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あれから数日、ヴェルベットはただただ、自身を追い込むかのように仕事に没頭した。
エリスやアルミラの言葉にも耳を貸さずに、わき目も振らずに。
自分の中にあった浅はかな希望を、打ち消すように。
夜、月の照らす中、ヴェルベットは復讐を果たす。
相手は刑期を終えた囚人。殺人の容疑もあったが、結局証明できずに薬物所持で数年服役したのだ。
その男が再び罪を犯したために、彼女は男の命でもって贖わさせた。
彼女は男の死体を前に、唇をかむ。
何故だろう。自分の存在が嫌に空しく、悲しいと思えてしまう。
浮かんでくるのは、彼の顔。そして、心を穏やかにさせるあの音色。
自分の在り方がわからなくなる。ヴェルベット・ヴェストパーレ、ヴェルベット・ローズ、ヴェルベット・ローゼルテシア、そして『VENGEANCE』。
彼女の中で今まで一致していた、個々の思惑は急激に不一致を示すようになっていた。
女としてのヴェルベットの個性が、『VENGEANCE』としての彼女の意識を上回り、主張をしている。
『VENGEANCE』としてのアイデンティティーの崩壊を、ヴェルベットは感じていた。
忘れるな、あの痛みを。奪われたあの痛みを。
忘れてもいいのよ。あなたはもう、忘れるべきよ。
二つの声が、彼女の脳裏に響き囁く。
復讐の女神は絶叫した。声すら出ずに、涙を目に浮かべて、深夜の月を見上げる。
月の光はただ彼女を照らすだけで、彼女の問いに答えることはない。
翌日。昼過ぎに館に客が来た。その客は、ジキストール・ウォーデン。
エリスに断るように告げたにもかかわらず、彼女は彼を通した。親友は心配げな顔で親友を見ると、ジキストールを残して、部屋を去った。
ジキストールはヴェルベットのいるであろう方向に礼をすると、手前の椅子に座る。
ヴェルベットは何も言わなかったし、彼も言葉を口にしなかった。
沈黙が部屋の中を支配した。太陽の位置が徐々に変わり、部屋の影の向きが変わる。その間も、二人の間には沈黙があった。永遠のような、刹那のような、時間の感覚さえもマヒした部屋の中では、ただ二人の穏やかな息遣いのみが聞こえた。
夕日に空が染まる時になって、ついに、ジキストールは口を開いた。
「ヴェルベットさん、なぜあなたはそんなにも泣きそうなのです?」
ヴェルベットは驚いた。自身の目には涙は浮かんではいないのに、彼は目が見えるようにそう言ったからだ。まるで、崩壊する彼女の内面を見透かしたように。
「私は泣きませんわ」
ヴェルベットは気丈にいう。だが、ジキストールの顔はそれを信じてはいなかった。
「私がどうして、あの時あなたから離れたのか、聞かないのですか?」
この前、自分がいなくなった時のことを、ヴェルベットは聞いた。その答えを、彼女は聞きたくもあったし、聞きたくなかった。相反する「自分」が彼女の中で騒ぐ。
「あなたは、迷っている。それがなんなのかは、わたしにもわかりません」
ジキストールは穏やかに言った。優しい口調で、美しく響くその声で。
「私は目が見えませんが、その分、人を見ることに関しては、健常者以上だと思っています。目が見えず、家族以外からは嗤われて生きてきましたから、人の醜い部分は多く経験してきました」
「・・・・・・・・・・・・・」
「ですが、同時に人間の素晴らしさも同じくらい、経験しました。世の中は、厳しくもやさしくもある。それを、私は実感しています。私はあなたのような人に今まで会ったことはありませんでした。あなたほどに、魅力を感じた人は」
ジキストールは初めて会った時のことを思い出す。
「音を聞いていると、あなたの踊る姿が思い浮かびます。想像の中のあなたは女神のような人です。ですが、たとえそうでないとしても、私の中にあるこの気持ちは、偽りではありません」
盲目の青年は、ヴェルベットに懸命に自身の思いを訴える。自分と同じように、彼も自分を想ってくれている、という事実は、彼女にとって喜びで哀しみであった。
胸のざわめきはより大きくなる。ヴェルベットの中にノイズが奔った。
ヴェルベットは、浮かべてはいなかったはずの滴を、双眸より零した。涙を流しながら、ヴェルベットは口を開く。
「私は、あなたの思うような人間じゃない!」
激昂するヴェルベット。それは、やり場のない感情。抑えることができなくなった、彼女の感情であった。
「私は幸せになる権利なんてない!私は、私は・・・・・・・・・・」
「誰にでも、その権利はあります」
「ないわ」
ジキストールを、涙にぬれた目でヴェルベットは見る。ぼやけた目で、青年を見る。すがるような瞳。だが、その中には拒絶が混じっていた。
「私の本当の顔は『VENGEANCE』、あなたも知っているでしょう?私は、殺人鬼。人殺し。復讐者。人の命を何の迷いなく奪える女。そんな私が幸せになれる?権利がある?」
ヴェルベットは静かな口調で言う。
「それは間違いよ。私は復讐に身を奉げたの。だから、だから」
「あなたは、強い」
彼は静かに言う。ヴェルベットの衝撃的な告白に驚くそぶりもせずに、穏やかに。
「だからこそ、そうやって一人で何もかもを背負いこんでしまう。ですが、全てを背負うなんて、人間には無理です」
青年は立ち上がり、ヴェルベットの正面に向かう。目が見えない彼は、しかし迷うことなく彼女の前に立った。
「だから、私にあなたを支えさせてくださいませんか?」
「!」
ヴェルベットの頭を、青年の両腕が包み込む。
子供のころ、父が彼女を抱いたように、愛おしむように、慈しむように、優しく。
「たとえ、どんな過去があろうとも、どんな罪を背負っていようと、あなたを支え、幸福も痛みもすべて分かち合いたい」
「・・・・・・・・まだ、少ししかあったことのない人間なのに?こんな、危険な女なのに?」
「見る目はあるつもりですよ」
皮肉を言うヴェルベットに、ジキストールは静かに言った。
「見えないくせに」
「心眼、ですよ」
そう言って彼女の頭から腕を離す。ヴェルベットは立ち上がり、彼の頬に手を当てる。
愛おしむように、その頬を撫でた。
「私は、あなたを殺すかもしれない。あなたを巻き込むかもしれない。あなたを裏切るかもしれない。それでも、あなたは私を愛するの?」
「ええ、永久に」
「私はあなたを忘れるかもしれない」
「それでも、私の思いは永遠に」
「すごいセリフ。恋愛小説でも、そんな気障なセリフ、ないわよ」
ヴェルベットは苦笑すると、彼の唇にキスをした。
今まで、彼女がキスをしてきたのはすべて、打算からだった。だが、今この時だけは、純粋な思いからであった。
そのキスは、今までと何もかもが違った。言葉にできない思いが、彼女の中に過ぎっては消えた。
「あなたを、手に入れたい」
彼がそう言うと、ヴェルベットは笑って言った。
「バラの花には棘があるのよ」
「その棘すらも、愛おしい」
彼は情熱的なキスを、ヴェルベットにした。そして、夕闇が迫る部屋の壁に彼女を押し付ける。
そして。
二つの影が交差した。
翌日の昼過ぎ。ある噂が王都を走った。今話題のヴェルベット・ヴェストパーレの突然の婚約である。
相手は盲目のハープ弾き、ジキストール・ウォーデン。最近、夜会に出たことで有名になってきた人物であった。
今を時めくヴェルベットの恋愛に、人々は食いつく。挫折と栄光のストーリーなど、多くの偽りを含んだ話や歌が王都中に広がった。
当の本人たちは、そんな噂にも話にも左右されずに、穏やかに笑っていた。
ヴェルベット・ヴェストパーレの顔は、まさに咲き誇る薔薇のように美しかった、とエリスは言う。




