エピローグ
振り返れば、私(光格上皇)の半生は「血」という見えない鎖に縛られた歩みであった。
傍系から突如として玉座に据えられたあの日から、私は「正統たらん」と血の滲むような努力を重ねてきた。
欣子を中宮に迎えたのも、この国が頑なに守ろうとする「血の連続性」を担保するためであった。
しかし、天の采配はなんと皮肉で、凄絶なものであったか。
私は二十人もの子を授かった。
だが、そのほとんどが成人することなく、次々と私の前を通り過ぎてあの世へと旅立っていった。
欣子が命を削って産んでくれた、中御門流の正統たる二人の皇子も、いまはもうこの世にいない。
血を遺す。直系の血統を継ぐ。
その形にこだわり、後宮では呪詛が飛び交い、公家たちは面子のために騒ぎ立てる。
だが、どれほど人間が知恵を絞り、制度の壁を築いて「血の伝統」を死守しようとしたところで、天がその糸をぷつりと切ってしまえば、それですべては終わりなのだ。
目に見える血筋の維持に狂奔することの、いかに虚しく、愚かしいことか。
◇
我が子(仁孝天皇)が即位したことで、最高峰の尊称である「東京極院」を得た側室・勧修寺婧子。
しかし、私(光格上皇)の心が彼女に戻ることは二度となかった。仙洞御所の私の傍らには、かつて婧子が追い落としたはずの葉室頼子が静かに寄り添っていた。
頼子自身は疾うにお褥を辞していたが、側室たちの産んだ子どもたちを育む責任者として、皇太后・欣子の信頼も揺るぎない。
婧子は、誰よりも高い地位に上り詰めながらも、心通わせる者のない孤独の中でその生涯を閉じた。ただ、その胸の奥に、我が子・恵仁の行く末だけを案じ続けた母の心があったこともまた、真実であった。
婧子の死後、勧修寺家の屋敷では、弟の経則が姉の遺品である膨大な和歌の束を前に不敵に微笑んでいた。
「姉上が遺された歌の数々……。
これを集め、『東京極院御詠草』として世に出すのだ」
家臣は戸惑い、声を潜める。
「しかし、これらは院さまが歌道の教授として出された題に、お答えしただけのもの。院さまの返歌も、ただの模範解答に過ぎませぬが……」
「構わぬ。これを『相聞歌(恋歌)』として配置し、それらしい脇書を添えれば、世間は『これほどまでに光格院に愛された側室がいた。その生母を持つ我が勧修寺家こそ、朝廷の最高権門である』と信じ込む。
真実など、知る者が死に絶えればどうとでも書き換えられる」
こうして編まれた歌集は、後世、見事に勧修寺家の目論見通りの虚像を完成させた。
私と婧子の不仲を知る者が誰もいなくなった遠い未来――教科書や歴史書には、
「光格天皇に深く愛され、次代の天皇を産んだ、栄華を極めた側室・勧修寺婧子」の姿だけが、美しく定着していくことになる。
しかし、歴史の表舞台に記録されたそのきらびやかな歌集は、人間の欲が作り出したただの冷たい石碑に過ぎない。
◇
虚しく漂う歴史の偽りを余所に、皇太后となった欣子は、誰もいない御所の奥で、静かに独白する。
「……主上(上皇様)。私は愚かでございました。この腹から生まれた我が子の死を、血が途絶えた不条理を、天の罰だと思っておりました。
ですが、ようやく分かりました。
天は、私たちから『血』を奪うことで、もっと大きなものを託されたのだと」
欣子はそっと胸に手を当てて若き帝の姿を思い描く。
「私たちが本当に次代へ遺さねばならぬのは、先の帝(後桜町上皇)から受け継いだ、この国を想い、民の幸せを願う『祈り』の心そのもの。
恵仁(仁孝天皇)の目をご覧あそばせ。あの真っ直ぐな光の中にこそ、私たちの魂が息づいております。
中御門の血は途絶えても、私たちの『祈り』は、あの子の手で永遠に未来へ紡がれていくのです――」
◇
人間の紡ぐ虚実の遥か彼方、時を宿した雲の海から、すべてを静かに見つめる魂があった。
亡き後桜町上皇――かつて智子と呼ばれた内親王の魂は、今、光格上皇と欣子がたどり着いた答えを、慈しむように見守っている。
かつて、若き日の智子の胸に焼きついて離れなかった、ひとりの御方がいた。
御所の庭で時折見かけ、遠目にもいつも手に書を携えていた、あの凛々しい公達――典仁親王。
血の運命は巡り、その親王の息子(光格上皇)が傍系から玉座を継ぎ、そして智子が我が子のように愛した欣子と結ばれた。
人間の数奇な営みと、その果ての悲劇をすべて包み込むように、智子の魂は優しく微笑む。
「あの方は、どなたなのかしら」
あの無垢な日の問いかけは、今、確信へと変わっている。あの愛しき人の血を引く若き帝の身体には、自らが命を懸けて守り、欣子へと託した「この国と民を想う祈り」が、何よりも色鮮やかに流れている。
人間たちがどれほど紙の上の記録(御詠草)を書き換えようとも、魂の約束だけは決して汚されることはないのだと、彼女は知っていた。
◇
仙洞御所の一室、光格上皇は静かに歩み寄り、隣に座った欣子の手を、優しく、しかし力強く握りしめた。欣子は涙の乾いた顔を上げ、その温かい掌に、そっと我が手を重ねる。
血を完璧な形で繋ぐことは叶わなかった。歴史の公式記録は、偽りの歌集を真実として語り続けるかもしれない。
しかし、二人がもがき、苦しみ、それでも生きて紡いできたこの国の「祈り」は、今、目の前に立つ次代の帝の背中に、どこまでも美しく、そして確かに受け継がれていく。
若き帝の背は、いつの間にか、誰よりも大きく頼もしく見えていた。
偽りの歌集が語るきらびやかな虚像の裏で、公式の記録には決して残らない魂の約束と、次代へ託された「祈り」の心。
目に見えぬそれを継いだ者たちの命は、今日も、この国を生きる人々の心の奥底に、静かに、そして永遠に受け継がれている――。




