22:森に眠る
至福の日々は、いつでもここにあった。
小夜子のいる情景の中に。
美しい森の避暑地にあった。
夏が終わって彼女の不在を思い知ると、世界は色彩を欠いたように暗く沈んだ。
彼女を失うことは、できなかった。
「どうした、貴史」
暗い坂道で貴史が立ち止まった。俯いた顔から、小さな影が落ちたように見えた。
涙だ。
「泣いているのか」
三年前に繰り返し歩いた坂道。丁度、こんな暗い夜道だ。貴史の記憶の鍵も、もう外れてしまったのだろう。彼は泣いてないと言うように首を振り、俺の腕を引っ張った。
「どこへ行くんだ、貴史」
「森」
「おい。じいちゃんも小夜子も待っているのに」
「待ってないよ」
硝子が砕けた。なぜか貴史の激しい否定は、そんな事を思わせた。分かっていた事なのに、衝撃が大きな波紋を描く。貴史には、いつまでも夢を見続けて欲しかったのかもしれない。
森に踏み込む貴史の背中は、三年前とは比べものにならない程大きくなっている。抱き上げる事の出来た小さな少年は、もういない。
「貴史、いい加減にしろよ」
静まり返った森に、自分の声が響き渡る。永遠にこの森で過ごして欲しかったのは、小夜子であり、貴史であったかもしれない。何より自分が、この森で立ち止まりたかった。貴史がゆっくりと振り返る。
「あと少しなんだよ、悠兄」
「何が」
あどけなさの残っている顔から、無邪気な笑顔が消え去っている。風が森を渡り、樹々が囁きを交わす。闇を照らすのは天上からの月光だけ。
磨かれた鏡のような月が、白い光を鋭く地上へ突き立てる。
貴史が俺の視線から逃げるように、顔を伏せた。
「いったいどうしたんだ。帰るぞ」
貴史は小夜子の眠った場所を目指しているのだ。彼の腕を掴むと同時に、暗闇に慣れた目が、遺品を見つけた。繁る葉影の下でぼんやりと浮かぶ塊がある。立ち止まった俺に、貴史はすばやく反応した。
「悠兄」
小夜子と共に時を止めた腕時計。水晶硝子に亀裂が走り、文字板の屈折が奇妙に歪んでいる。手に取ると、金属の冷たさが背筋に反射した。
「お姉ちゃんのだよ、悠兄」
「……ああ」
終わりがやって来る。小夜子を探さなければ。森を吹き過ぎる風が、不自然に止まった。糸を張ったような完全な静寂が辺りを支配する。
闇に沈んだ彼方から、細いソプラノが流れ出した。
「小夜子の歌声だ」
悼む旋律。哀しみに満ちた歌声。呼んでいるのか、別れを告げているのか分からない。歌声を追って奥へ踏み込むと、声は次第に澄み渡って行く。
木立の向こうに白く霞んだ人影が揺らぐ。気配に気付いたらしく、彼女はゆっくりと顔を上げた。
「小夜子……。こんな所にいたのか」
歩み寄って、切株に腰掛けている彼女に時計を差し出す。
「ほら、時計」
「ありがとう、悠」
時を刻まないまま、細い腕に時計が戻る。小夜子は俺の背後に目を向けた。
「ねぇ、貴史君。もう一度聞いても良いかしら」
振り返ると、少し離れた木立の前に貴史が立っていた。大きな瞳が真っすぐにこちらを見ている。
「私は、悠にふさわしいと思う?」
貴史は答えない。表情が歪み、哀しみに彩られて行く。ただ震えた小さな声で、俺を呼んだ。
「悠兄……」
「何だ、貴坊」
闇よりも透明な漆黒が、彼の瞳の中にある。
「今は、幸せなの?」
「幸せだよ」
微笑んで見せると、貴史はかすかに頷いた。
「お姉ちゃんは?」
「私の幸せは、悠の幸せ。……でも、分からない。何が悠にとって一番幸せなのか」
貴史の瞳が、哀しみを映した。小夜子の瞳から涙が滑り落ちる。
「悠には、未来があるわ。――貴史君、答えて」
「悠兄」
しゃくりあげながら、貴史は俺を見上げた。涙に濡れても深い黒をたたえた瞳は、綺麗だった。彼の頭に手を置くと、貴史は腕で涙を拭う。
「泣くな、貴坊」
「……お姉ちゃん。――悠兄は、今が、幸せだって……」
未来よりも美しいひとときは、いつでもここにあった。
貴史だけが、その想いをわかってくれる。
だから小夜子も俺も、彼に託したのかもしれない。
「ねぇ、僕の事、忘れないで」
貴史の声が森を揺るがす。
ゆっくりと、闇の彼方を目指した。
樹々が奏でる鎮魂歌に包まれ、森に眠る。
森のレクイエム FIN
お読みいただき、ありがとうございました。




