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23 人生とは予期せぬものである

 徳川幕府将軍、徳川秀尊が側室を迎えて1年半が経った頃のことだった。

 側室である乃江流姫付きの侍女達は、這うことを覚えたばかりの幼子の相手でてんやわんやだった。小さな子の存在は、女達を活気付かせている。



「お久しぶりね、乃江流」

 

 乃江流は美貌の客人に笑顔で応えた。


「さゆりさん。お元気でしたか?長旅でお疲れでしょう?どうぞこっちへ」

 

 座敷に促すと、さゆりは座布団の上に腰を降ろした。

 さゆりと会うのは一年半ぶりだが、以前別れた時と変わらず綺麗だった。


「ええ、乃江流も元気そうね。前よりずっと綺麗になったわ」

「そうですか?お世辞はいいですよ」


 乃江流は笑ったが、さゆりは本当にそう思った。

 たった一年半で乃江流の人生は大きく変わった。ただの田舎の巫女からすっかり洗練された女へと変わったのだ。


「旦那様は元気?」

「はい、毎日忙しくしてますよ。のんびりしてる私が申し訳なくなるくらい。ただ息子の顔を見るのが楽しみみたいで、毎晩欠かさずここに来ますけど」


 乃江流は微笑んだ。さゆりはその表情を見て天を仰ぐと、手を扇子代わりにしてぱたぱたと扇いだ。


「お熱いわね。愛されてるみたいで良かったわ」

 

 照れる乃江流を見てさゆりは笑った。


「そういえば正妻様は?御元気なの?最近噂を聞かないけど」

「ああ、言ってなかったですね。頼子様はもうここにはいないの」


 乃江流が妊娠したのと同時期に、頼子は城を出て実家へ戻っていった。身体の調子が優れず療養するためというのが表向きの理由だったが、実際は違う。頼子は実家の離れでひっそり余生を過ごすことを希望し、将軍はそれを受け入れた。想い人と共に今後の人生を過ごすのだという。


「ええ?勝手な女ねぇ。老中の娘だからって我侭すぎるんじゃない?」

「ん……でもこれで良かったと思う。頼子様は一途な人だから。幸せになって欲しいと思うし」

 

 城下の民からは子がないことで石女扱いされ、心無い噂も立てられていたようだ。今後は精神的に自由になることができるだろう。

 最も驚いたのは、頼子の想い人というのが、乃江流が逃亡しようとした時に連れ戻した武士の一人だったということだ。たまたま城内で擦れ違ったときに秀尊が教えてくれたときは心底驚いた。


「へえ、どんな人なの?」

「すっごく身体が大きくて、筋肉がすごくて、私を軽々と持ち上げられるような武士。無表情でにこりともしないし。話すと少し優しい人っぽい感じはするけど、一見怖いの。もっと容姿の整った人かと思ってたから、なんか熊みたいな男の人で驚いちゃった」

「へえ。正妻様って変わった趣味なのね。将軍って結構容姿端麗な方なのに、熊を選ぶなんて」

「将軍様に興味ないはずだよね。とにかく強い人が好きなんだって」


 頼子に直接聞いてみたところ、身体を張って守ってくれる筋骨粒々で強い男にしか興味がないらしい。確かに将軍は頭はいいが、細身で腕っ節はたいしたことはない。

 他の巫女達の事や近況を語り合っていると、侍女がぐずる赤子を連れて乃江流の元へやってきた。まだ小さな子だが、顔立ちはどことなく父親に似ている。


「ちっちゃくて可愛いわね。私も子ども欲しくなってきちゃった」

「さゆりさんは、子どもは?」

「仕事が忙しいし、なかなかね。いつかは欲しいと思ってるんだけど」


 さゆりは困ったように笑って、思い出したように言った。


「此処に来る途中、華道川神社に寄ったの。御両親元気そうだったわよ」

「っ本当?良かった。半年前に会ったきりなの。文のやり取りはしてるんだけど、やっぱり顔が見れないと少し心配で」

「神社も盛況みたいだったし、心配要らないと思うわ」

  

 乃江流は苦笑した。家族は乃江流が側室になったことにも驚きながら大喜びしていたが、将軍からのかなりの援助や、幸せを呼ぶ巫女が側室になったという噂でますます神社が有名になったことにむせび泣いているらしい。


「それならいいんだけどね。やっぱり家族と離れて暮らすのは少し寂しい。こんな身体だとなかなか実家にも帰れないし」


 乃江流は息子をあやしながら、片手で自分の腹を撫でた。さゆりは乃江流のまだほとんど膨らんでいないそこを見て微笑む。


「子宝に恵まれて民は大喜びだわね。私の言ったとおりになったでしょう」

 

 何の話かと首を傾げると、さゆりは意地悪く笑った。


「あの人これまで痩せ我慢しまくってたからその分凄いんだわ」

「さ、さゆりさんっ!」

 

 乃江流はあわあわと真っ赤になった。やっぱり乃江流は変わってない、とさゆりは笑う。


「今度は女の子かしらね?」

「んん……どうかなぁ……」

「もう将軍似の男の子は生まれたんだし、次は乃江流に似た女の子がいいと思うわよ。うん、きっと女の子だわ」

 

 さゆりは目を細めて何かを見通すような目をしていた。乃江流はその目に少しの畏怖を覚えて慌てる。


「さゆりさん、その目ちょっと怖いよ!」

「あらごめんなさい。癖でつい」

「癖って何!?」

 

 乃江流は困惑しながらもそれ以上突っ込むことはしなかった。こういう件は突っ込むと負けだ。


「私はどっちでもいいよ。無事に生まれてくれればそれで」

 

 乃江流は新しく生まれてくる命のことを考えて微笑んだ。きっと1年後にはまた城が賑やかになることだろう。すっかり母親の顔をしている乃江流を見て、さゆりはぽつりと言った。


「乃江流が幸せそうで良かったわ。その顔を見られただけで。前に酢昆布持って逃げ出したなんて聞いた時はまあ驚いたものだけど」

「その件はもう触れないで……」

 

 皆で酢昆布を必死に消化したことを思い出し、乃江流はげんなりした。さゆりはくすりと笑う。


「やっぱり幸せを呼ぶ巫女ね」

「その呼び名久しぶり。最近はすっかり聞かなくなったから」

 

 乃江流も笑った。今ではすっかり妻と母になってしまって、巫女装束を着ることもなくなってしまったのだ。


「乃江流はとっても普通で、かなり特別な巫女だわ。それは間違いないのよ」


 さゆりはくすりと笑った。乃江流は首を傾げる。


「それって普通なの?それとも特別なの?私は自分が特別な巫女だとは今も昔も思ってないんだけど」

「特別だと言われる人ほど、自分が特別なことをしている自覚はないものなのよ」

 

 さゆりは綺麗に微笑んでそう言ったが、乃江流にはやはりわからなかった。

 過程は特殊だったし、伴侶も特別な人ではあるが、結局妻になって母になっただけだ。愛して、愛されて、たまに喧嘩をしたりしながら、一つの家庭を築いた。多くの人が家庭を持つように、自分もそれができたことに乃江流は満足していた。


 夜桜を見ながら、一生結婚には縁遠いのだろうと不安を感じたあの日から、乃江流の人生は思いもしない方向へ変わった。巫女選抜試験というよくわからない幕府のお遊びによって。

 運命なのか偶然なのかは全くわからない。乃江流にとってはどっちでも良かった。順番も常識も関係なく、今、心が幸せなのだから。

 




 翌年には長女が誕生し、城下の民も臣下も喜びに沸いた。それから数年のうちに、幾人もの子宝に恵まれた将軍と側室は、その仲の良さでおしどり夫婦として有名になった。もはや誰も正妻のことは思い出さなかった。

 民はいつからか側室となった巫女のことを御伽噺のように語るようになった。

 人々は言う。幸せを呼ぶ巫女を娶った賢明な将軍のおかげで江戸もその恩恵を受けた、と。


「乃江流様、聞きました?あの桜の木、お花が咲いたそうですよ」

 

 月子が散らかった玩具を片付けながら言った。五番目の子をあやしていた乃江流は顔を上げる。


「え?桜の木って、去年雷が落ちて焼けたっていうあの?」

「ええ。もう駄目になってしまったって噂でしたけど、今年も咲いたらしいですわ。民の間では乃江流様が奇跡を起こしたと」

 

 乃江流はそれを聞いて笑った。


「私は何もしてないのに?木の生命力が強かっただけでしょう」

「あら、乃江流様のおかげだともっぱらの噂ですよ」

 

 月子が言うと、別の侍女も興奮気味に言った。


「ええ、きっと乃江流様のお力ですわ。なんといっても幸せを呼ぶ巫女様ですもの!私の母も最近身体の調子が良くて。私が乃江流様にお仕えしているから、おこぼれにあずかっているのかもしれません」

 

 いくらなんでも飛躍しすぎだと乃江流が苦笑すると、後方の扉が開く音が聞こえた。


「最近じゃ、城下の民達の間では奇跡的なことが起きるとお前のおかげだと言うのが流行りだそうだな」

 

 低く笑う声が響いて、乃江流は驚いて振り返った。


「お仕事はどうしたんですか?」

「少し休憩だ。顔を見に来た」

 

 秀尊は縁側で昼寝をしている三人の子どもたちの顔を眺めたあと、乃江流の隣に座った。三か月前に生まれた赤子はぱちぱちと瞬きをしながら、父に小さな手を伸ばす。秀尊はその手を握り、優しく笑んだ。


「江戸から華道川神社まで参拝する者も増えているとか。その巫女が天然で鈍い女だとは民は知るまいな」

 

 秀尊のからかうような言葉にも、乃江流は一笑を返した。


「実家は参拝客が増えてとっても喜んでいるみたいです。幸せになれるかどうかは置いておいても、お参りするのは良いことですしね」

「幸せになれるさ。お前は俺にも幸せを運んでくれただろう?間違いなく、幸せを呼ぶ巫女だよ。俺にとってはな」

 

 秀尊は長い指で乃江流の髪を梳いた。

 眠っている子ども達と、うとうとしはじめた末子を眺め、夫婦は微笑んだ。穏やかな風が吹き込んだのと同時に、溌剌とした声が響く。


「母上?かどかわ神社って?」

 

 一人書道に勤しんでいたはずの長男、政徳が近寄ってきた。


「皆お昼寝だから静かにね」

「あ、ごめんなさい!」


 乃江流が優しくたしなめると、政徳は慌てて口元を抑えた。その手には半紙がある。見事な字が書かれたそれを見て、乃江流は息子を褒め讃えた。長男は字も賢さも、完全に父親似だった。秀尊もその習字を褒めてやりながら答える。


「政徳、前に教えただろう?母上の御実家だよ。幸せを呼ぶと有名な神社だ」

「北の方にある伊達藩の領地ですね?父上、僕も一度行ってみたいです!」

 

 政徳は目を輝かせて身を乗り出した。幼かった子ももう七歳になっている。秀尊は時が過ぎるのは早いものだと思いながら、息子の頭を撫でた。


「そうだな。お前も大きくなったし、そのうち行かせてやろう」

「約束ですよ!」

 

 その言葉に政徳はくしゃりと破顔して、桜の花びらに誘われるように外に駆け出した。息子の姿を眺めていた秀尊は、妻へと視線を移す。


「お前も久しぶりに里帰りしたいだろう?」

「そうですね」

 

 乃江流は頷いて、眠る幼子を見た。


「でももう少しこの子が大きくなってからでないと」

 

 乃江流の体力は回復していたが、生まれたばかりの子に長旅は酷だ。置いていこうにもまだ赤子は母の乳を必要としている。まだ何日も掛かる旅は無理だろう。


「そうだ、秋がいいんじゃないですか?気候もいいし」


 乃江流は末子の顔を覗き込んでから秀尊を見た。


「そうだな」


 夫婦は顔を見合わせて微笑んだ。


「そうしよう」


 桜が舞い散る、穏やかな春の日のこと。

 誰もが羨む幸せな一つの家族の姿がそこにあった。






 おわり

最後までお読みいただきありがとうございました。

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