第二章 空色のカフェで
バイクを空色のカフェの前で停めた。ペンキ塗りの木造平屋から古き良きアメリカの空気が漂ってくる。テラスに続く空色の階段を上り、空色のドアを開けると、穏やかな懐かしい空気に包まれた。角のテーブルにカップを片手に新聞を広げている老紳士がいた。壁にはレトロな洋画ポスターがずらり。「理由なき反抗」に「七年目の浮気」、そして…「イマジン」。ジョン・レノンとヨーコ・オノがベッドの上で愛と平和を訴えるあの有名なポスターだ。
カウンターの中から老齢のマスターが私の顔を見るなり、「いらっしゃい。お久しぶりですね」の挨拶とともにに、「イマジン」が流れ出した。
「Imagine all the people, living life in peace...」
「やっぱり、いい曲ですね」
私は向かいの席に座った彼に言った。彼――名前はジョン。偶然のような、運命のような名前。
僕は語り出さずにはいられなかった。
「僕は小学生だったんだけど、ジョン・レノンが撃たれた次の日、先生が教室で泣いていた。『レノンは命がけで平和を歌った』と涙を流しながら言いました。大好な先生を泣かせるなんて、音楽ってすごい力があると思いました」
僕はその頃を思い出して、少し勢いを込めて付け加えた。
「それで、思春期にはバンドをしました。曲も作って、ラジオで流れたこともあった」
ラジオから自分の歌う声が流れてきたときの嬉しさに浸る僕に、ヨーコ先生の驚いた声が聞こえてきた。
「えっ、すごいじゃないですか!」
私は思わず声が上ずった。彼の名前がジョンで、ロックバンド経験者。そして、私の名前は陽子――ヨーコ。
……え? え? え??
昔から密かに願っていた。ジョン・レノンのような理想を語れる人、私の色に染めるアーティストの恋人が欲しいと。誰にも言えなかったけど……死んだ夫にはもちろん言えなかったけど……
この人、「私のジョン」なの??
「どんな曲、書いてたんですか?」
「くだらないのばかり」
一言で決めつけたその言い方に、遠い夢を置いてきたあきらめがあった。
このジョンは、神様が私にくれた、普通よりちょっとだけ特別なジョンかもしれない。
「私、英語がどうしても難しくて、考えたんです。もっとみんなにとって平等で、わかりやすい共通語があればいいのに、って」
思わず口にしていた。心の奥に押し込めていた思いが、言葉になって飛び出していた。これを伝えたのはジョンが初めてだ。ジョンは私を変な考えを持つ変な人だと思わない感じがした。
「へぇ、面白い。……それ、たとえば?」
「エスペラント語、ってご存知ですか?」
「え?エスペ…何?」
「ザメンホフって人が作った人工言語です。十九世紀末、ポーランドは帝政ロシアの領土だったので、ロシア語を押し付けられて、言葉の為に差別や迫害があったんです。それで共通語を作って不公平を無くそうとしたんです」
僕は居心地が悪くなって、もぞもぞと動いた。
「……英語って、植民地に押しつけて広がりました。僕も英語、教えてますから、恩恵、受けてますけど、ちょっと申し訳ない気持ち、あります」
私も、もぞもぞと動いた。
「日本も同じ。かつては台湾や朝鮮に日本語を押しつけていました。そうやって文化も支配しようとしました」
「言葉って、武器にもなるんですね」
「だからザメンホフはエスペラント語を作ったんです。言葉が一つであったら、それがどの国の言語でもなかったら、平和になると信じたんです」
僕は、窓の外に目を向けた。陽の光がコンクリートに影を描き、人が行き交っていた。
「今でも戦争が無くならない。残酷な侵略や弾圧が続いている。二十一世紀なのに信じられないです」
私たちは沈黙のまま、窓外の陰影を見つめ続けていた。窓から差し込む光がまぶしくて座り直し、ようやく私は言葉を見つけた。
「でも世界には力で支配するだけじゃなくってザメンホフのような優しい心で世界を変えようとしている人もいますよね」
僕はかすかにうなずいた。
「世界は…力と愛が…競ってますね」
呟きのようなその言葉に、私はふわりと思い出した。
「えぇ、エスペラントの意味は希望でした」




