PM 6:00
伝達によって発生する齟齬ではなく、ある程度の意思をもってどうして人は嘘をつくのだろう。事によっては、ばれてしまった時のリスクは相当でかいのに、人はいとも簡単にやってしまう。
それは、何かしらの理由があるからだろう。それは何なのか。考えてみたが私にもわからない。理由が判明した暁には、人と関わる上での膨大な審議も幾分かマシになるのかもしれない。
・・・そう、あってほしい
私の推測では、『安心』を得るためだと思っている。嘘を吐く側もされた側も一時の安心を求めているのだ。所詮、目の前の餌に飛びつくような本能的な部分が無意識下に働いているのだと私は思う。どうしようもないのだろう。
はじめはうまく噛み合っていても一度ずれ始めると元に戻ろうとすることはないし、徐々にそのずれは大きなものとなっていく。僅かにでもその歯車の狂いに気付いてしまえば、力ずくで目を瞑らなくてはならない。しかしながら、見たくない、知りたくないものほど人間ってのは追求したくなる。そうして、暴かれた情報の懸隔に一方は「ウソつき」だと突き放す。とてもとても身勝手な生き物だ。
・・・・・
さて、それではその『安心』とやらは何なのか。私はそこに少年の青年に対する眼差しの意図が見え隠れしていると踏んでいる。
まずは、多くの人、少なくとも私には当てはまるであろう『安心』の裏側にあるものを考えていこう。ある意味、「偽りが存在する意義」といえるだろう。
こんなものは即答だ。すなわち、『信用』に他ならない。以前にも言ったように、『信用』は責任に対する甘えで手抜きだ。すると、三段論法を用いれば、『安心』の裏側には責任に対する甘えと手抜きが隠れている、というわけだ。
──ああ、なるほど納得だ。
だが、彼の目には「羨望」が浮かんでいるのだ。それは『安心』ましてや責任に対する甘えとは全くといっていい程、ほどほどに程遠い意味のものだ。
それならば、今までに考えてきたことは無駄だったのかというとそうではない。重要なことは「羨望」の意味することではなく、その先が何か、ということだ。
そう・・・そういう意味では、現時点での少年の立ち位置からその先に至るまでの過程における保険として彼の心の『平穏』──『安心』が存在する。
それこそ彼の場合の「偽りの存在する意義」なのだろう。彼の目に映る「憧憬」は、あまりにも少年にとって輝かしい。だからこそ、追いかける道に落ちているであろう『平穏』は、真っ黒く底なしのようで耽溺になりうる存在なのだ。