秋 振り返ると季節は
社会人として出版社で働いていた彰子は、上司である莉緒や郁、
明里先生やその息子の透に支えられて、生きようとする気力を少しずつ取り戻していく。
そんな中、祐輔が事故にあったと知らせを受ける。
「郁さんより早く告白してたら、どうなってたのかな?」
・縦書き ニ段組 A5サイズ
・27文字×21行
・文字サイズ9ポイント
・余白 上下11mm 16mm
に、設定していただくと本来の形でお読みになれます
社会人になって二年余りが過ぎた。
幸いにも大手出版社に就職することができた私は、小さなスペースで週間連載のエッセイ枠を任されることになる。
『繊細と落花』というタイトルで、私の半生を綴った物語を書いている。四季を彩る花のように、私の人生はきっと鮮やかではない。どこまでも鈍く、醜く、滲んでいるのだろう。輝いていない物語なんて誰が見たいのか。
私にエッセイを書かせる。そう提案したのは直属の上司である莉緒さんであった。
面倒見の良い人で、まだ右も左も分からない私に懇切丁寧に付き合ってくれた。仕事はもちろん、プライべートでも頼れるお姉さんとして、私の悩みや愚痴を聞いてくれる。
中学校の頃の話や同窓会の話もした。
その時だ。莉緒さんがエッセイを執筆してみないかと提案してきたのは。最初こそは戸惑った。けれど、莉緒さんの「眩しくないからこそ、直視できる光もある。そしてそんな鈍い光だからこそ、救われる人達もいる」という言葉に後押しされて、私は執筆する覚悟を決めたのだ。
『いつか、アキを主人公にした物語を書いてみるよ』
大切な人の言葉だ。
それも出版社に就職を決めた一つの理由かもしれない。
祐輔くんの書いた本が持ち込まれるかもしれない。
そんな淡い期待も込めて。
祐輔くんや郁さんとは就職以来、一度も会っていない。
二人が結婚を視野に入れた同棲を始めたのをきっかけに、なんとなく会うのが気まずくなってしまった。二人の物語の中に、私が登場してはいけない。透明でいようと決めた。
今日も私は私の物語を、私だけ置き去りにして進む。
* *
昔、郁さんと会った河川敷でギターを弾くことにした。
二年前の夏にギターの練習をしてから、今もたまにこうして弾いている。出会えた記念として一本プレゼントされた手前、部屋のすみっこでほこりを被せるわけにもいかない。
地べたに座り込んで、しばらく川の流れを眺める。水が夕陽に照らされて光の粒子を放つ。秋風が心地良かった。
ギターケースからギターを取り出して音を合わせる。
何度か深呼吸を繰り返す。数秒ほど目を閉じた。
そして、祐輔くんと私が共通して好きなバンドの新曲を弾き語りする。ちょうど下校の時間なのか、中高生達が私を好奇な目や、邪険な目を向けて通り過ぎていく。
『あーちゃんはあの時、昔の私と同じような目をしてた』
郁さんの言葉を思い出す。こんな目だったのだろう。
声が震えた。音程なんて気にしなかった。大きな声で歌った。精一杯、心で歌った。とても清々しい気分だった。
『涙は君に羽根をもらって キラキラ喜んで飛んだ踊った
あまりにも綺麗だから 愛されなかった 量産型
悲しいほど強い魂 どれだけ憎んでも消えない消せない
何よりも綺麗な事 本当はもっと 知っているずっと』
一曲歌い終えると、後ろから拍手が聞こえてきた。ドキリとして振り向くと、そこには明里先生と透くんがいた。
何年振りだろうか。突然のことで言葉に詰まる。
「久しぶりね。こっちに戻ってきたの?」
「いえ。今日はギターを弾きに寄っただけで」
明里先生が私の横で腰を降ろす。
「透も一緒に座りなさいって」
「いいよ。ここで待ってるから早くして」
透くんの背はかなり伸びていた。私と同じくらいか、もしくは通り越しているかもしれない。声は低くなり、雰囲気は良い意味でも悪い意味でも最近の若者を感じた。
「透くん。今、何歳なんですか?」
「今年で十八になるの」
初めて会った時は小学校低学年だったことを考えると月日の流れに重みを感じる。八年くらい経ったのか。
「ギター弾けるんだね」
「まぁ、少しだけですけど。先生は今」
そこまで言いかけて口をつむぐ。
何してるんですか? なんて、先生を退職に追い込んだ私が聞けるわけなかった。心情を察してか先生が微笑む。
「私ね、もう一度だけ教員試験を受けてみようと思うの」
「教員試験……」
「うん。そろそろ復帰してもいいかなって」
謝罪の言葉が喉元まで出かかって、梓の言葉を思い出す。
『謝って満足するのは、私じゃなくてあなたの方だよ』
確かにそうだ。それでも、言わずにはいられなかった。
「明里先生」
「うん?」
「こんな私を、どうか一生、許さないでください」
秋風が一段と強く吹き付けると、目元にわずかな冷涼さを感じられた。自然と涙がこぼれていた。頬を伝ってくちびるに涙の粒が溶ける。なぜだか甘い味がした。
明里先生は何も言わずに私を抱き締める。いつかの児童公園での光景を思い出す。あの時とは立場が逆だけど。
「千歳さんにもう一編、金子みすずの詩を送るわ」
そう言って明里先生はあの日と同じように私を見つめる。
「ちったお花のたましいは、
みほとけさまの花ぞのに、
ひとつのこらずうまれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまがよぶときに、
ぱっとひらいて、ほほえんで、
ちょうちょにあまいみつをやり、
人にゃにおいをみなくれて、
風がおいでとよぶときに、
やはりすなおについてゆき、
なきがらさえも、ままごとの
ごはんになってくれるから」
詩をそらんじる先生の姿はやはり繊細であった。
「『花のたましい』という詩よ。私の一番好きな詩なの」
詩の内容を反芻しながら、戸惑う。私は、
「先生。私は……」
多くの人を犠牲にしてきた私の魂は、
身仏様の花園に生まれることができるのでしょうか。
そう言いかけた時、
明里先生の人差し指が私の唇を押し当てる。
「秘すれば花」
やがて指が唇から離れる。熱量の残滓があった。
「千歳さん。あなたはまだ、生きているのよ」
「……はい」
その言葉に明里先生の旦那さんが思い浮かんだ。
やがて待ちくたびれた透くんが咳払いをする。
「母さん。もう行こうぜ」
「もう。じゃあ、またね。千歳さん」
「はい。ありがとうございます」
二人と別れ、背中を眺める。その視線に気付いたのか、透くんが何の前触れもなしに振り向いた。明里先生も釣られて後ろを振り向く。先生の「どうしたの?」と訊ねる声も聞こえないのか、私の顔をじっと見つめる。
「なぁ。お姉さん」
「……なに?」
透くんはしばらく俯いた後、やがて照れくさそうに笑う。
「昔、俺と一緒に遊んでくれてありがとね」
私の体に熱量が灯っていく。
ありがとう。なんて言われるのはいつぶりだろうか。
遠ざかる二つの背に向かって、私は深くお辞儀をした。
ギターをケースにしまい、河川敷を後にしようとする。
その時。
母親から電話がかかってきた。
「もしもし」
「あんた、今どこにいるの?」
気のせいだろうか。母親の喋り方が一段と早い。
少し上擦っている気もする。
「……どうしたの?」
「祐輔くんが」
電波の向こう側で呼吸が乱れていることに気付く。
とても嫌な予感がした。
「祐輔くんが交通事故にあったの」
* *
不安を振り払うかのようにとにかく走る。
祐輔くんが交通事故にあったと聞いた瞬間に、一心不乱で駅を目指す。母親の話だと信号無視をした車と出会い頭に接触したらしい。それ自体は軽い打撲や骨折で済んだけれど、問題はその後、倒れた込んだ際に頭を強く打った影響で昏睡状態に陥っているそうだ。事態は深刻、らしい。
どうして。
そのことばかりが頭の中に渦巻く。
生きることを放棄した私が無様に生き延びているんだ。生きようとしている祐輔くんが死んでいいはずがない。
どうして、どうして、どうして。
神様。もしも私がこの先、命をまた粗末にするようなことがあれば、そのときはこの命、あなた様にお返し致します。
だからどうか、どうか祐輔くんを助けてあげてください。
* *
病院に着く頃には二時間以上が経過していた。
病棟には母親と叔母の香苗さんがいた。二人とも疲弊した顔をしている。ずっと見守っていたのだろう。
「あら。来てくれたのね」
「はい。あの、祐輔くんは……」
香苗さんがベッドで横たわっている祐輔くんを見る。
「今は疲れて眠ってるのよ。この子もがんばったわ」
香苗さんが祐輔くんの頭を優しく撫でる。
祐輔くんの顔を確認したら、急激に体中から力が抜けてしまった。伯母さんからイスを勧められて座り込む。ふっと軽くなる体に、魂までもが浮遊する感覚となる。
そこでやっと、ギターを河川敷へ忘れたことに気付いた。
祐輔くんの腕には点滴の管が刺されていて、頭には包帯が巻かれている。人工呼吸用のマスクも付けられていた。痛々しくて目を背けてしまう。どうしようもなくなる。
「あまり長くいてもしょうがないから行くわよ」
母親の声は聞こえるけれど、体が動かない。
不思議だ。確かに私がここにいてもいなくても何も変わらない。心が息苦しさで胸が詰まるくらいなら、むしろいない方がいい。けれど、今ここで帰ってしまったら、もう二度と祐輔くんと会えなくなる気がした。
「ほら。早く」
何も言えずに黙る。駄々をこねている子どもみたいだ。
「……ここにいる」
「いい加減にしなさい。帰るわよ」
「いいんですよ。少し、私達が席を外しましょう」
香苗さんが席を立つ。
酷く痩せ細った腕が祐輔くんと重なる。
「祐輔のこと、お願いね」
「……はい」
病室から退出する母親と香苗さんを眺めながら、ゆっくりとため息を吐く。祐輔くんを見るとなんだか小さく見えた。無音が騒々しくて、わけもなく不安になる。
毛布の中に左手を入れて祐輔くんの右手と繋ぐ。手のひらの熱量が冷たくて怖かった。同時に、私にも体温があったのだと気付く。あなたが教えてくれた、愛しい熱量だ。
私はこの人から、本当に沢山のことを教えてもらった。
読んだことのない面白い本。行ったことのない知らない場所。会ったことのない猫みたいな人。想うことのなかった、
あなたへの、この、どうしようもない気持ち。
あなたと出会って、あなたに触れて、私は初めて、透明になりたくないと思えた。私もあなたが生きる世界に、確かに存在したい。けれど、何もかもが遅過ぎたのだ。
ごめんね。郁さんがいるのに。これで最後にするから。
繋がっていた手と手を離し、祐輔くんの前髪を数回ほど撫でる。前屈みになる。心臓の音が想像しく高鳴る。
そして、
祐輔くんの頬に、くちびるを重ねた。
「わ。すごいもん見ちゃった」
突然聞こえてきた声に驚き後ろを振り向く。そこには、
「郁さん……」
「見間違いじゃないよね?」
体から血の気が引いていくのが鮮明に感じられる。
「あの、……ごめんなさい」
「どうして謝るのさ」
「だって、祐輔くんは郁さんの彼氏だから……」
祐輔くんは郁さんの彼氏。自分で言って胸が苦しくなる。
「だけど、祐輔くんはあーちゃんの従兄だよ」
確かに従兄である。でも、だからどうしたと言うのだ。
従兄なんて、血の繋がりがある他人ではないか。
でも、それでも。
「郁さん。今だけ私に、時間をください」
精一杯、頭を下げる。郁さんの足が見えた。郁さんは数回ほど右足のつま先を床で叩いて、タンタントン、タンタントンとリズムを生み出す。今、どんな表情をしているのか。
「いいよ。わかった」
顔を上げると同時に、郁さんが病室を出て行こうとする。
「あの、河川敷にギター、置いたままにしてしまいました」
違う。他にもっと言うべきことがあるのに。けれど、どうして。心と言葉と声は一緒になってくれないのだろう。
「うん。取りに行く。大丈夫」
私の方へ振り向く。窓から差す光を髪に纏い、青紫色の粒子を振りまく。そして、口だけをゆっくりと動かした。
微笑む。
河川敷で初めて会った日のことを思い出す。
そして気付いた。
あの日、郁さんが私になんと言ったのか。
私も声にすることなく、こくん。と、小さく頷いた。
* *
次の日、祐輔くんが目を覚ましたそうだ。
まだ体力的にも精神的にも疲労しているため、お見舞いは数日後にということになった。香苗さんの話では病室で本を読んだり、写真を見返したり、小説を書いているそうだ。
そして今日。およそ一週間振りに祐輔くんと会う。
病室の前まで辿り着く。静かに、何度も深呼吸をする。繊細さを吸って、淀みを吐いて、数度、胸を叩く。
ゆっくりとドアを開ける。
ノックするのを忘れていたことに気付いた。不躾だと思われたらどうしようか。些細なことで不安になる。
あの日、郁さんから時間をもらった後、私は祐輔くんと血の繋がった他人でいることをやめた。従妹として、彼の妹のような存在でいようと決意した。その意味を込めて、私は、
「兄さん。会いにきたよ」
大切だった人が目を大きく見開いて困惑する。
「……兄さん?」
「うん。だって、祐輔くんは私の従兄だから」
自分自身に言い聞かせるように話す。従兄だから。
「まぁ、とにかく、来てくれてありがとう」
促されるままイスに座る。長い沈黙が続いて気まずい雰囲気が部屋を包む。どうしてだろうか。兄さんとの接し方を忘れてしまったかのようにぎこちなくなる。
「不思議な夢を見たんだ」
ふと、兄さんの方から話しかけてくれた。
「僕が空からゆっくりと落ちていく夢」
それは、いつの日か私が見たような夢だ。
「地面の方を見ると一つの人影があったんだけど、ぼやけてよく見えなくてね。目に前に来ても誰か分からないんだ」
相づちは打たずに、兄さんの言葉に耳を傾ける。
「その人をすり抜けて地面に衝突するって時、僕はその人から左手を指し伸べられたんだ。必死に掴んだ。そしたら」
兄さんが私の目を力強く見据える。ドキリとした。
「アキだったんだよ。アキが僕を救ってくれたんだ」
「でも、私、兄さんに何もしてあげられてないよ」
「そんなことない。アキが生きてるだけで僕は嬉しいんだ」
夕陽が窓から差し込む。
「私、兄さんのことずっと好きだったんだよ。知ってた?」
こんな感傷的な雰囲気の中でしか言えない臆病な私を、どうか一生、好きにならないでほしい。そうしたら、なにもかもを妥協して、諦めが付きそうだった。
期待をしてもいい人は、例え思うような結果にならなくても耐えられる人だけだ。私にはそれができない。
「でも、私の感情って兄妹愛みたいな気持ちだったのかも」
「……うん」
「郁さんより早く告白してたら、どうなってたのかな?」
「何も変わってないよ。アキは僕の従妹だ」
初めて会った時にも言っていた従妹という言葉と関係が呪いのようにも感じた。従妹だから出会えた。従妹だから交流がある。従妹だから、好きになってはいけない。
何も言えずに黙り込む。
そんな私の様子を察してか、兄さんが頭を撫でてくる。
「僕が退院したら、一緒にしてほしいことがあるんだ」
「うん。いいよ。なんでもする」
* *
兄さんが退院してから数日が経った。
あの日から郁さんとは会えずじまいでいる。ギターは無事に郁さんの手に渡っただろうか。あのまま河川敷に残ったままで、知らない誰かに拾われていたらと心配になる。
今日は兄さんから一緒に来てほしいと言われた場所に足を運ぶ。電車を乗り継いで二時間ほどの駅で降りる。私はその土地を、その景色を、その思い出をよく知っていた。
私が住んでいた街である。
兄さんのしたいこととは、私の葬式を行うことだった。
あの日、命を粗末にした私は確かに死んだのだと。
そして必死に生きようとする私に生まれ変わったのだと。
そんな意味を込めて、だそうだ。
ギターを弾きに何度か戻ってきたことはあるけれど、住んでいたマンションがある道を歩くのは久しぶりである。
およそ十年振りくらいかもしれない。ひっそりと佇んでいた本屋も、子ども達の秘密基地だった空き地も、寂れていた公園も、気付けば思い出と共になくなっていた。
しばらく歩いていると、地元以外でも有名な猫屋敷が目に入る。住んでいるおばあさんが野良猫にエサをやるので、数十匹の野良猫が集まっている。私はそこが昔から怖かった。
ふと、庭に高校生ほどの女の子がいることに気付く。
足下には陽の光を浴びて、毛並みが青く見える猫がいた。
郁さんみたいだなと、無性におかしくなってしまった。
「行くよ。紫陽花」
紫陽花と呼ばれた猫はか細く「みぃ」と鳴いて、家から立ち去る女の子の数歩後ろを付いていく。女の子とすれ違う瞬間、目と目が会った。鋭い目つきにぞわっとした。
「そんなところでどうしたの?」
兄さんだ。声をかけられて、後ろを振り向く。
手には控えめな彩りの花束が携えられていた。
「いや、べつに。なんでもない」
歩みを強めて、マンションへと向かった。
* *
一歩、一歩、階段を上る。
心臓が高鳴る。足取りが加速する。息が弾む。秋の気配を感じた。歩いて、走って、歩いて。エレベーターを使わないのは、あの日のことをしっかりとこの足で思い出したいからだ。力強く大地を踏みしめる。もう少し、あと少し。
やがて、屋上へと出る扉の前に辿り着く。
「鍵、かかってないんだね」
未遂とはいえ、ここで飛び降りがあったのに対策はされていないのか。私の命の対価はそれだけなのだと思うと、不思議と哀しさよりおかしさの方が勝ってしまう。
「昔は自由に出入りできなくなってたみたいだよ」
「そうなんだ」
私の左手が錆びて固くなった扉を開けて、兄さんの右手が重い扉を閉めた。ほんのりと温かい風が体を包み込む。
屋上庭園を利用する人も少ないのだろうか。植えられている花や飾られている植物が極端に少ないような気がした。
「ヒサギって植物はとても生命力の強い木なんだ」
「ヒサギ?」
「伐採や火災で森林が破壊されると、一気に繁殖する」
兄さんの言いたいことがよく分からなかった。
「それってアキと似てるなと思ってね」
「私と?」
「生命力が高くて、崩れてからの再生が強い」
あ。と、顔に熱が灯るのが驚くほど感じる。
「ここからがアキの、新しい人生の始まりだよ」
ふと、下の階からピアノ音が聞こえてきた。
『きらきら星』だ。透くんが弾いているのだろうか。
初めて聞いた時よりもだいぶ上手くなっている。けれど、なぜか相変わらずピアノの音は『きーらーきーらーひーかーるー』の部分だけだった。一節までは弾けるようになったけれど、やはり精神的にどこかつっかかりがあるのだろうか。
もしくは私の為だなんて、見当違いなことを思ってみる。
きらきら光っているのは夜空の星ではなく……、そこから先は思うだけで恥ずかしくなり、顔に熱がこもっていく。
熱量を冷まそうと、今までの記憶を思い出そうとする。
大勢の人を犠牲にしてきた。この屋上から飛び降りた。病室で兄さんと再会した。明里先生と話をした。郁さんとギターの練習をした。中学校の同窓会で梓の傷に触れた。社会人になってエッセイを書くことになった。成長した透くんに感謝された。そしてまた、私が終わった場所に戻ってきた。
あきちゃん。
千歳さん。
ちとせっち。
あき。
あーちゃん。
アキ。
色んな人が、色んな名前で私を呼んだ。
『わかってないなぁ。名前を呼ばれる大事さに』
今なら、梶さんの言葉の意味が理解できる。
だから、
「ねぇ、兄さん。私の名前を呼んで」
「え、どうして?」
「いいから。なんでも」
「……アキ」
「違うよ。私の、名前、だよ」
兄さんはしばらく考え込んだ後、小さく「あぁ」と頷いて私の顔を眺める。少し照れくさかった。
「彰子」
柔らかな声色と表情が、私の心と耳をくすぐる。
それが後にも先にも、兄さんが私を「彰子」と呼んでくれた、たった一度だけの瞬間であった。
名前を呼ばれた瞬間、改めて透明でいたくないと思えた。
「うん。ありがと」
兄さんが花束を花壇に添える。
何もかもが解決したわけではない。むしろ、まだ始まりにさえ立っていないのだ。私の償いも、何もかも。
「ねぇ、なんでそんなに私を大切にしてくれるの?」
兄さんが少しだけ考え込む。やがて、
「伯母さんから頼まれたからだよ」
「お母さんに?」
「うん。アキの事を見守ってあげてほしいって」
「……そう」
本当はどこか期待をしていた。私のことがすきだから、とか。そんな、淡い理由を。でも実際はお母さんに頼まれたから。従妹だから。兄さんは私の事を友愛のような感情で接していたのかと思うと、心が酷く苦しくなる。
「というのは建前で、本当は君に救われたからだよ」
「私に?」
照れたのか、兄さんが口をもごもごとさせる。
「病院でアキと会った時、千羽鶴の上にいたよね」
「うん」
「その様子がとても綺麗で、救われたんだ」
「……何かあったの?」
兄さんの横顔をうかがう。感傷的な雰囲気を纏っていた。
「色々あったんだ。うん。本当に、色んなことが」
言い渋ってるわけではなさそうだった。
けれど、踏み込んで聞こうとは思わなかった。いつか、兄さんの口から自然とこぼれるのを待つことにしよう。
私は色んな人と出会って救われた。兄さんと、郁さんと、明里先生と、透くんと、莉緒さんと。本当に、色んな人と。
色んなことがあって、救われたのだ。
私はこれから、どんな荒波に飲み込まれようとも、どんな息苦しさが襲おうとも、必死に生きて、懸命に抗って、傷付けてしまった人達に、償いをしなければならない。
『不思議だ ひとは こんなにも時が 過ぎた後で全く違う方向から 嵐のように 救われることがある』
兄さんから借りた漫画にそんな一文があった。
まさにその通りだと感じた。
ふと、花束の花が風に吹かれて、繊細に落花していく。
無数に舞う一つを掴もうと、手すりから身を乗り出す。
その時だ。
兄さんが私の袖を引っ張った。
「……なに?」
「いや、落ちると危ないから」
心配してくれる兄さんが妙におかしくて、無性に愛おしくなる。私はその愛おしさをこれから先、いくつもの年月が過ぎても、おばあちゃんになっても、忘れないでいたい。
「落ちないよ。大丈夫。うん。ありがと」
振り返ると季節は、秋の中心に差し掛かろうとしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます
感想やご指摘などがありましたら宜しくお願い致します




