閑話
ルイーザ・ローリング伯爵令嬢が、領地から戻ってきた。
それは、すぐにメリナの耳に届いた。王太子の婚約者を決める予定の今年。一旦王都から下がり辞退したはずの者が復帰したということで、それなりに人々の話題になったのだ。
現在は、夜会などには出ずに昼間に開催されるお茶会などに出る程度らしいが、顔色も良く、特に不健康な様子でもないという話だ。
(なんでよ。たしかにあの犬は、ルイーザだったはずじゃない)
犬になったルイーザは、明らかにメリナに動揺しているように思った。人慣れしていない愛玩犬ならばともかく、よく躾られた番犬が、こちらが威嚇したわけでもないのにあんなにも怯えるのは不自然だ。
お茶会から帰る馬車の中で、ぎりりと奥歯を噛みしめる。今日も、話題はルイーザのことだった。
ルイーザが辞退してから、メリナ側についた令嬢は多かった。いざ結婚して王妃となった時に、以前から王妃と親しい仲だったのだと主張するために、婚約者候補に上っていない者たちは各々で予測を立ててより可能性が高そうな者にすり寄るのだ。
見え透いた媚に白けた気持ちにはなるが、わかっていながら受け入れるのが貴族なのだと教えられた。それも、ルイーザの復帰によって状況が変わる可能性がある。
ひときわ美しい令嬢や、高位貴族の令嬢など、有力と言われた候補たちのうち何人かは現在候補から辞退している。元々、形式上一時的に婚約者候補に上っただけで、内々では別の嫁ぎ先が決まっていた者や、どうしても今年中に決めたい適齢期ぎりぎりの年齢ゆえに辞退した者もいるだろう。
しかし、それだけではない。少なくとも何人か、ある男の策によって辞退をしているのだ。
*****
「薬を飲ませたのではなかったのか? ルイーザ・ローリング伯爵令嬢が戻っているではないか」
貴公子の仮面を脱ぎ捨て、冷たい声色で目の前の男が言う。
両親の留守中、宝石商を装ってノイマン家に訪れたのは、この国の公爵家嫡男であるアーデルベルト・グレーデンだ。商人の身なりをしているくせに、傲慢な身振りはとても平民には見えないが、使用人にアーデルベルトの顔をきちんと見たことがある者はいないため、髪と目の色さえ変えてしまえばバレることはない。
「いいえ、確かに成功したと思ったのです。たしかに王宮の犬舎に、犬になったルイーザがいたのですから」
主張すると、アーデルベルトはさっと顔色を変える。何かまずいことでもあったのかとメリナは首を傾げた。
「犬舎に? それは、どういうことだ!」
「ですから、王宮の犬舎にルイーザ・ローリングと思われる犬が……」
「お前は最初に副作用で領地に下がったと言っていたではないか‼」
詰るような物言いに、むっと眉を寄せる。
まさか薬の効果が正常に出ているとは最近まで思っていなかったのだ。ただ、一時的とはいえ下がらせたのは事実であるのに、ここで責められる理由がわからない。
「私がルイーザの存在に気が付いたのは、ほんの数日前です。ヴィクトール様に、犬を紹介していただきましたの。それで、てっきり夜会で犬になった後に室内に紛れ込んだ番犬に間違われて飼われたのだと解釈しておりました。それまでは単純に不審な薬によって体を壊したものとばかり」
「希望的観測ばかりではないか! 大体、そうであれば判った時に報告くらいしろ‼ どうしてくれる、もしかしたら……。全く使えん奴だ」
高圧的な物言いがどこか父を彷彿とさせて、胃が重くなる感覚がした。
互いに、ルイーザを王太子の婚約者候補から下したいという事でたまたま利害が一致したが、メリナの最終目的とアーデルベルトの最終目的は、相容れないところにある。あくまでも一時的な協定だ。信頼しているわけではなく、好ましく思っているわけでもない。なぜ、こんな男に自分が蔑まれなくてはいけないのかと、水に墨を落としたようなもやもやとした気持ちになる。
「こちらからの連絡手段などないではありませんか。私は、あくまでも指示に従っただけ。確かに、社交復帰は誤算ですが、何故犬になっていたことがそこまで重要なのですか?」
「王宮の裏は、限られた者しか入れない。特に裏門付近は人通りが少ない。何度か、そこで打ち合わせをしているのだ。もしそれがルイーザ・ローリングに聞かれていたとしたら……」
裏門付近といえば、それこそ番犬の行動範囲だ。灯台下暗しとはいえ、国の中枢付近でそんな話をする迂闊さにメリナは目を瞠る。
「……ルイーザに限らずだれが聞いているか判らないではありませんか。何故そんなことを……」
「裏門周りに近づくのは大して学のない使用人だけだ! 異国の言葉でも使っていれば伝わるはずがないのだ。……本来であればな‼」
アーデルベルトが吐き捨てるように言う。
ルイーザが語学に明るいというのは、何度か耳にしたことがある。どれほどの実力のものか、何か国語話せるかなどは知らないが、友好国から来た王女と通訳を通さずに歓談していたという話は有名だ。
アーデルベルトの密談を、ルイーザが耳にしていたとしたら。そして、何らかの出来事のあとに人間に戻れたのだとしたら、既に王家の耳に入っているはずだ。
「私のもとには、王家からの事情聴取のようなものも探りのようなものも入っておりません。アーデルベルト様は?」
「……僕のところにも今のところは音沙汰なしだ。先日は手配した間者が捕らわれたが、依頼主は割れないよう対策をとっているから、そこから知られることもほぼないと考えてよいだろう」
それから暫く、沈黙がおりた。
メリナも顎に手を添え、考える。ルイーザがアーデルベルトの思惑を知っていたとしたら──それだけでなく、ルイーザはメリナが薬を盛ったことにも気がついているはずだ。
それなのに、未だに何のアクションもないのは何故だろうか。本来であれば、すぐさま拘束されても可笑しくないほどの罪を犯した自覚はある。
室内を重い空気が支配している中、アーデルベルトが連れてきた人間がおずおずと口を開く。
商人の従僕の振りをしているが、何度か打ち合わせに同席しているためメリナとも面識がある。彼も実は貴族の身分の者だ。事態の重さに慄いているのか、先ほどから若干顔色が悪い。元々口数の多い男ではなかったけれど、今日は一段と静かだった。
「犬になっていただなんて荒唐無稽な話……主張できなかったのではないでしょうか。第一、王家の知るところであれば、一時的にでも獣になっていたような娘が再び婚約者候補に名を連ねるとは思えません」
「それこそ、希望的観測ではありませんか?」
「本当に、メリナ嬢の主張──犬になっていたというのが正しいのであれば、少なくとも伯爵は知っているだろう。領地に戻したことにしたのは、失踪だと思いそれを隠すためとも考えられるが、今はもう戻っているのだからな。空白期間に何があったかくらいは聞いているはずだ。尤も、メリナ嬢の気のせいだという説が一番有力だろうがな。犬が言葉を話したわけではないのだろう? 何を思ってルイーザ・ローリングと判断したのか気になるほどだ」
「確かに、瞳の色も毛の色もルイーザと同じでした。それに、私を見て明らかに様子がおかしく……」
「すべて勘だろう? 大体、あの犬種で焦げ茶色の犬なんて珍しくもない。王宮にだって何匹か焦げ茶がいたはずだ。あの薬は、筋肉や骨に影響する成分が含まれていたから、この国では特定できない異国の珍しい毒薬で体調でも崩せばと思って選んだにすぎない。動物に変化するという効果自体は、事例も見つからなかったし眉唾物だ」
本当に、自分の気のせいなのだろうか? あまりにも強く主張されてまるで気のせいだったかのようにも思えてくる。
しかし、たしかに犬の様子はおかしかったのだ。勘と言われてしまえばそれまでだけれど、ざわざわと不安が胸に広がる。
「思うのですが……どちらにしても、ルイーザ・ローリングが婚約者候補のままでは振り出しです。私の親戚伝手で彼女をお茶会に呼び出し、再び候補から降りるよう画策してしまえばよいのではないでしょうか? 万一伯爵によって隠されたとしても、間をあけず二度も病によって領地に戻ったとなれば王家に嫁ぐのは不適格とされるかと思います」
従僕のような男の言葉に、アーデルベルトも頷くが、メリナはどこか納得がいかない。再びルイーザを陥れるとしても、その役は誰が担うというのだ。
「また、私に手を汚せと仰るのですか?」
「何を言うメリナ嬢。元々は、お前がその担当だっただろう。ルイーザ・ローリングに思うところがあると言っていたではないか。自分の手で引きずり下ろすチャンスを用意してやっていることに、逆に感謝してほしいくらいだ」
確かに、ルイーザに対しては並々ならぬ感情があるのは事実だ。
アーデルベルトの主張は非常に理不尽なものに感じるのも確かだが、ここで逆らうことにメリットはない。彼の身分であれば、全ての罪をメリナにかぶせることも可能なのだ。
どうするべきか暫く思索していると、アーデルベルトの従者が口を開く。
「一つ、私から提案があります。縁戚の子爵家で、近日お茶会の予定があるのです。そこにメリナ嬢も参加すれば……。その場で何かあったとしても、疑われるとしたら子爵家でしょう。メリナ嬢に疑いの目がいくこともない。何より、一番煩わしい者が何も言えなくなるのは、お互いにとって利になります」
そう、上手くいくのだろうか。アーデルベルトに至っては、ルイーザが犬になったこともあまり信じていないようだけれど、メリナは自分の勘を信じている。
(もし、本当にルイーザが犬になっていたとしたら。私が関わっているのは確信しているはずだわ。彼女が、だれに打ち明けたのかはわからない。……伯爵どころか、既に王家に話がいっているのかも)
どちらにしても、自分の行き着く未来が暗いものであるならば。せめて彼女の未来も暗いものに。
メリナは、にんまりと笑みを作って、その提案を承諾した。




