Case 16:Entrusted Arms
全国水泳選抜選手権大会という、大舞台を現実のものとした隆太。その会場の雰囲気は、今までの大会とは全く違う異世界のようなムードであった。選手同士、言葉を交わすことも少なく、黙々と、筋トレをしている者、音楽を聴きながら士気を高めている者、様々であった。
そして、ここで出会ったのが、誰であろう、亡き親友、小砂川優香の友でもあり、ライバルでもあった、”サーベルシャーク”の異名を持つ、屈強な女子選手、水島奈美であった。
…その凛々しい眼差しは、この大会を我が物とせんばかりの気迫を感じさせていたが、同時に、どこか虚ろな表情も見え隠れした。
対面した隆太に、彼女はこんなことを話した。
「私は…、この大会を最後に、水泳を引退します…」
「えっ…!?何だって!? なんで、これだけの実力を持っているあなたが…」
「・・・・・・・・・。。。」(奈美は、俯いたまま、涙をこぼし始めた。)
「そ、それってもしかして…、優香さんが死んだから自分もやめるとかって…」
「違うっ!!…そんな理由で水泳やめたら、私は一生後ろ指さされるわよ。。。」
奈美は語った。自らに突き付けられた、あまりにも非情な現実があったことを…。
「実は私、少し前から体調が悪くて、水泳もあまりできなかったんです。そして病院で検査した結果、股関節に重大な病気が見つかりました。幸い、早期に治療すれば治るものだそうですが、悪化したら命の保証はありません。なので、お医者様と相談した結果、今回の大会の参加を最後として、後は、、、クスン…後は、、、」
隆太は、思わぬ彼女の涙に当惑したが、泣き崩れる彼女を前に、どう、宥めるべきなのか、わからなかった。
「…そんな…。ウソでしょ…?奈美さん。」
「ウソや冗談でこんなこと言えますか!?…私は実際、その診断を受けて、あまりのショックで1週間も学校を休みました。もちろん、水泳をやめたりあきらめたりしたいわけが、ありません…! …けれど、命あってこその自分です。これからは、別な生きがいを模索する他、私に選択肢はないのです。小さいころから水泳には、誰よりも多くの情熱を注いできましたし、誰よりも多く練習し、体を鍛えてきたのです。…でもお医者様が言うには、それが、積もり積もって結果的に体を壊すこととなっただろう…と…」
「…そうだったんですか…。奈美さん。ぼ、、、僕、何て言えばいいのか、わからなくて今…」
「いいんです!とにかく今日は、私と最後の勝負をするものだと思って泳いでください!もちろん大会的には、男女が同時に泳ぐことはありませんが、後であなたと私のタイムを比べて、その白黒をはっきりさせましょう!勝っても負けても、私の最後の挑戦、受けてくれますよね!」
隆太は、その言葉に首を縦に振る以外、できなかった。そして同時に、心の中で思ったことは…
「あのカリスマ的な選手も、やはりどこかで人知れぬ苦労をしていて、悩んでいたんだ。いまの自分にできることは、彼女との勝負を受けることだろう。どちらが勝っても負けても、それがいまの僕にできる、最大限の何かだろう…」
思えば、同じような理由で、かつて愛莉が水泳への夢をあきらめてしまった事実があった。彼女はいま、水泳への未練を残しつつも、それを超える自分らしさを見つけるために、バンド活動をしている。人生わからない。どんな小さなエラーやミステイクが起こっても、それが、築き上げてきた見えない何かをめちゃめちゃに破滅させる…。
小野隆太17歳。人生の無常さを、またひとつ知ることになった。
そして試合本番を迎えた。男子女子ともに、それぞれ、定められた泳法で着順を競う。まずは男子の部がスタートした。隆太は3組目のグループに加わったが、先に競技をした選手達は、いずれもこの世界を登り詰めようとする猛者ばかり。その圧倒的な泳力に、一瞬、血の凍るような感覚が迸った。
そして彼の出番となった。雰囲気の違うプール、オーディエンス、そしてライバル選手…。
だが、ここまで来た自分は、もう引き返せない。
この両腕には、あらゆる人の、あらゆる希望が託されているのだから…。
ずっと仲良しだった、友加里、あきら、愛莉、そして、志半ばで旅立ってしまった優香。応援してくれる家族。それに加えて、青い森高校初の選抜選手権大会出場者ということもあり、学校全体の威信やプライド…。そして、奈美の想い。
数えればきりがないほどの「望み」が、自分の腕に期待を込めている。
正直に言えば、彼はこんな緊張は例がない。しかし、いつもそんな時に思うことがあった。生前、優香がよく笑顔で声をかけてくれたこと。
「あなたならできます!」
失敗を恐れる必要はない。思う存分自分を信じてやれ!
そして、号砲と同時に、隆太はプールへと飛び込んだ…
緊張の割には、最初のクロールは手応え良好だった。じりじりと他レーンの選手を引き離した。しかし、ここに集う者達は、将来を嘱託された期待の逸材ばかり。少しでも気を緩めれば、その瞬間、己の勝利は消えるだろう。
さながら、全てのライバル選手が「サーベルシャーク」であるかのように思えた。
いや、あえてそう思ったのだ。相手が男子だろうが女子だろうが、向かってくるなら僕の敵!もう弱音を吐いても無意味だ。こうなったら試合の時だけでも、肉食魚類、それも、ホオジロザメのような存在にでもなったつもりで、ライバル選手を食い散らかしてしまえ!!
そう心に決め込んだ隆太は、何だか少し心を覆っていたモヤモヤが晴れた。普段から大人しい草食系キャラとしての自分はあるけれど、試合の時だけは、獰猛な肉食獣だ!すべての想いを一心に背負い、キックターン、バタフライ、平泳ぎ…etc...
拮抗する選手もあれど、わずかな差で隆太が逃げ切る!彼の体力も限界に近いが、そんな時、ふと脳裏に浮かんだのが、愛莉たちと音楽を練習している時の様子だった。
音楽の演奏も、水泳の完泳も、全ては、リズムが大事。
乱れそうになったら、しっかりと整え直す。慣れないバンド活動の中で、BPMを合わせる練習を行っていた時、それは水泳にも共通する大切な要素であることを知った。
「いくぞ!!僕のリズムは、ここから最大値だ!!」
その様子を観客席から傍観している一人の女子がいた。誰であろう、奈美そのものだった。
「いいですよ、いいですよ…。その調子です。テンポを大事に!!力を入れすぎないで!!落ち着いて、冷静に!!」
ライバルであるはずの隆太を、自然と応援したくなってしまう。
それは、奈美が己の引退を期に、自らの未来を彼に託すつもりだからだ。
もちろん、彼の心の中には、仇敵かつ親友の、小砂川優香の魂が宿っている。
奈美は、自分自身が水泳への道を閉ざされてしまった今、全てを賭けることができる、唯一無二の存在。それが隆太だった。
そしてフィニッシュ!!見事、隆太はトップに躍り出た。奈美はその様子を見て、大きく安堵した表情をした。
「…さて、次は私の番ですね。」
そう言うと、ロッカールームに淡々と去っていく奈美であった。
男子の試合が終わった。隆太は何と、男子の部で1位を獲得した。
完全燃焼するつもりで挑んだ今回の試合は、彼にとってはこの上ない「死闘」であったが、心を支えてくれる様々な思いが、自分を後押ししてくれた。…そう、信じて何の不思議もないのだった。
そして隆太は、奈美の出場する試合を見守った。奈美の美しいスタイルに少し悶々とした瞬間もあったが、試合前の彼女の弱気な発言が、どうしても気になった。
どうか勝ってほしい…。もし本当に、これが彼女にとって最後の試合となるのだとしても、有終の美を飾ってもらいたい…。
号砲が鳴り響き、選手達はプールへダイブした。一見、何の見劣りもなく泳げているように見える奈美だったが、後半、何かがおかしいことに気が付いた。
奈美のお家芸として、後半、スタミナを消費した選手に食いついていくという独特の泳ぎ方がある。それが、獲物に食らいついていくサメのように見えるからこそ、”サーベルシャーク”の異名を得ているのだが、何ということだ…。食いつくどころか、獲物に逃げられている。このままでは上位入賞も夢と散ってしまう。奈美は真剣な形相で泳いではいる。しかし、他の選手に追従するのがやっとといった状況で、厳しい試合にもがいている様子が、否応なく伝わってきた。
そしてフィニッシュ。奈美は、自身のブロックで3位。女子総合では4位という、屈辱的な結果に終わってしまった。当然ながら、隆太のタイムと比較しても、彼の方が上回っていたことに変わりはない。
「奈美さん…どうして…?」
そう、隆太が悄然としていると、周囲からこんな声が聞こえてきた。
「なぁ…あの、サーベルシャークとやらも、随分と堕ちたもんじゃねぇか…?なんだよ総合4位とか…」
「マジそれな!もうあいつの時代は終わったんじゃね?」
「だろうな。この前の大会でも苦しそうだったって言うし、早い話、美味しいところを食べすぎて、その分、早く体にガタが来たってわけさ。」
「あーあ、無敵の鮫も神話にはならず…か。」
その罵詈雑言の数々。何だか率直に隆太に向けられているような気がしてならなかった。
彼女の葛藤や、苦しさを知らないからこそ、客観視点の人間はそんな感想だろう。しかし、隆太は試合の前に彼女から聞いた事実を思い出すと、悔しくて悔しくて、やり切れなかった。
そして表彰式となった。隆太は、初めて「金メダル」を手にして、盛大な祝福を受けた。これが現実のことなのか…?と、一瞬我を疑ったが、己の力で勝ち取った勝利の重さは、メダルを何倍もの重さにさせているようだった。
その後、女子の部の表彰式となったが、表彰台に奈美の姿は、なかった…。
隆太の頭の中には、この会場のどこかで泣いている奈美の姿が想像されて、切なくなってたまらない。
「…でも、一応、挨拶だけはしておこう…」
そう思って会場内を歩いていたら、突如、後ろから彼を呼び止める声が。
「お待ちなさい!!」
声の主は、誰であろう、奈美であった。隆太は早速、別れの挨拶を交わそうとしたが…
「流石ですね小野隆太!私が見込んだだけのことはあります。悔しいですが、あなたには完敗です。」
「いや、、、でも、奈美さんだって頑張って…」
「小野君!!…いいですか?よく聞いてください。今回の試合では、あくまでも私は”小野隆太”に敗れたのです。私はまだ、最後のひと試合を演じる必要があるのです。」
「えっ…そ、、、それって一体…??」
「そうです。小砂川優香と、最後の決着をつけるのです!!」
「はぁ…!?な、、、奈美さん、何を言って…」
「いいですか?あなたの心には、小砂川優香の魂が宿っています。明日、私はその”小砂川優香”に対しての、真剣勝負を依頼します!」
「ええっ…!?…ってかそれって、単に僕とリベンジマッチしろってこと…」
「違います!…。。。あなたは、小砂川優香、つまり、北のマーメイドの心と闘魂を受け継いだ存在。私は、引退を前に、どうしてもその”魂”に対して、決着をつけておきたいのです!!いいですね!!」
「そ、そんなこと言ったって…僕は今夜のバスで地元に帰るんで…」
「宿泊費ぐらい私が払います!!その他必要な出費は全部私が持ちます!!」
奈美は、涙を零しながら隆太を抱きしめた。
「おねがい…!!最後のお願いだと思って、聞き入れて…!!私、、、私、、、そうじゃないと、、、いつまでたっても、、、あいつの…、優香のことを…。だから…。うわぁーーーーん…!!」
鬼の目にも涙、ならぬ、サメの目にも涙。
隆太は、彼女の想いと意志を無にすることもできないと思い、急遽、現地に一泊し、奈美との”勝負”を受けることにした。
奈美が用意してくれたホテルのベッドで横になる隆太。今日の試合を振り返ると、まだ胸の鼓動がおさまらない。
死闘を制した実感は格別だったが、これから先は、常にこのような戦いの連続だろうという不安。どこまで自分の実力が通用するのか、どこまでいけば、優香や愛莉、友加里、そして奈美といった、水泳の道を去っていった者達の、代演を務めたことになるだろうか…。
一方で、地元に帰ればヒーロー扱いされることは間違いない。家族も友達も、そして学校中のみんなが、創立以来初の「選抜選手権優勝」という快挙を持ち帰った英雄として、盛大に出迎えてくれるだろう。
なお、この勝利を機に、彼にはいくつかの大学や企業が、オリンピック選手を目指すことを前提とした、特待生待遇を用意していた。このまま故障なく高校を卒業できれば、世界で通用する水泳選手を数々輩出した、「聖ドルフィン大学」という学校に、無試験で入れる。特待生なので授業料もほぼ皆無。家族を喜ばせるには、この上ない話だったが、一方で、愛莉や奈美のように、突然のアクシデントによる転落の不安もよぎり、いまは悩んでいる他ないのが現実だった。
そして翌日…。
いつもの水着を着た奈美が、彼女がよく通っているスイミングスクールのプールを特別に借りたといい、そこへ案内してきた。
奈美と同じ水泳部だったメンバーが、今回の勝負の見届け役となり、彼女の人生最後の水泳勝負は、多くの部員がその行方を、固唾を呑んで見守った。
「よーい!スタート!!」
…両者は同時にプールへと飛び込んだ。そして、泳ぎのペースはほぼ互角。部員の中には、かつての小砂川優香の泳ぎをしっかりと再現していて、まさに、その魂を引き継いでいると感心する者もいた。
前日の疲れもあったが、いまは、あくまでも”小砂川優香”として勝負を受けている。小砂川優香の魂を、自分の体で再現しているだけ。
しかし、全力での勝負を挑まねばならないことに変わりはなかった。奈美の私情は大いに解るが、それを理由に手を抜いたり、情けをかけたりしたら優香が怒る。
親友の最後の勝負、力の限り、受けて立つ。
「あなたならできます!」
その言葉を胸に刻み、観衆の大声すら届かないほど気を集中させた。奈美もまた、苦しいながらも、かつて得意とした泳ぎ方である、フィッシュ・ハンティング泳法を実践してきた。予想はしていたが、奈美の気迫を伴った猛チャージはすさまじく、さながら隆太は、サメの餌食となる小魚にさも似たりであった。
だが、隆太も心に決めていた。そう。「向かってくるなら僕の敵」
きっと、優香が生きていれば、同じことを言ったに違いない。
全力での戦いを演じてこそのアスリートだ。奈美は、それを教えたくてこの戦いを用意したのかもしれない。
そしてフィニッシュのタッチ!! 見た目には、両者とも同時に見えたが、電光掲示板を見ると、わずか、0.37秒の差で、隆太に軍配が上がった。
プールから上がった奈美は、ゆっくりと隆太に近づき、彼の肩を叩いてこう言った。
「よくやってくれました。小野…あ、いや、小砂川優香。あなたと最後まで、最高の戦いを味わうことができて、嬉しいですよ。あなたには敗れてしまいましたが、この屈辱は、小野君が必ずや、オリンピックという舞台で晴らしてくれると信じています。本当に、ありがとう。。。」
すると、奈美なその場に泣き崩れた。
「優香ぁぁぁぁぁ…、、、ほんとに、ほんとに、、、ありがとう………。。。」
彼女の流した涙は、紛うべくなし本物だった。きっと天国の優香は、隆太が自分の果たすことのできなかった、奈美へのリベンジを果たしてくれて、満面の笑みでいるだろう。
「ずっと、友達でいましょうね。次の待ち合わせ場所は、2020年のオリンピック水泳会場で決まりですよ。」
「あ、ああ!その約束、きっと果たしてみせるよ!!」
隆太は、走り去るバスの後ろの窓から、奈美に向ってずっと手を振っていた。
奈美もまた、隆太の姿が見えなくなるまで、ずっと大声で「ありがとう~!」と言っていた。
そして青森に帰った隆太は、一躍、期待の彗星として着目を浴びた。新聞社やテレビ局から取材が殺到し、将来有望な水泳選手として、多くの者が彼に期待をかけた。
ある日、連休で青森に集まることとなったあきら、愛莉は、隆太の話でもちきりだった。
友加里とも電話で話をして、将来の道が拓かれたことを、嬉し楽しく語り合った。
水泳はしばらくの間、大きな大会がないため休止状態となる。それを知った愛莉は、こんなことを言ってきた。
「ねぇみんな…、私達、またバンド演奏やりましょうよ。付き合わせているのは、私のわがままかもしれないけれど、お願い!今度、岩手でアマチュアの音楽イベントがあるんだよ。以前は、ちょっと残念な結果になっちゃったけど、今度なら、それを踏まえてまた頑張れるって思うの。ね、みんな!部活もいいけど、音楽の青春も、いいと思うよ。」
隆太「へぇ~、そうなんだ。いいかもね。あきらは、どうするの?」
あきら「お、俺は別に、、、参加してもいいけどさ…。ただ、、、」
隆太「ただ…なに?」
愛莉「実はあたし…、、、両親から言われてるの。今度のコンテストで成果出せなければ、お前には二度と楽器を弾かせない!って…」
隆太「なな…!!なんだって…!?…ってか、なんでだよ…!?」
実は、愛莉は音楽の演奏や譜面の創作に没頭するがあまり、学校の成績が大きく下がっていた。このままでは単位を落とし、留年もあり得る。彼女の両親は、それを危惧して、音楽を一時的に離れることを強く勧めていた。ライブの度にかかる旅費やライブハウスの借り賃も、多くは親がかりであることや、それに対して、明確な成果もなく、時間もお金も無駄にしているようにしか見えなかったのだ。
「あたし…、、、たった一つの取り柄は音楽だって信じてたんだよ…。もし、、、もし、それをなくしたら…あたしは、どうすれば…。。。」
イベントまであと2か月。
しばらく、楽器や音符と遠ざかっていた彼らにとっては、ある種の”試練”だった。
愛する友のために力になれるか…?
本音を言えば、それは全くの未知数であり、誰も、間違っても、「俺に任せろ!」なんてことは、言えなかった…。
-つづく-