PM 5:15
何故、少年を気にしてしまうのかを考える前に、一つ準備をしておきたい。数学でいうなら、補題だ。補題無くしてこの定理は証明出来ない。そうそう、その前にルールを決めておかなければ。誰もが一つのゴールへと向かえるような、いわば発散を防ぐ為の収束に帰するような身勝手な定義を定めなければならない。
話は、そこからだ。
PM 5:20
私は、常に嘘をつく。
この言葉を信用するなら私が発した今現在も嘘をついたことになる。ただ、それだと真実で嘘ではない、という嘘をつくことになる。仮に嘘をつかないとしたら、それは今嘘をついたことに反するというわけだ。と、まあよく聞かれるパラドクスを紹介した。だが、私がここで着目しようものは、この命題ではなく、「嘘を“つく”」ということだ。漢字にすると「嘘を吐く」。吐くと書くらしい。
ここで一つあることを提示しよう。それは「人間、息を吸うことと吐くこと、どちらが自発的でどちらが意識的なのか」ということだ。「自発的」というよりも「無意識的」とした方が対義的で正しいのかもしれない。まあ、それは後で考えるとして、いまは受け入れてもらいたい。
朝のラジオ体操でも良いし、体育の授業の準備体操でも良い。深呼吸する場面を想定してもらいたい。
君は、君らはどちらを意識的に行っていたか?おそらく『吸って』吐いてなのではないか。なんだか、ニワトリが先か卵が先かのような話だが、もうひとつ例を挙げようと思う。
赤子が産まれて初めて呼吸するときを考えてみよう。
オギャーオギャー、と産声をあげる。それは、単に泣いているのではなく閉じていた肺を膨らませようと、羊水をもって練習してきたことを実行に移している。
なるほど、一所懸命に空気を取り込もうとしているわけだ。すなわち、一所懸命にしなければ出来ないのは、息を吸うことだ。逆に、酸素を取り込めば、自発的に二酸化炭素を吐き出そうとしているわけだ。
ここでやっと本題に戻ることができる。いや、本題前の前おきに戻るのだが・・・。
つまり、「嘘を吐く」とは、どうも自発的らしい。
周りにこんな人はいないだろうか?
「私は嘘をついたことがない。嘘なんて絶対につかない」
「私はいつも正直に生きている」
嘘だー。
それこそ真っ赤な嘘。「真っ赤」という言葉にも注目したいところだが、今回はやめておこう。話が見えなくなる。先ほども述べたように、これは前置きだ。導入なのだ。さほど時間をかけるつもりもない。
さて、別にこのような事を言う人を「お前は──」等と非難するつもりもないことを先に言っておこう。この人たちも悪気があって言っているわけではないことは百も千も承知である。ただこの人たちは、嘘と本当の線引きが曖昧なのだ。本人たちは、本当の事を言っている、つもりなのだ。だからこそ「吐いたことない」などと言うのだ。
許してやってくれ。
分かった、許してやる。
人を経て伝達された内容は、その人の考えや価値観が少なからず入る。また、他者が見ているものと自分が見ているものが同じかどうかと思考したとき、1パーセントぐらいは違うだろ。
それをキッチリと区別させたとき、嘘と本当の線引きはハッキリする。大半の場合が『相似』で『合同』なものなどゼロに等しい。
そう、人の口から耳に伝わるとき彼らなりの表現が肉付けされ、自分なりの解釈が肉付けされる。又聞きなど審議にかける代物でいっぱいだ。
だから、私は言う。宣言といってもいい。
「全てが熟考の対象だ」
しかしながら、とても誠実で聖人的でお人好しな、人を疑わぬ正義感で溢れた狂った人ならこう言うだろう。
「それは違う。そんなの屁理屈だ」
、と。ああ、そうだ。ここまで厳密にしたら大変だ。息苦しくて窒息してしまう。
そこで、私は少しでも気を楽にするために三つの型に分けた。それらは、『原型』、『拡張型』、『偽造型』と名付けた。『原型』は言わずもがな「真実」を表す。『偽造型』は、あるはずもない事をまるで存在するかのようにいうことだ。逆もまた、然り。『拡張型』は真実が語られていく上で尾っぽがついていくことだ。無論、この二つのハッピーセットだって存在する。例をあげるなら、都市伝説じゃないか?在るはずのない事が時代の背景に合わせて形を変えていく。もっとも大元に関してはなんとも言えないが・・・。