21:三年前
赤く焼けた地平線近くの空に、夕闇が迫っている。淡い藤が段々に濃い紫を迎え入れる。力尽きた夕陽に照らされて、辺りは長い影で満ちた。
「悠兄」
坂にさしかかった所で声がした。振り返ると、貴史が駆けて来るのが見える。俺にはない眼差しを持って、走って来る。知らずに目を細めていた。
「お前、じいちゃんは?」
「じいちゃんが悠兄と一緒に行けって」
「そうか」
山荘にじいちゃんが訪れて来た。俺に
「目を醒ませ」と言いに来たのだ。彼には演技を見抜かれている。逃げるしかなかった。
「それに、悠兄が」
「え?」
「……兄ちゃんが、遠くへ行ったまま戻って来ない気がしたし」
「馬鹿だな」
笑おうとして出来なかった。貴史もお見通しなのだ。
「お姉ちゃん、商店街にいるかな」
小夜子がどこにいるのかは検討がついていた。足を向けるには勇気が必要だった。
坂を下ってあてもなく貴史と歩いた。賑やかな商店街もシャッターを下ろし始め、坂道を歩く頃には陽が暮れていた。高い空に星が輝いている。冴えた輝きが、いつか森の奥で見た灯火を思わせた。
まだ幼い貴史を連れたまま、光を目指して森へ踏み込んだ事があった。あの時も、小夜子を探していた。
闇の中に浮かぶ懐中電灯の光は、チラチラと命の炎のようだった。闇のせいで樹海と化した森は、やけに静かで。光に向かうにつれて、その静寂は破られる。人の話声がだんだん近くなって行くのだ。
辿り着くと、人影が群れを成して何かを取り囲んでいた。
「小夜子さんは見つかったか」
嫌な予感がした。人垣の中心で、小夜子が眠っていたのだ。犯人が捕まったと、じいちゃんが言った。
――最近町に変な輩が徘徊しとるらしい。
そうだ。小夜子は気を付けなければいけなかった。日暮れの坂道には人気がなくなる。
――もちろん悠が守ってくれるわよね。
約束したのだ。責任を持って守ると、なのに。
「野犬が食い荒らしたらしい。誰なのか分からん」
分からない筈がない。体が小刻みに震えだし、足元から力が抜けて行く。
「……小夜、子」
呼びかけて、いくら待っても返事はない。深く眠っているらしい。こんな所では風邪を引くかもしれない。温めてやらなければ。
手を伸ばすと彼女の体は冷たかった。凍りついた人形のように。
自分が凍てつく。小夜子の体は、こんなに小さくはない。
「……違う、小夜子じゃない」
呼んでも答えない。腕に抱く体もあまりに小さい。これは違う、偽物だ。
「だって、返事をしない」
「悠。でも、お前――」
「違う。……あいつは、呼べば答える。だから、違う。――違う」
これは、小夜子ではない。
「小夜子のわけが、ないんだ」
風の音がする。樹々の囁きが聞こえる。
――悠、助けて。
声が聞こえる。葉擦れの音に交ざって悲鳴のような、小夜子の声。
――助けて。
「違う!小夜子じゃない」
「悠。なら、なぜ泣く。小夜子じゃないなら、なぜ」
じいちゃんに肩を叩かれた。小夜子の悲鳴が掻き消える。単なる樹々のざわめきだった。
「泣いてなんかいないよ」
その日を境に、小夜子は姿を消した。




