君に伝える言葉
足をひきずるようにして、わたしは帰宅した。
これまでこの館に戻るのは喜びだった。今日ばかりは気が重い。彼女と顔を合わせるのがつらかった。
玄関を開けると、奥からマユハが歩み出てきた。
「おかえり、ロゼ」
「ただいま」
マユハは綺麗だった。悲しいほどに。
いつも通り、抱きつこうとマユハは小走りに寄ってくる。
わたしは思わず身構えてしまった。
消え入るように歩みを止め、マユハはにっこりした。
「……ごはん、作ったよ」
「うん。ありがとう」
食事は砂を噛むようだった。なんの味もしない。
マユハはちらちらとこちらの様子をうかがっていた。わたしは目を合わせることができなかった。
「――どうなったの? 話し合い」
「……まだわからない。明日、また会うことになったわ」
「場所と時間は同じ?」
「そうだけど……駄目よ、ついてきたら。わたしとチプスでなんとかするから」
間違いなくボーデンはマユハを罵倒する。
なのに、わたしはマユハを助けられないだろう。言い返すことさえ、できない。そんなことには、とても耐えられなかった。
「わかった」
不満なのか、それきりマユハも押し黙ってしまった。
どうにか食べ終えたが、胃の中に石を詰めたような異物感があった。これじゃ、ろくに消化できないだろう。食卓を挟み、わたしとマユハは口を閉ざしたまま、座っている。動くことさえはばかられるような空気だ。
こんなのおかしい。まるでわたしが悪いことをしたみたいじゃない。
でも、じゃあ――誰が悪いことをしたんだろう。
マユハ? マユハが――
「悪い子」
ぽつりと二人の間に置かれた言葉。
「悪い子。わたしは」
「やめて」
「ロゼ、わたし――」
「やめてってばっ!!」
そんなこと言わないで。認めないでよ。
わたし、どうしたらいいのか、わからないよ。
「……じゃあ、本当なんだね?」
「たくさんしたよ、男の人と。覚えてないくらい、たくさん」
「そん、な……そんなこと……っ」
怖気をもよおす想像が思い浮かび、わたしは身を縮こまらせた。
知りたくない。聞きたくないよ、そんなこと……っ!
堪えきれず、嗚咽が漏れ出た。
なんでそんなことを言うの。少しは嘘をついてくれたっていいじゃない。一度だけ、気の迷いだったとか、なにか言えるでしょ? わたしだって、だまされたふりくらいできるのに。
駄目だ。駄目、待って。違うでしょ。
「どうして、今までなにも教えてくれなかったの!?」
「ごめんなさい」
あやまるくらいなら、どうして――わかっている。いまさらこの娘を責めても、どうにもならないんだ。
だけど、どうやって割り切ればいいの?
許せない。
だけど、誰を?
マユハ? それとも顔も知らない、どこかの男達を? 許せなくて、だけど、もうどうしようもない。とてもじゃないが、受け容れられないよ。
それが偽らざる、わたしの本音だった。
でも、わたしがマユハに伝えたいことは、それじゃないはずだ。
「ボーデンが死んでないって、知っていたはずよ! 嘘なんかつかなければ……」
知りたくないことを知らずにすんだ。少なくとも、こんな形で知らずにすんだのだ。知らずに死ぬことだってできたかも。
わたしは――わたしが――待って。駄目、待って。感情に押し流されては駄目だ。そう、駄目だ、馬鹿!!
マユハだ。
マユハはどうしてる? マユハを見なくては。見るのが怖い。でも、見なくては。
そらしていた顔をぎこちなく動かすと、彼女の手が視界に入った。
白くなるほど強く組んだ、両手の指先。
震えている。怯えている。打ちのめされている。
「ごめんなさい」
事実ほど鋭い刃の責め苦はない。
わたしがなにかを言う度に、マユハは切り裂かれている。彼女の心が血を流しているのがわかった。
わたしがしているのだ。こんなことをしたいの、わたし?
「ち、違う……待って、そうじゃないの。ただ、わたしは……」
またしても瞳から涙があふれ出そうになる。
わたしは驚き、己の弱さに激怒した。
自分を哀れむのが、わたしのしたいこと? マユハを傷付けてまで、自己憐憫に浸りたいの?
いい加減にしろ、ロゼ・ボルド!!
きっと、ここが別れ道になる。ここで間違えたら駄目なんだ。
言うべきことはなにか。探さないと、見失ってしまう。
「ごめん、なさい……」
この娘を永遠に――母のように、失ってしまう。
嫌だ。冗談ではない。
トノト村なんて、わたしはあの日まで聞いたこともなかった。もう終わったことだ。なにもかも過去なのだ。
そんなものにわたし達の今を縛らせはしない。
「……ごめん、マユハ。ううん、これも違う。わたし――わたし、は」
背筋を伸ばし、しっかり視線を据えた。マユハもおずおずと顔を上げる。
言うべきことは自然に転がり出てきた。
「――愛している」
語るべきこと、話し合うべきことは他にも色々あるだろう。
だけど、まずはこれだ。
大切な人が深く傷付いている時、最初にかける言葉はこれしかない。
そう、これだ。やっと見つけた。
わたしから君に伝える言葉を。
「愛しているわ、マユハ」
ほっそりした小柄な身体。綺麗で繊細な面立ち。
ぼんやりした、ちょっと気の抜けた話し方。
変に度胸があって、甘え上手で、時々意地悪。
何一つ、変わらない。わたしの愛する少女は、わたしが愛した時のままだ。
馬鹿馬鹿しいほどに当然だった。
マユハはマユハなのだから。
「ずっと愛している。忘れないで。覚えていてね」
「う、うん……」
「君を愛しているわ。これまでも、これからも」
「うん……うんっ! う、あ、うあああああっ!!」
いつ席を立ち、いつ食卓を回り込んだのか。
気付けばわたしはマユハを抱き締めていた。
愛している。
たぶん、わたしは母にも同じことを言うべきだったのだ。
恐らくはあの時、父の死を母は知った。
だからわたしを――わたしだけでも助けようとした。
もちろん、彼女はわたしが邪魔でもあった。
できれば父と二人で過ごしたいのは、母の本音だったろう。
それでもお母さんは、きっとわたしを愛していた。
本当にどうでもいいのなら、母はわたしを無視したはずだ。
わたし達母娘は不器用で、自分の気持ちにさえ鈍感で、別れはあまりに突然だった。
でもきっと、この言葉だけは伝えなくてはいけなかったのだ。愛していると伝えるべきだった。もう手遅れだ。残念だけど、気づくのが遅すぎた。
ああ、だけど今度は間違えなかった。間に合った。
嬉しくて、わたしは心から安堵した。
わたしがやるべきはマユハを責めることじゃない。
助けることだ。
支えてあげることだ。
愛する者に、寄り添うことだ。
わたし達はずっと一緒なのだから。
「ど、どうしよう……わたし、わたし、どうすれば……」
しゃくり上げるマユハの背をゆっくりとさする。
「大丈夫。大丈夫よ、マユハ。わたしがなんとかするから、心配しないで」
「違う!」
思いもかけない、強い否定。
驚いてわたしはマユハを見返した。
「あ、愛してるの。わたし、ロゼが好き……ロゼを愛してる! だから、わからないの……わからなく、なっちゃったよ……どうしよう……!!」
嗚咽の中で言葉は途切れ途切れにしか聞こえない。繰り返したずねてみたが、要領を得た答えは返ってこなかった。マユハはひどく混乱してしまったのだろう。無理もない。
そして、わたしは覚悟を決めた。




