ルッカ
ルッカ視点です。
暴力的な表現がちらほら……お気を付けください。
気づいた時には不幸だった。
生まれてから物心つくまでの事は覚えていない。かろうじて記憶の端っこに引っかかっている落葉樹の最後の一葉みたいな思い出のかけらには「ルッカ」と呼ぶ穏やかな声だけが残っている。ぼくをそう呼ぶ人の容姿も表情もわからないけれど「ルッカ」という音の響きと、そう呼んでくれた人が大好きだった気持ちだけはちゃんと胸の中にある。
はっきりと覚えている最初の記憶は孤児院の院長室で修道服を着た院長先生に名を尋ねられている時のことだ。ぼくは「ルッカ」と答えた。変わった名前ねと言われて、なんとも言えずに頷いた。名前以外の事……例えば父親の名前とか誕生日とか今までどんな所で暮らしていたかとかも聞かれたけれどぼくは何一つ答えられなかった。
その部屋に入る前は、孤児院の門の前でお金の入ったカバンを持って立ち尽くしていたらしいけれど、それも記憶にない。いつからいたのかも、どうやって孤児院にたどり着いたのかも全く覚えていなかった。
ぼくは孤児院では特別扱いされていたと思う。他の子たちが課せられている毎日の清掃や洗濯や食後の片付けなんかもぼくだけは免除された。皆で質素に済ますはずの食事でさえもぼくだけパンが白かったり、スープの具が多かったりした。持っていたお金を全額寄付金として院長先生に渡したからだろう。
言われるがままに生活していただけだけれど、他の孤児たちには嫌われた。友達なんて一人も出来なかった。自由時間に走り回って遊ぶ仲間に入れてほしかったけれど、ぼくが近づこうとするとみんな一目散に逃げるか眉間にしわを寄せて睨むか、小さな子は泣きだしたりもした。嫌われている事を目の当たりにするのは辛い。ぼくは一人で本を読んで過ごすようになった。
ぼくにも話し相手になってくれる人が一人だけいた。修道女の見習いをしているケイトリンだ。彼女は修道女の中では一番若く、ぼくの面倒を見る係に指名されていた。ぼくは着替えもトイレも一人でできたから、食事をはこんだり、部屋を片付けたりするのが彼女の仕事だった。
ぼくが分からなくて困っていると文字を教えてくれたり、読み聞かせをしてくれたりもした。彼女は植物に詳しくて、図鑑を見ながらこれは食べられるとか、これは毒があるとか、これは薬になるとか、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。ある時ぼくは「どうして優しくしてくれるの」と聞いた。愚かなぼくはきっと「あなたが可愛いから」とか「好きだからよ」とか言う言葉を期待していたのだと思う。彼女は言った。
「あなたにもう辛い思いをさせたくないからよ。今までずっとつらい思いをしたのでしょう。記憶をなくす程だもの。でも、つらいのはもう終わり。これからは楽しい思い出をいっぱい作りましょう。」
ぼくの覚えていない過去でぼくはずっとずっとつらい思いをしてきたらしい。どうして彼女がそんなことを知っているのだろう。ぼくはそんなことないよと言いたかったのだけど、覚えていないのだからそれは正しいとも間違っているとも言えないかった。この親切の形をした刃はぼくが孤児院を去る時までずっと喉元に突きつけられていた。ケイトリンが頭を撫でてくれても、微笑みかけてくれても、どんなに世話をやいてくれても、ぼくはひとつも幸福にはなれなかった。
それでも孤児院での生活は快適だったのだろうと思う。3度のご飯、清潔な衣類、きちんと天日干しされた布団……そういうものが当たり前にあった。でもそのありがたさに気付いたのは檻付きの馬車に入れられて数時間経った後のことだった。ぼくはある日突然人攫いに捕まったのだった。
固い床に直接座らされてお尻はジンジンしていた。お腹はペコペコだけれど食欲は無かった。誰かが漏らしたのかそれとも何日も同じ服を着ているからか……檻の中は何とも言えない不潔な匂いが充満していた。子どものすすり泣く声がずっとしているけど、大きな声で泣く子は居ない。さっき大声で泣いた子は鞭に打たれて檻の真ん中で動かなくなっている。
「どうしてこんなことに……」
そう嘆く声が耳にまとわりついて離れない。
何日か経った後、馬車が止まって、冷たい風呂で無理やり洗われて、ペラペラの薄い布を頭からかぶり腰を紐で止めただけの奴隷が着る服を着せられて、手枷と足枷をはめて檻付きのステージの上に並べられた。
「こりゃあ、忌子でねぇか?」
檻の向こう側で、つなぎの服と日差し避けのついた丸い帽子をかぶった農家風のおじさんが言う。
「忌子?」
「都会の人間は知らんのか?紫色の目は不吉の証。魔女の瞳って昔から忌み嫌われとる。」
「へぇ。ならお客さんには別の見せよう。」
商人風の衣装に着替えた人攫いはそう言って農家風のおじさんをぼくから遠ざけた。ぼくを睨みつけられても、瞳の色がかえられれないのはぼくのせいじゃない。
檻の外からぼくらを眺める客たちはひっきりなしで、ぼくらは座ることも許されずにただ立つづけた。何人かがぼくの顔を覗き込んだが、瞳の色を確認すると皆すぐに興味を失った。さきほどぼくを忌子と言った農家風のおじさんはぼくより少し大きい男の子を連れて行った。隣に立っていたお姉さんは派手な宝石のついた服を着たでっぷりと太った商人風のおじさんに連れていかれた。一日立ちっぱなしでふらふらになったころ、また馬車の檻に移し替えられる。
人が減ったりふえたりしながら、ぼくが人攫いにあった頃にいた子たちは全員いなくなって新しい子ばかりになって、その子たちもほとんどいなくなった頃、人攫い達がぼくを殺す相談をしているのを聞いた。いつまでたっても売れないぼくは人攫いにも要らないと言われるらしい。要らないならその辺に捨ててくれればいいのに、自分たちの悪事が露見する可能性を考えて口封じするという話だ。それならそれでいいやと思った。檻での移動や味のしないごはんや冷たいお風呂……ぼくの日常の中には無くして惜しいものなど無かったから。
いつ殺されるのかと思いながら数日過ごした時、ぼくと同じくらいの女の子が檻の中に入れられた。その子は母親を呼んでずっと泣いていて、人攫いが脅しても大声で怒鳴っても泣き声は収まらなかった。舌打ちした人攫いが鞭を持って檻の中に入ってきたから、これから何が起こるのか知っている子たちは小さな悲鳴を噛み殺して檻の端に逃げる。
「うるせぇって言ってるだろうがぁ!」
と怒鳴りながら振り下ろされる鞭の音に女の子はビクッとして泣き声を止めた。けれども頭に血が上っている人攫いがその様子に気付くはずもなく女の子に向かって鞭を振り下ろす。ぼくはとっさにその鞭と女の子の間に体を滑り込ませた。鞭のしなりに合わせてぼくの体が弾むのをみんなが唖然として見ていた。
「何だお前。」
少々ひるんだ様子の人攫いにガバリと土下座をする。ぼくはあなたの足元にも及びませんと態度で見せる為だ。
「お……女の子は傷つけると値打ちが下がるって……この前……。」
ぼく言葉に人攫いは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「この子は可愛いからもったいない……です。」
「そうかよ。」
人攫いはさっきよりずっと弱い力でぼくを鞭うった。それでもビタンッビタンッとすごい音がして、ぼくの腕には太いミミズ腫れが一瞬で走る。
「おい。まだ泣く奴はこいつと同じ目にあわせるからな。」
そう言い残して人攫いは檻を出て行った。ぼくは力が抜けてその場でうずくまった。女の子がどんな顔をしているかは分からなかったけれど、泣き声はもう聞こえなかった。
ぼくが庇った女の子は次の街でとても良い値で売れたらしい。ホクホクとした顔をして人攫いがぼくを檻から出した。いよいよ口封じに殺されるのかな?と思っていたぼくに奴隷商はこれからも女の子が泣き止まない時には同じように庇うように言った。
「手加減してやるからよ。」
そう言われて頷くことも首を振ることもできなかった。結局移動中は檻の中に入れられることになったけれど、ぼくには小汚い座布団が手渡された。お尻の痛さがマシになったのかどうかは分からない。ぼくが鞭で打たれる役になってから人攫い達の収入は増えたらしい。高値で売れるようになったと言っていた。けれどぼくを含め攫われた子どもの扱いは変わらない。だから、人攫いの片棒を担いでることになるのではと気付くのにしばらくかかった。
ぼくは人攫いの一員になってしまったのだろうかと悩み始めたころ、ぼくには新しい役割が与えられる事になった。攫う子の目星をつけてこいと言われたのだ。次の狩場である帝都は警邏隊の練度が高く、ガラの悪い大人が子どもをジロジロと見ているとすぐに目をつけられてしまうらしい。ぼくだったら警戒されずに良さそうな子を選べるだろうと言われた。はじめは無理だと断ったが結局脅されていう事を聞くことになった。
数日帝都を歩き回ったが成果は芳しくない。それを報告すると1日1回の食事を抜かれた。食事を抜かれて3日目とうとう我慢できずに毒をぬったお菓子を食べてしまった。ぼくの手の届くところに置いてある食べ物は毒を塗ったお菓子だけだった。毒を塗った場所は避けたけれど、避けきれなかったのか匂いなどに充てられたのか倒れた所を発見され解毒剤を飲まされて、しこたま殴られた。面倒だからずっともっとけと解毒剤をもう一本持たされる。ふらふらする体を抱えて、でもアジトで休むことも出来ず、そのまま街へ出た。ヴィーと出会ったのはそのすぐ後だ。
綺麗な子だなと思った。色合いは地味だけど、顔の造りは整っているし、姿勢やしゃべり方がなんだかとって綺麗だった。話すうちに「ルッカ」と呼ばれた。もう何年も呼ばれてない名だった。ケイトリンに呼ばれていたのとも違う響きだった。薄汚れてガリガリで孤児院にいた時よりも数倍みすぼらしいぼくなのに「ルッカ」と呼ぶ声には嫌悪も同情も含まれていない。奇跡だと思った。くれたリンゴのおいしさといったらなかった。何かお礼をしなければと思ったけれどぼくが持っているのは解毒剤だけだった。ぼくが渡したものなんて、ゴミのように投げ捨てられるかもしれないと思いつつ押し付けた。けれど女の子は、ヴィーはすごく大事なものみたいに受け止めてくれた。やっぱり奇跡だと思った。同時にこれはいけないと思った。こんな女の子が一人で居ては良からぬ者の目に留まるのは時間の問題だと思った。
さよならも言わずにヴィーから離れて、もう二度と会うまいと心に決めたのに、それから街に出る度に何度もヴィーを見かけた。たくさんの人の中に埋もれていてもぼくの瞳はヴィーを見つけてしまうらしい。もちろん人攫いに教えたりはしなかった。けれど、ぼくの視線がヴィーに縫い留められた一瞬を捕まえられて、気付かれてしまった。
「お前、良い趣味してんなぁ。」
そうニヤリと男が笑った時、目の前が真っ暗になった。
ヴィーの保護者はしっかりしていて、ヴィーが街で一人になることは無かった。人攫いのリーダー格の男以外は別の子どもを探そうと言ったけど、リーダー格の男はヴィーを諦めなかった。
「あれは上玉だぞ。良い金になる。どうせ祭の間は身動きとれねぇんだ。じっくり下見といこうぜ。」
そう言って仲間を説得していたけれど、それだけじゃないことがぼくにはわかった。男はヴィーに執着していた。
ヴィーの家を突き止めて行動を監視しだしてすぐに監視役をしていた男がニタニタ笑いながら帰ってきた。
「あの嬢ちゃんにいっつもくっついている男、階段から落ちてケガしたぜ。あの様子じゃ、明日は動けねぇだろうよ。」
「金髪のガキくらいはどうとでもなるだろう。明日2人で出てきたらやるぞ。」
「祭はどうする?」
「明日の午後には終わるんだ。祭の片付けに馬車が行き来するのに紛れられれば目立たねぇ。」
男たちが頷きあっているのをぼくは青い顔をして見ていた。
人攫い達が明日の為にと早めに寝静まったのを確認してから、ぼくはこっそりアジトを抜け出した。ヴィーの家にはほかにも大人の男の人が居るのを知っていたから、明日は出かけないように忠告すれば何とかなると考えた。夜更けに一人で尋ねて、どうやってヴィーとしゃべろうとか、怪しまれて警邏隊に連れていかれるかもとかそんなことは考えなかった。人攫いたちに後をつけられているだなんて思いもしなかった。
ぼくのせいでヴィーはあっさり男たちに連れ去られることになった。ぼくのせいで毒を口にする羽目になった。ぼくのせいで地面に倒れこむことになった。ぼくなんか見捨てて隠れてくれていたら良かったのに。逃げてくれたら良かったのに――そう思うのに、追いかけてきてくれたことが庇ってくれたことが嬉しくてたまらなかった。
ぼくははじめて幸福だった。
暗くて苦しい回でした。(涙)
最後までお付き合いありがとうございます。




