書いてたってこと!?」
思わず机に突っ伏すティアナ。
前の席から振り返ったフィオナが、肩を揺らして笑った。
「ぷっ……ティーちゃん、まさかの白紙提出? これは追試決定だねぇ~」
「もう知らないっ! どうせまた追試受けるんだし!!」
ティアナは半泣きで叫び、両手で頭を抱えた。
「ふふーん、追試仲間ができて嬉しいなぁ♪」
「全然嬉しくなーいっ!」
二人の小さな騒ぎに、周囲の生徒がくすくす笑う。
教室に流れる緊張感はすっかり和らいでいた。
――だが。
机に突っ伏した瞬間、ティアナの胸にざわりと残るものがあった。
テストよりもずっと気になる“何か”。
(……あのとき、見た夢……)
ティアナが小さくつぶやくと、フィオナは目を丸くし、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「夢? なになに、もしかして恋の夢~?」
「ち、ちがっ……!」
ティアナが慌てて否定する横で、フィオナの指がにゅっと伸びてくる。
「変な夢はこのフィオナちゃんが消し去ってやるぅぅ〜っ!」
「わ、やめっ、また頬つんつんしないでよーっ!」
「ちょっ、ちょっと! そんなことしても消えないっていうか……べ、別に嫌じゃないっていうか……ぶつぶつ」
慌てて顔を手で隠そうとするティアナの頬は、恥ずかしさでほんのり赤く染まっていた。
いつものお決まりのやりとり――だけど、その中に少しだけ、今日の空気は違っていた。
「それで? どんな夢だったの?」
いたずらっぽい笑顔の奥に、どこか本気の興味がにじんでいる。
ティアナは一瞬だけ視線を落とし、ぽつりと語りはじめた。
「うん、ちょっとした……不思議な夢でさ」
彼女は目を閉じ、記憶をたどるように、言葉を選びながら続けた。
「水の上に立ってたの。すごく静かで、澄んだ泉の真ん中に……大きくて、光ってる結晶が浮かんでたの」
声がだんだんと遠くなる。まるでまだ夢の中にいるかのように、情景をなぞるティアナ。
(――泉は、青く透き通っていて、底まで見えるくらいに澄んでいた。水面は波ひとつなく、結晶から放たれる光が、静かに揺らめいていた――)
その描写を聞きながら、フィオナの耳がぴくりと動いた。
その場所に、彼女は心当たりがあった。でもまさか……ティアナがそこを夢に見るなんて。
「光ってる大きな結晶? へぇ〜……」
興味深そうに呟きながら、フィオナは頬に手を当て、考え込むような仕草を見せた。
「それで、その結晶に触れた瞬間――耳の奥がズンってして……そしたら、泉から黒い影みたいなのがぶわって広がってきて。目を逸らせなかった」
ティアナの声には、わずかに震えが混じっていた。夢なのに、妙に現実感があって、不気味で――それでいて忘れられない。
「それ、ただの夢じゃない気がするなぁ」
フィオナがふいに真顔になり、ティアナをまっすぐ見つめて言う。彼女の耳も、ぴんと立っていた。
「でしょ……? しかも、目が覚めたとき、手のひらがちょっと冷たかったの。まるで水に触れてたみたいな感覚で」
「ティーちゃん、そういう夢、前にも見たことあるの?」
「んー……ここまではっきり覚えてたのは初めてかも」
答えながら、ティアナは自分の手のひらをそっと見つめる。感触はもうないけれど、確かにそこに何かが残っていた気がして。
「ふーん……これは、フィオナちゃん、ちょっと本気で気になってきたかも」
そう言って、フィオナは腕を組み、まるで探偵のような表情になる。
「ちょ、やだ! 真面目な顔しないでよ! 余計に不安になるじゃん!」
ティアナが顔を赤くしながら抗議すると、フィオナはケロッと笑って――
「大丈夫大丈夫っ! 不安な時は、こうだーっ!」
再び顔ぷに攻撃! しかし今回は、ティアナが素早く避ける。
「ぱしっ!」
フィオナの手を軽くはたくと、彼女は大げさに涙目になって見せた。
「いたーい……」
そんなやり取りの最中――
――チリン……チリィン……。
耳の奥に直接届くような、高く澄んだ鈴の音が鳴り響いた。
それはさっきの休み時間のチャイムとはまるで違う。音そのものは小さいのに、不思議と頭蓋の奥まで響いてくるようで――聞く者の意識を一瞬だけ掴んで離さない。
「……あ、始まるんだ」
誰かがぽつりとつぶやく。
その声を合図に、教室全体がざわりと動き始める。
背筋を伸ばす者、ノートを取り出す者、手を組んで小さく深呼吸する者。
――それぞれが来るべき“何か”に備えていた。
窓の外から差し込む魔力の光が、霧のように淡く教室を包み込み、肌を撫でるたびに胸の奥へ緊張がしみこんでいく。
ティアナは思わず背を正した。空気が変わった。そう――今度は、本番だ。
「次のテストってなんだっけ!?」
フィオナが椅子に座り直しながら、焦った様子でティーに顔を近づける。
「たっ、確か魔術式のやつ!」
ティアナは慌ててノートをめくるが、どこに何が書いてあるのかすぐには思い出せない。
ページをめくる指先が、少し震えていた。
「ふ…ふっふーん!それならこのフィオナちゃん!復習しなくても無敵なのだー!」
胸を張り、どや顔で言い放つフィオナ。その姿は自信満々の演者そのもの。
「いやいや、前回のテスト赤点ギリギリだったじゃん…」
「ぐっ……!!直感で魔法操れるのに、座学なんてやらなくてもいいもーん!」
ぷいっとそっぽを向くフィオナ。
けれど――教室の空気は既にピリッと引き締まっており、生徒たちは鉛筆を握りしめ、ページをめくる音だけが静かに響いていた。
「うぅ…もうだめかも…」
ティアナはついに机に突っ伏し、両手で頭を抱える。その小さな背中は、“徹夜した努力が報われる気がしない”という絶望を物語っていた。
「せっかく徹夜したのに、始まる前から諦めてどうするのー!」
フィオナはすかさず指を差し、元気いっぱいに叱咤する。
「だって魔法理論難しすぎるんだもん……どうして魔力の流れが螺旋構造になるのかとか……」
ティアナが顔を上げると、フィオナはいたずらっぽく笑って――けれど、その瞳の奥には一瞬だけ真剣な光が宿っていた。
「……ティー。それ、夢と関係あるかもしれないよ?」
その一言に、ティアナの心臓がどくりと跳ねた。
ティアナはジト目で机にへばりつき、ノートの文字を睨みつける。
その姿は、もはや戦う気力を失った兵士のようだ。
「はいはい、それは魔力が自然界のエネルギーと共鳴して――」
「フィオナが説明するともっとわかんなーい」
言葉を遮られ、フィオナの顔にうっすらショックの色が浮かぶ。
「なにぃっ!?じゃあこうだ!」
勢いよく髪をつかむと、指でぐるぐると巻き始める。
「ほら、こうやって上がっていくの!魔力も感情も、こんなふうに渦巻いてるってこと!」
「む、むりやりだ…」
ティアナがやや引き気味に呟くと、フィオナはふと表情を変えた。ふざけていた口元が少しだけ引き締まり、その瞳には静かな光が宿る。
「でもさ、ティーの魔力って、すごく繊細で静かで…なんか、他の子と違う感じするよね」
その言葉に、ティアナは目を見開き、ゆっくりと顔を上げる。
「…え?そうかな?」
「うん。なんていうか…“遠くの星の光”みたいな。近くにいるとあったかいのに、どこか儚くて…」
まるで夜空を見上げているような、澄んだ声。
その響きは、ティアナの胸の奥へすっと染み込んでいった。
意外すぎる言葉に、ティアナはまばたきをして、ほんの少し視線を逸らす。
「……な、なにそれ……急に言われると困るじゃん……」
頬に手を添えながら、少しだけ声を震わせるティアナ。
フィオナはすかさず指を差してニヤニヤと笑う。
「ほら! また黙ってるー! うわー、照れてるーっ!」
「ちっちがっ…そういうの、言われ慣れてないだけだし!」
反射的に語気を強めたものの、ティアナの耳の先は真っ赤に染まっていた。
――そのとき。
ガチャッ。
教室の扉が勢いよく開き、ミリア先生が颯爽と現れる。
ざわついていた空気が、氷を流し込まれたようにピタリと静まった。
「そこ! テストの時間ですよ! 集中しなさい! 皆も、ですよ!」
ミリア先生が教壇に立つや否や、バンッと机を叩いて鋭い声を放つ。その声音と佇まいには、試験官としての威厳と冷静さが宿っていた。教室全体が一瞬で緊張に包まれ、生徒たちが姿勢を正す音が重なる。
「……はーい」
ティアナは机に顔を伏せたまま、蚊の鳴くような声で答える。
「はーい!」
フィオナはわざと棒読み気味に大声を張り上げ、ミリア先生の視線をひとり占めにした。