第9話 汝の願い事を言うがよい
翌日、ユリカは熱もすっかり下がり、すこぶる調子がよさそうだった。様子見で学校は休んだが、魔力を使うトレーニングは続けた。
「ふつう、トレーニングを自重して、学校へ行くもんじゃねえの?」
槙矢は呆れつつ、麻桐邸の庭で杖を振り回すユリカを見た。
塀に囲まれた庭で、まるで剣の練習のように杖――魔法使いが持つ水晶球が先端についたやつ――を素振りしていた。……記憶違いでなければ、魔法の杖はそういうふうに使うものではない気がするのだが。
「練習は欠かせないの。一日寝込んでたんだから、時間が惜しいわ!」
光る汗。ユリカの身体はしなやかに躍動する。杖が空を切った。
「大会も近いし……もう足手まといなんてごめんだもの」
「大会?」
「将来、対魔戦闘士になるためにも、いい成績残さないといけないの!」
彼女は、対魔戦闘士というものになりたいらしい。ユリカは杖を振り回し続ける。魔法使いというより剣道のそれのように見えた。
「でも魔法に関してお子様レベル……」
「学生レベル!」
苛立ちも露わにユリカは手を止めた。休憩するようだった。槙矢はタオルを投げる。
「ま、頑張るのはいいけどさ。そろそろ、あと二つのお願い、聞いてもいいか?」
異世界にきて数日。まったりしているが早く家に帰りたいのが本音である。何せここにはテレビはおろか、漫画もない。小説はあるが、槙矢好みのライトノベルはなかった。これには大いにがっかりさせられた。
ユリカはむっとした表情になる。タオルで汗を拭いつつ、ポツリ。
「考えてないわ」
「なに?」
聞き違いかだろうか。槙矢が首をかしげると、ユリカは腰に手を当てた。
「だから考えてないって言ったの!」
「何で?」
自然とそんな言葉が出た。三つの願い、それが何でも叶うとなれば、おのずと願い事を考えるのが自然ではないのか。その気になればいくつでも願い事なんてあるはずなのに、考えていないなんて信じられなかった。
呆れて物も言えない槙矢に、ユリカはしみじみとした口調になった。
「勉強はできるし、魔法が人並み以上に使えるようになれば、あとは別にどうだっていいのよ。だからいまのところ願い事はなし」
「じゃ、俺は帰れないじゃないか」
「……そうなるわね」
召喚者が願い事を告げてくれなければ、まだ本調子ではない――自分の本気の魔力がどれくらいか知らないが――槙矢は自分の世界に帰れないということになる。
「そうじゃないだろ!」
槙矢は頭を抱える。そんな人間いるものか。何でも願いが叶うんだぞ――
「何かないのか。何か欲しいものとか。例えば、大金とか」
「別にないわ。金持ちじゃないけど、贅沢したいと思わないし」
「一生遊んで暮らせるとか、世界を征服する力が欲しいとか憧れない?」
「別に」
ユリカはそっけなかった。
「できるの? あなたに」
「いちおう悪魔だから、理論上不可能ではない」
無茶な願いには、それ相応の犠牲も必要であるが、少なくともユリカをその気にさせるのが目的だからそのあたりのことは黙っておく。
しかし、当のユリカはどうでもよさげだった。
「ならあなたがすれば? 世界征服」
「世界なんかいらねえよ」
「あなたがいらないものなんか、わたしだっていらないわよ」
「ぐ……」
言い込められてしまった。槙矢は考え込む。
「何かないのか、美形の男が欲しいとか」
「いまは男になんか興味ないわ」
「百合趣味なのか?」
「馬鹿、違うわよ」
ユリカはタオルを投げ返してきた。片づけろ、というのだろうか。
「じゃあ、お姉さんの料理の腕をどうにかして欲しいとか」
「う……それは……」
ついー、とユリカの視線が泳いだ。
(お、これはもしかして……)
槙矢が期待を膨らませれば、ユリカはブンブンと首を横に振った。
「いえ、もう慣れたわ。そりゃ姉さんの料理が美味しいのなら文句はないけど……うまくかわせる自信はあるわ!」
「本当にぃ?」
「本当よ!」
「んー……」
うなる槙矢を尻目に彼女は、再び杖で素振りを始める。
「とにかく俺は家に帰りたい! ゲームしてアニメみて、漫画みないと禁断症状が……」
「禁断症状……? ど、どうなるの?」
ユリカが手を止め、槙矢を注視する。どうなるって? 見ての通りヒステリーになる。恨みがましい視線を向けていると、ユリカは少し考えて言った。
「そのげーむ、とかあにめとかってのを、あんたの力で出せばいいじゃない?」
「そうか、その手があったか……って簡単に出せりゃ苦労しねえよ!」
「悪魔に不可能はないんじゃなかったの?」
先に放った言葉を逆手にとられる。槙矢はがっかりした。悪魔なんて煽てられても、実際のところ少女にやりこめられてしまう。ダメダメだ。偉大な悪魔の名が泣く。
「わかったわよ……何か考えておくわ」
しょんぼりした槙矢を見かねたのか、ユリカは肩をすくめた。何だかわがままを言う子どもをあしらうような態度だったが、いまの槙矢には気にならなかった。
「簡単なのでいいから、さっさと二つ言って俺を元の世界に帰してくれ」
「ほんとにあなた、伝説のシーンヤー? すっごい小物に見えるわ」
「……」
東方悪魔の筆頭。南方地獄軍団の大物悪魔の尊敬を得て、西方悪魔軍筆頭と夢魔の女王を愛人に持つ悪魔――それに返す言葉はなかった。
・ ・ ・
「なあ、アグレス……シーンヤーって伝説の悪魔なんだよな。それが何でただの女の子に顎で使われなきゃいけないわけ?」
「そりゃ、我輩が聞きたいですな」
ゴールデンレトリバーは槙矢の隣に座り、ユリカの魔法練習の光景を眺めている。
麻桐邸の庭。朝から練習に励むユリカは、昼食を挟んで午後になっても練習を続けていた。いったいどこが自重しているのか。魔法を使わなければいいとでも思っているのだろうか。槙矢は退屈すぎてしょうがなかった。
「どうしちまったんですかい閣下。偉大な東方悪魔筆頭ともあろう方が」
「俺にもわからない」
槙矢もぼんやりと、ユリカを眺める。アグレスが口を開いた。
「悪魔が本気を出せば、人間一人倒すことなど容易いことです。ですが召喚者は自らの身体に悪魔の呪い阻止の呪文を刻んでいるから手が出せない。いまいましいことです」
「まあ、倒すとかそんなことはどうでもいいんだけど……」
「さすが閣下。人間ごとき歯牙にもかけませんか」
「君はいつも好意的に解釈してくれるんだな、アグレス」
「恐悦至極」
別に褒めてないよ――槙矢は心の中で呟いた。
「願い事か……ユリカって意外と欲がないのかな」
「……そうなると本来の力の使えない今の閣下は、帰れないわけですな。手っ取り早く悪魔の契約持ち出して魂を手に入れた方が早いやもしませんぞ」
「……魂か」
槙矢は考え込む。元の世界に帰る方法の一つとして聞いた。人間の魂は世界を跳躍する。ユリカが願い事を言わないなら、それしか方法がない。しかし、その案に全面的に賛成はしていなかった。そもそも人間の魂を手に入れるなんて、悪魔になりきれない槙矢には難しい話だった。
「……具体的に、どう手に入れればいいんだ?」
「相手の願望を叶えてやればいいのですよ、閣下」
アグレスは薄く笑った。
「あるいは弱味を刺激してやるのもいいでしょう。願いを叶える代わりに魂を要求する。悪魔であることに一番快感を覚える瞬間ですな」
(とことん腐ってるな、悪魔って)
槙矢は嫌悪したが、顔には出さなかった。その腐った行為をしなくてはならないのが他でもない自分になるかもしれないからだ。
「契約を持ちかける相手は、切羽詰っている者や、愚かな子どもがいいでしょうな。ただ年端もいかないガキだと、願いが途方もなさすぎて、悪魔のほうがついていけなくなりますから避けた方がよいでしょう。そこそこ考えられる頭を持った十代半ば過ぎあたりが狙い目です。常識と理想の狭間に揺れるもろい年頃。……簡単にだまされますしね」
(あ、まんま今の俺じゃん、それ)
何も言えない槙矢である。詐欺師から詐欺の方法を教えてもらう気分だ。そうしないと自分の願いを果たせないのだから、余計にたちが悪い。
考えてみれば、いま魂くれたら元の世界に帰してやる、と悪魔に言われたら、自分はどうしただろうか、と槙矢は思った。
悪魔に魂を売ってでも願いを果たす――
でも永遠に悪魔の奴隷はいやだな、と思う。自分が嫌なことを、他人にするのはよくない、と親にも言われた。
「気が進みませんか、閣下」
アグレスが小首をかしげる。
「シーンヤー閣下は悪魔であると同時に天使でもあるらしいですからな。ひょっとしたら天使成分が出てきているのかもしれません」
「そういえばリリナさんもそんなこと言っていたっけ」
聖教会指定の天使であり、麻桐家の守り神。いまいち意味がわからないが、そう言うのならそうなのだろう。
「天使になってしまう閣下は嫌ですな」
アグレスが鼻を鳴らした。悪魔から天使に転職か――気分的にはそっちのほうが楽になれる気がした。天使になったらユリカも態度を改めてくれるだろうか。
(あ、でも元々天使が堕ちたから、悪魔になったんじゃなかったっけ? うろ覚えだけど)
「――こう考えてはどうです、閣下。人間として外道なやつの魂を手に入れる――どうしようもない世界の害悪を消すと思えば、良心も咎めませんでしょう。……悪魔に良心があるかは甚だ疑問ですが」
「ようは考えよう、ということか。……それにしても悪魔とは思えない提案だね」
「我輩、シーンヤー閣下が人間から魂を手に入れるところが見たいのですよ」
ゴールデンレトリバーは、臆面もなく言い放った。
槙矢はうなずく。人から魂を手に入れる――どうせ手に入れなければいけないのなら、悪党から奪った方がまだ抵抗は少ない。本音を言えば、そんな極悪非道な輩とは、関わりたくないものだが。
決断を迫られている。
このまま時に任せ、ユリカが願い事を待つのか。あるいは、元の世界に帰れるように自ら行動するか。
(いつになるかわからないのを待つよりは……)
槙矢は、行動することを決めた。
行動することを選んだ槙矢はその準備にかかる。
次回、『学校へ行こう』
明日20時頃、更新予定。