第一話 「絶望の警鐘」
少し騒がしいオフィスの中――。
白髪の男は、無表情のまま淡々とキーボードを叩いていた。
カタ、カタ、カタ……。
一定のリズムで鳴る打鍵音だけが、まるで彼だけ別の空間にいるかのような空気を作り出している。周囲では社員たちが雑談を交わし、電話の音が鳴り、コピー機が唸っているというのに、男は一切気にした様子を見せない。
灰色がかった瞳は、ただパソコンの画面だけを静かに見つめていた。
だが――。
「すごっ、アステラさんまた一発で通したの!?」 「マジで仕事できすぎだろ……」 「しかも可愛いとか反則だろ……!」
徐々に周囲のざわめきが大きくなっていく。
男は指を止め、小さく眉を寄せた。
そしてゆっくりと視線だけを横へ向ける。
案の定、そこには人だかりができていた。社員たちが一箇所に集まり、まるでアイドルでも囲むかのように盛り上がっている。
「……またか」
呆れたように小さく息を吐く。
興味なさげに視線を戻すと、再びキーボードへ指を置いた。
しかし、騒ぎは収まるどころかどんどん大きくなっていく。
集中しようとしても、耳に入ってくる笑い声と歓声が鬱陶しい。
男は薄く目を細めた。
――人だかりの中心にいる人物など、確認するまでもなかった。
アステラ・イグネリア。
今年入社したばかりの新人社員。
だが、その名はすでに社内中へ広まっていた。
透き通るような白い肌。整いすぎている顔立ち。吸い込まれそうな蒼い瞳。
そして腰まで流れる長い青髪は、歩くたびにさらりと揺れ、そのたび周囲の視線を奪っていく。
まるで物語から抜け出してきた姫君のような美貌。
そのうえ彼女は見た目だけではなかった。
「ありがとうございます。でもまだ先輩たちには全然及びませんよ」
柔らかな笑みを浮かべながらそう返す姿に、周囲の社員たちはさらに頬を緩める。
裏表がなく、誰に対しても愛想がいい。
新人らしい謙虚さもあり、それでいて仕事も優秀。
人気が出ない理由を探す方が難しかった。
青い髪がふわりと揺れるたび、周囲の男たちの視線が吸い寄せられていく。
……もっとも。
白髪の男だけ彼女には興味を持たない…なんてことはなく、彼もまた彼女の美しさに惹かれた男の一人である。
それが、どうしようもなく悔しかった。
白髪の男――フェルギアは、自分でも理解しているほど整った顔立ちをしている。
切れ長の目に、整った鼻筋。無愛想で近寄りがたい雰囲気すら、どこか絵になってしまう。学生時代から女子に告白されることなど珍しくもなかった。
だが、そのたびに彼の胸に浮かぶ感情は、喜びではない。
――結局、顔しか見ていない。
そんな冷めた感情だった。
「好きです」と言われても、その言葉の奥にあるものが信じられなかった。
自分の何を知っている?
性格も、考え方も、過去も知らないくせに。
ただ顔がいいから、雰囲気がいいから、勝手に理想を押しつけて好きになっているだけだろう――。
そんな経験が積み重なり、いつしかフェルギアの中にはひとつの思想が根付いていた。
“外見だけで抱いた感情は、本当の愛じゃない”
もちろん、そんなことを誰かに話したことはない。
理解されるとも思っていなかった。
だからこそ。
アステラに一目惚れした自分自身が、少し嫌いだった。
彼女を見た瞬間、胸がざわついた。
青髪が揺れるだけで視線を奪われた。
笑顔を見るたび、無意識に目で追ってしまう。
――自分が最も否定していた人間に、自分自身がなっていた。
「……はぁ」
小さく吐いたため息には、呆れと自己嫌悪が混ざっていた。
一方その頃、騒ぎの中心ではアステラが困ったように笑っていた。
「アハハ……それじゃ、私そろそろ仕事に戻らないと……」
だが、周囲の男たちは引き下がらない。
「待ってください! もう少しだけ!」 「今日ごはん行きませんか!? 返事だけでも!」
必死さが声だけで伝わってくる。
フェルギアは別に、こういう光景が嫌いなわけではない。
誰かを好きになる気持ち自体を否定するつもりもない。
だが――。
相手が、自分の好きな人となれば話は別だった。
静かに椅子を引き、フェルギアは立ち上がる。
その動作だけで、近くにいた社員たちが一瞬びくりと肩を揺らした。
長身の彼は無言のまま人混みへ向かい、邪魔な男たちの肩を掴んでは強引に道を開けていく。
「うわっ……」 「フェ、フェルギアさん……?」
低い圧のある空気に、人だかりが自然と割れていった。
そして。
一人の男性社員が、なおもアステラへ手を伸ばしたその瞬間――。
ガシッ。
フェルギアがその手首を掴んだ。
「っ!?」
男の顔が引きつる。
フェルギアは冷え切った灰色の瞳で相手を見下ろした。
「……仕事は?」
「え? あー……えっと……」
突然の圧に言葉が詰まる。
フェルギアは掴む力をわずかに強めながら、淡々と言った。
「それとも……女の子にちょっかいかけて固執するのがお前の仕事なのか?」
周囲の空気が、一瞬で凍りつく。
男は悔しそうに顔を歪め、
「……チッ」
露骨に舌打ちをした。
男性社員は忌々しそうに顔を歪めると、乱暴に手を振り払った。
「……っ」
鋭くフェルギアを睨みつけ、そのまま舌打ち混じりに去っていく。
その様子を見ていた周囲の社員たちも、気まずそうに目を逸らしながら次々と散っていった。
「じゃ、じゃあ戻るか……」 「仕事仕事……」
さっきまでの熱気が嘘だったかのように、人だかりはあっという間に消えていく。
その場に残されたアステラは、少し困ったように目を瞬かせた後、ぺこりと頭を下げた。
「あ、あの……ありがとうございます、先輩」
その声に、フェルギアは肩越しにだけ振り返る。
「礼を言ってる暇があったら仕事をしろ」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、振り払われた手をひらひらと軽く振りながら、自分のデスクへ戻っていった。
相変わらず無愛想。
感謝されても愛想のひとつも返さない。
だが、その背中を見つめるアステラの表情は、不思議そうでもあり、少しだけ柔らかかった。
一方――。
席へ戻ったフェルギアは、無表情のまま椅子へ座る。
そして静かにキーボードへ手を置いた。
……数秒後。
(……あ〜……やっべ)
内心では盛大に頭を抱えていた。
(絶対もっと言い方あったよなぁ……)
顔には一切出ていない。
だが脳内では、たった今の会話が何度もリピートされていた。
『礼を言ってる暇があったら仕事をしろ』
(いや怖っ……何言ってんだ……感じ悪すぎだろ俺……)
フェルギア・バーンライト。
彼は極度の人見知りだった。
普段の無愛想な態度も、別に格好つけているわけではない。
どう話せばいいのか分からず、結果的に冷たい言い方になってしまうだけなのだ。
もちろん本人もそれは理解している。
だから毎回、会話が終わった後に脳内反省会が始まる。
(“大丈夫でしたか?”くらい言えただろ……) (いやでも急に優しくしたら気持ち悪いか……?) (というかそもそも助け方から間違ってるくないか?)
などと延々考え続けるのは、もはや日常茶飯事だった。
そんなこんなで時間は過ぎ――昼休み。
社員たちが食堂へ向かったり、外へ出たりする中、フェルギアは席を立たなかった。
カタ、カタ……。
静かな打鍵音だけが響く。
朝からの騒ぎと仕事疲れで、食事を取る気力すら湧かない。
無心でモニターを見つめながらキーボードを叩き続けていると――。
コトッ。
不意に、キーボードの横へ湯気の立つカップが置かれた。
ふわりと漂うコーヒーの香り。
フェルギアはゆっくり視線を横へ向ける。
そこには。
柔らかく微笑むアステラ・イグネリアの姿があった。
「……?」
フェルギアはわずかに目を細めた。
突然置かれたコーヒーカップと、その隣に立つアステラを交互に見る。
アステラは胸の前で両手を合わせるようにしながら、ふわりと笑った。
「あの時のお礼です」
「…………」
フェルギアの身体が一瞬だけ硬直する。
完全に予想外だった。
まさか本人が直接来るとは思っていなかったし、ましてこうして話しかけられるなど想定していない。
(いや待て待て落ち着け)
表情だけは変えず、フェルギアは静かにカップを引き寄せた。
そして片手で持ち上げ、口元へ運ぶ。
こくり、と一口。
甘い香りが鼻を抜けた瞬間、彼の眉がほんの少しだけ動いた。
そのまま無言でカップをデスクへ戻す。
するとアステラが不安そうに身を乗り出した。
「……お口に合いませんでしたか?」
「……俺、ブラックしか飲まないんだよ」
「あっ」
アステラの肩がぴくっと跳ねた。
「す、すみませんすみません! ちゃんとコーヒーの好みぐらい聞いておけばぁ……!」
青い瞳が泳ぎ、両手をあわあわと動かしている。
その様子は普段の完璧な印象とは違い、年相応に慌てていて妙に可愛らしかった。
フェルギアは思わず数秒ほど視線を奪われ――慌ててモニターへ目を戻した。
「いいよ別に……飲めないわけじゃないし」
ぶっきらぼうに返しながら、もう一度コーヒーへ口をつける。
甘ったるい。
だが、不思議と嫌ではなかった。
アステラはそんなフェルギアをじっと見つめ、少しだけ目を細めた。
「……優しいんですよね。あの時もそうでしたけど」
「別に……」
即答。
だが内心では。
(流石に“好きな人だから優しくしてるだけ”とは言えん……)
フェルギアは無表情の裏で頭を抱えていた。
今まで女性とまともに距離を縮めた経験などほとんどない。
まして相手はアステラだ。
社内中の視線を集めるような存在。
そんな相手が、自分のデスクの横に立って普通に会話している。
その事実だけで心臓に悪かった。
「昼休み中でも仕事するんですか?」
アステラが首を傾げながら尋ねる。
さらりと青髪が肩を滑り落ちた。
「食欲がないんでな……」
「へぇ……」
アステラは感心したようにフェルギアのモニターを覗き込む。
その瞬間、ふわりと甘い香りが近づき、フェルギアの肩がわずかに強張った。
(近い近い近い……!)
だが顔には出さない。
出せない。
必死に平然を装いながらキーボードを叩く。
しかし実際のところ、仕事の内容などほとんど頭に入っていなかった。
隣にアステラがいる。
ただそれだけで、今この時間が気まずくてしょうがなかったのだ。
「……気まずいですね」
まるで心を読んだかのような一言だった。
アステラは困ったように頬を掻きながら、小さく笑う。
フェルギアの指が一瞬止まった。
「……元々、人付き合いが良い人間じゃないんだよ。俺は……」
低くぼそりと零されたその言葉に、アステラはきょとんと目を丸くする。
だが次の瞬間、口元へ手を当ててふふっと笑った。
「ふふ……」
「……? なんだよ急に……」
フェルギアが怪訝そうに眉を寄せる。
するとアステラは、どこか楽しそうに目を細めた。
「人付き合いが良くない……ってことは、先輩は人と触れ合うのが苦手なのに、あの時率先して助けてくれたんですね」
「なっ……!」
予想外の方向から返ってきた言葉に、フェルギアの肩がびくりと跳ねた。
白髪がふわりと揺れ、身体がわずかに強張る。
そんな解釈をされるとは思っていなかった。
アステラは柔らかく笑ったまま続ける。
「やっぱり先輩は優しい人です」
「……本気で言ってるのか……?」
思わず漏れた声は、少し掠れていた。
アステラは不思議そうに瞬きをする。
「えっ?」
その反応に、フェルギアは数秒黙り込んだ。
嘘を言っている顔ではない。
媚びているわけでも、社交辞令でもない。
本気でそう思っている目だった。
(あー……)
フェルギアは内心で天を仰ぐ。
(本気で言ってんのか……)
自分の言葉を、態度を、そんな風に受け取る人間がいるとは思っていなかった。
普段なら怖いだの近寄りづらいだのと言われることばかりなのに。
なのに彼女は、そこから“優しさ”を見つけてくる。
(……そりゃ人気も出るよなぁ……)
自然とそう思った。
顔がいいからじゃない。
愛想がいいからだけでもない。
きっとこの女は、人の奥にあるものをちゃんと見ようとする。
だから皆惹かれるのだ。
フェルギアは小さく息を吐き、視線をモニターへ戻した。
だが先ほどまで感じていた気まずさは、少しだけ薄れていた。
代わりに胸の奥が妙に落ち着かなくなっている。
隣ではアステラが、まだ楽しそうにこちらを見ていた。
「そう言えば先輩って、友達とか……いるんですか?」
ぽつりと放たれたその質問に、フェルギアの指が止まる。
(くっそ失礼なこと急に言ってくるな……)
思わず眉が引きつった。
(……でもこいつ、絶対悪気ないんだろうな)
アステラは純粋に気になっただけなのだろう。
だから余計に質が悪い。
フェルギアは小さくため息を吐いた。
「……学生時代の友達とは、もう連絡取ってないしな」
カタ、とキーを押しながら淡々と続ける。
「そもそも人と関わるのが好きじゃないんだよ」
呆れたような口調。
だがアステラは引くどころか、どこか納得したように頷いた。
「そうですか……なら彼女もいないんですよね?」
「当たり前だろ……?」
即答だった。
フェルギアは怪訝そうに視線を向ける。
するとアステラは、なぜかじっとこちらを見つめたまま黙り込んでいた。
「……」
「お前、なんで急にそんな――」
言いかけた、その時だった。
――ピイイイイイイン!! ――ピイイイイイイン!!
耳をつんざくような警報音が、オフィス中へ響き渡った。
「うるっせ……なんだ急に」
顔をしかめるフェルギア。
一方、アステラの表情はみるみる青ざめていく。
「この……音は……」
彼女の肩が小刻みに震え始める。
直後。
『魔物警報です。魔物警報です。1級の魔物が出現しました。近隣住民の皆様は、直ちに避難してください。繰り返します――』
オフィスの空気が凍った。
誰かが息を呑み、誰かが椅子を倒しながら立ち上がる。
「ま、魔物!?」 「なんで1級がここに来んだよ!?」 「早くっ…避難を!!」
一瞬で職場はパニックへ変わった。
アステラは信じられないというように呟く。
「そんなっ……ここは……Tier2じゃ……」
比較的安全な区域。
だからこそ、この街で働く人間の多くは“本物の脅威”を知らない。
だが――。
フェルギアの背筋には、冷たいものが走っていた。
理屈ではない。
本能だった。
全身の細胞が叫んでいる。
逃げろ、と。
今すぐここから離れろ、と。
「んなこと気にしてる場合かよ!! 行くぞ!」
フェルギアは勢いよく立ち上がると、アステラの手首を掴んだ。
「えっ――」
返事を待たず、そのまま走り出す。
オフィスの床を激しく蹴る音。
鳴り止まない警報。
悲鳴。
怒号。
そして。
窓の外から聞こえた、“何か”が咆哮するような音に、フェルギアの顔が険しく歪んだ。
――あれは、人間が勝てる存在じゃない。
本能が、騒音なんてレベルではないほど激しく警鐘を鳴らしていた。




