第13話 水のない土地に、雨だけ降らせても救えない
第2部 砂漠再生編
第13話です。
第1部「海洋異変編」では、澪たちはアビス・リヴァイアを討伐するのではなく、六理共鳴によって黒い種の芯を隔離し、海底循環装置を仮復旧させました。
そして港の人々自身が、排水門、浄化槽、隔離槽、海の異常を共同で記録し、監視し、修復していく最初の一歩を踏み出しました。
その結果、世界は巻き戻されず、エターナルが現れない朝を迎えました。
しかし、世界の異変は海だけではありません。
次に示されたのは、《内陸砂漠ヘックス:水循環断絶》。
地下水位の低下。
食料供給網の不安定化。
増え続ける難民。
そして、乾いた大地の下で進行する、新たな虚無侵食。
第2部では、澪たちは海から離れ、水の届かなくなった砂漠へ向かいます。
「一番大事なのは、毎日記録することです」
神代澪は、灯台地下の制御盤を前にして言った。
海洋異変から三日。
港には、まだあちこちに傷跡が残っていた。
壊れた倉庫。
歪んだ桟橋。
黒い水が通った跡。
応急補修された排水門。
けれど、以前とは違う音も聞こえている。
工具を叩く音。
台帳を読み上げる声。
灯台の鐘を試す音。
漁師と工業都市の技術者が、互いに文句を言いながら同じ弁を確認する声。
港は、壊れたまま動き始めていた。
澪の前では、工業都市の技術士トマと、漁業国家沿岸守備隊のガルドが並んで制御盤を見ている。
並んではいる。
ただし、肩が触れない程度には距離を空けていた。
「送気圧、隔離槽圧、第二浄化槽の流量」
澪は制御盤の表示を指さす。
「この三つは必ず確認してください。どれか一つだけ正常でも駄目です。海底循環は全部つながっています」
トマが腕を組む。
「送気圧が下がれば、先に工業都市側の技術班へ知らせる」
ガルドがすぐに口を挟む。
「海の変化も確認してからだ。数値が正常でも魚が浮けば異常だろう」
「だから両方記録すると決めただろう」
「お前たちは数字を見ると安心しすぎる」
「お前たちは魚が一匹跳ねただけで警鐘を鳴らしそうだ」
「鳴らすべき時に鳴らさなかった結果が、あの怪物だ」
「アビス・リヴァイアは魚ではない!」
「二人とも」
澪が呼ぶと、ガルドとトマは同時に口を閉じた。
「喧嘩するなとは言いません」
「よいのか?」
ガルドが意外そうに聞く。
「意見が違うのは当然です。でも、相手の報告を消さないでください。数値も、魚の変化も、潮の匂いも、全部同じ台帳に残す」
トマが少し不満そうに言う。
「匂いを記録する項目まで本当に必要なのか」
「必要です」
澪ではなく、フィリアが答えた。
彼女の肩には、青い精霊ネレイアが座っている。
「水の変化は、数字になる前に匂いや生き物の動きに現れることがあります。どちらか一方だけでは、また気づくのが遅れます」
トマはネレイアを見て、それ以上は反論しなかった。
海洋異変の夜、フィリアとネレイアがアビス・リヴァイアの声を聞いたことは、港の多くの人が知っている。
まだ信じられない者もいる。
だが、無視できる者はいなかった。
「あと、異常が出たら単独で処理しないこと」
ミルカが制御盤の横から顔を出した。
「前にも言ったけど、勝手に弁を閉じない。誰が何時にどこを触ったか、絶対に残して。応急処置を隠すと、次に直す人が死ぬから」
「死ぬとまで言うのか」
ガルドが眉をひそめる。
「構造を甘く見る人には、それくらい言った方が伝わる」
ミルカは真顔だった。
トマは深く頷く。
「それについては全面的に同意する」
「工業都市のやつと意見が合う日が来るとはな」
「お前に言われたくない」
また始まりそうになる二人を、港長の咳払いが止めた。
「話はそれくらいにしておけ。主調律者殿たちは、もう出発せねばならん」
灯台の入口には、港長が椅子に座っていた。
足の怪我はまだ治っていない。
だが、以前より顔色はよくなっている。
その膝には、正式な文書へ書き直された共同調律仮協定が置かれていた。
紙の端には、港長、ガルド、トマ、住民代表の名が並んでいる。
完全な条約ではない。
法的な強制力も弱い。
それでも、最初の夜に木板へ刻まれた約束は、消えずに残った。
澪は制御盤から離れ、港長へ頭を下げた。
「本当に、任せて大丈夫ですか」
港長は少し笑った。
「三日間で何度同じことを聞くのだ」
「だって、隔離槽にはまだ黒い種の芯が残っています。圧力も完全には安定していないし、送気主管も仮修理です」
「だからこそ、我々が見続ける」
港長は共同調律仮協定へ手を置いた。
「主調律者殿たちがすべてを直すまで残れば、この港はまた誰かに救われるのを待つ場所になる」
澪は黙った。
それは、第1部で澪たちがたどり着いた答えだった。
世界が自分で修復を始めなければ、エターナルは再び現れる。
澪たちが全部を解決することは、必ずしも世界を救うことにはならない。
「心配するなとは言わん」
港長は続けた。
「心配だから、鐘を見る。海を見る。数字を見る。互いを疑う。その疑いを、武器ではなく台帳へ残す」
ルシェリアが静かに微笑んだ。
「現実的な調和ですね」
「美しい和解など、年寄りの私でも信じておらん」
港長は苦笑する。
「だが、同じ港で生きる以上、壊れない程度には話さねばならん」
澪は、ようやく頷いた。
「わかりました」
心配は消えない。
だが、それでも任せる。
それも主調律者に必要なことなのだろう。
港の外では、アオイ、セラフィナ、ライカが出発の準備をしていた。
といっても、荷物の大半を確認しているのはセラフィナで、ライカは積み上げられた袋を興味深そうに覗き込み、アオイはその二人を見守っている。
「これは何?」
ライカが小さな布袋を持ち上げた。
「携帯用の乾燥食です」
セラフィナが答える。
「おいしい?」
「味ではなく、保存性を優先したものです」
「おいしくないんだ」
「必要な栄養はあります」
「おいしくないんだ」
「二度言わなくても聞こえています」
澪が近づくと、ライカが袋を差し出してきた。
「ミオ、食べてみる?」
「出発前から非常食を減らさないで」
「一個くらい」
「砂漠で食料が足りなくなったら、その一個を思い出すよ」
ライカは素直に袋を戻した。
「じゃあ我慢する」
ミルカが荷車の車輪を確認しながら言う。
「水筒の封も確認した?」
「全部確認しました」
セラフィナが答える。
「携帯水槽三基。個人用水筒七本。浄水石二つ。布製集水膜。簡易遮光布。塩分補給材」
「完璧」
「当然です」
澪はその荷物を見て、少しだけ気が重くなった。
次の目的地は、内陸砂漠ヘックス。
水循環断絶。
その表示を見てから、澪は自分の知っているゲーム版の情報を何度も思い返した。
砂漠編の舞台は、《ラハム乾燥圏》。
かつては大河と湖があり、複数の都市国家を支える穀倉地帯だった。
だが、上流の取水、地下水の過剰揚水、灌漑水路の蒸発、塩類集積、森林の消失によって、土地は少しずつ乾いていった。
都市は深い井戸を掘る。
地下水位が下がる。
さらに深い井戸を掘る。
大地が沈む。
浅い井戸が枯れる。
農村が捨てられる。
人々が都市へ流れる。
都市の水需要が増える。
また地下水を汲み上げる。
閉じた悪循環。
ゲーム版では、そこへ《渇きの巨人》と呼ばれる虚無体が現れる。
プレイヤーは水源を奪う怪物を倒し、古代水路を再起動し、砂漠都市を救う。
少なくとも、表向きのイベントはそうだった。
だが、海洋異変で澪は学んだ。
怪物が原因とは限らない。
むしろ、文明が壊した循環の結果として怪物が現れることの方が多い。
「ミオさん」
アオイが澪の顔を覗き込む。
「また、難しい顔をしています」
「砂漠編の仕様を思い出してた」
「仕様書通りにはならないかもしれませんね」
「うん」
アオイの言葉は、もう責めるものではなかった。
ただの確認だった。
澪は頷く。
「だから、最初から決めつけない。渇きの巨人が出ても、いきなり倒さない。水がないからといって、すぐに水を増やせばいいとも考えない」
ライカが首を傾げる。
「水がないなら、水を持っていけばいいんじゃないの?」
「それで救える人もいる」
澪は答えた。
「でも、一度水を配って終わりじゃない。どこから持ってくるのか、誰が運ぶのか、配った後も暮らせるのか。そこまで考えないと、また足りなくなる」
フィリアが港の海を振り返った。
「海の水を、砂漠へ運ぶことはできませんか」
「そのままでは塩が多すぎる。真水に変える設備があれば使えるけど、運ぶにはエネルギーも必要になる」
ミルカが言う。
「古代水路か地下水脈が生きてればいいけどね。構造図を見るまでは何とも言えない」
セラフィナは荷物の紐を結び直した。
「まずは現地の秩序を確認すべきです。水が不足している場所では、配分の規則が争いを左右します」
ルシェリアが穏やかに付け加える。
「そして、水を持つ者と持たない者の間には、すでに深い不信があるでしょう」
アオイは盾の紐を締める。
「なら、今度も話を聞くところからですね」
「うん」
澪は六人を見た。
海洋異変を越えた六人。
まだ完全に信頼し合っているわけではない。
澪が彼女たちをキャラクターとして見ていた事実も消えてはいない。
残響も残っている。
それでも、最初に出会った時とは違う。
澪は彼女たちを役割だけでは見なくなった。
彼女たちもまた、自分の理を単なる種族特性としてではなく、何のために使うかを考え始めている。
「出発しましょう」
セラフィナが言った。
澪は港を振り返る。
灯台の鐘。
修理中の桟橋。
台帳を運ぶ人々。
排水門へ向かう混成補修班。
そして、少しずつ青を取り戻し始めた海。
「行ってきます」
誰に向けた言葉かは、自分でもわからなかった。
けれど、港長が杖を上げた。
ガルドは不器用に片手を上げる。
トマは制御盤から目を離さずに言った。
「次に戻る時までには、仮修理を本修理にしておく」
「無茶な工期を言わないでください」
ミルカが即座に返す。
「お前にだけは言われたくない」
「私は必要だから無茶するの」
「現場を壊す技術者の典型だぞ」
「壊してない!」
澪たちは、笑いながら港をあとにした。
***
内陸へ向かう古代調律門は、港から半日の距離にあった。
六角形の石柱が並ぶ、古い転送施設。
ゲーム版では、各ヘックス間を移動するためのファストトラベル地点だった。
一度起動した場所なら、短い演出のあと次の地域へ移動できる。
プレイヤーにとっては便利な移動機能。
だが実際に使うとなると、澪は少し不安だった。
「これ、本当に安全なんだよね」
澪は石柱の中央に立ちながら言った。
ミルカが制御盤を調べる。
「構造上は」
「その言い方、事故が起きる前の技術者みたいだからやめて」
「壊れてはいないよ。たぶん」
「たぶんもやめて」
ライカは楽しそうに石柱の間を歩き回っている。
「転送ってどんな感じ? 速い? 景色見える?」
「ゲームでは光に包まれて、一瞬で到着」
澪が答える。
「じゃあ速いんだ!」
「でも第2話で転移酔いした」
「……酔うの?」
ライカの尻尾が止まった。
ルシェリアが小さく笑う。
「急に不安になりましたね」
「私は乗り物酔いしないけど、転送酔いはわからない」
セラフィナが全員を石柱の内側へ誘導する。
「不安を述べても移動手段は変わりません。指定位置へ」
「セラフィナ、遠足の先生みたい」
ライカが言う。
「誰が先生ですか」
「人数確認するところ」
「必要な秩序です」
澪は調律核を制御盤へ触れさせた。
青白い線が石柱を巡る。
《目的地を確認》
《内陸砂漠ヘックス》
《ラハム乾燥圏・西端調律門》
《警告:現地環境不安定》
《警告:水資源不足》
《警告:転送先管理者応答なし》
最後の表示に、澪の指が止まる。
「転送先管理者応答なし……」
アオイが盾へ手を伸ばす。
「危険ですか」
「わからない。ゲームでは管理者なんて表示、なかった」
また仕様書にない。
澪は一瞬迷った。
だが、目的地を変えることはできない。
砂漠ヘックスで水循環断絶が進んでいる。
調律門が使えるうちに入るべきだ。
「行く」
澪は決めた。
「到着したら、すぐ周囲確認。敵がいても先に状況を見る」
六人が頷く。
調律門の光が強くなる。
青白い光が足元からせり上がり、澪たちの身体を包む。
一瞬、上下の感覚が消えた。
海の匂いも、潮風も、港の音も消える。
代わりに、熱が来た。
「暑っ……!」
澪の声が途中で途切れる。
光が消えた。
次の瞬間、七人は乾いた石の広場に立っていた。
空は白かった。
青ではない。
あまりにも強い日差しに、空そのものの色が焼けて薄くなっている。
地面はひび割れ、石柱の半分は砂に埋まっていた。
風が吹く。
涼しさはない。
熱い砂が頬へ当たる。
海辺で湿気を含んでいた服が、一瞬で乾いていくような感覚。
澪は反射的に口元を覆った。
「何これ……空気まで熱い」
セラフィナがすぐに遮光布を広げる。
「日差しを避けてください。水分を失います」
フィリアは周囲を見回した。
彼女の顔が、すぐに曇る。
「精霊の声が……少ないです」
ネレイアも、肩の上で不安そうに揺れている。
海の精霊にとって、この乾いた空気はつらいのかもしれない。
ミルカは調律門の制御盤を調べた。
「転送先管理者がいない理由、わかった」
「何?」
「施設が捨てられてる。少なくとも数か月は、まともに整備されてない」
石柱の根元には、空の水壺が転がっていた。
破れた布。
壊れた荷車。
焚き火の跡。
人がいた痕跡はある。
だが今は、誰もいない。
ライカが鼻を動かす。
「人の匂い、あるよ」
「どこ?」
「向こう。たくさん。でも、動いてる。こっちから離れていく感じ」
ライカの指した先には、砂に埋もれかけた道があった。
その向こうに、何かが連なっている。
人影。
荷車。
家畜。
大勢の人々が、列になって砂漠を歩いていた。
「難民……」
澪は呟いた。
世界地図に表示されていた、《難民移動:増加》。
数字で見た時には、ただの状況表示だった。
けれど今、目の前には何百人もの人がいる。
荷車に乗せられた老人。
水壺を抱えた子ども。
痩せた家畜。
布で顔を覆った人々。
彼らは、どこかへ向かっているのではない。
どこかから逃げている。
澪たちは調律門を離れ、人々の列へ近づいた。
最初に気づいたのは、杖を持った男だった。
彼は澪たちの装備を見ると、警戒して列の前へ立った。
「都市の徴水隊か」
「徴水隊?」
澪が聞き返すと、男の目が険しくなる。
「しらばくれるな。井戸の使用税を取りに来たのだろう」
「違います」
セラフィナが一歩前へ出る。
その背中の翼と光剣を見て、人々の間にざわめきが広がった。
「天使族……」
「軍の者か?」
「水を奪いに来たのか?」
恐怖が、一気に広がる。
セラフィナはすぐに光剣を消した。
「敵対の意思はありません」
澪も両手を見せる。
「私たちは、水循環の異常を調べに来ました。近くに集落か都市はありますか」
男はすぐには答えなかった。
澪の胸元の調律核を見て、さらに警戒を深める。
「その印……調律者か」
「はい」
「調律者が、今さら何をしに来た」
声には、怒りがあった。
「井戸が枯れる前に来るべきだった。畑が塩で白くなる前に。子どもが水を求めて死ぬ前に」
澪は何も言えなかった。
知らなかった。
この世界へ来たばかりだった。
そう説明することはできる。
だが、男の怒りに対する答えにはならない。
フィリアが静かに尋ねた。
「どこから来たのですか」
「ハディル村だ」
男は答えた。
「三代使ってきた井戸が、昨日枯れた」
列の中から、年老いた女性が言う。
「枯れたんじゃない。都市に吸われたんだよ」
別の男が吐き捨てる。
「オルドアの深井戸だ。地下の水を全部持っていった」
「都市は難民を入れない」
「水が足りないと言って門を閉じた」
「だから北の配給所へ行くしかない」
「配給所まで三日だぞ」
「水は二日分しかない」
人々の声が重なる。
澪は列を見る。
水壺の数が少ない。
しかも、多くは半分も入っていない。
砂漠の日差しの中を、これで三日歩く。
無理だ。
「私たちの水を分けます」
アオイが即座に言った。
セラフィナがアオイを見る。
反対するためではない。
全体量を計算している目だった。
「携帯水槽三基。全員へ均等に配れば、一人あたりはごく少量になります」
「それでも、ないよりは」
「はい。ただし、私たち自身の移動分も残す必要があります」
避難民の男が首を振る。
「いらん」
「でも」
アオイが言いかける。
「七人分の水を数百人で分けても、喉を濡らして終わりだ。次の日にはまた足りなくなる」
男の言葉は冷たかった。
だが、正しい。
水を持ってきた。
なら配ればいい。
澪も一瞬、そう考えた。
けれど、それだけでは誰も救えない。
必要なのは、次の水。
その次の水。
人々が歩き続けなくても済む水だ。
「村の井戸を見せてください」
澪は言った。
男の顔が険しくなる。
「枯れたと言っただろう」
「本当に水がなくなったのか、別の場所へ流れたのかを確かめたい」
「同じことだ」
「違います」
ミルカが前へ出る。
「地下水位が下がっただけなら、深く掘れば一時的には出る。でも地下に空洞ができていたり、水脈が別方向へ引かれていたり、塩水が上がってきているなら、さらに掘ると悪化する」
避難民たちがざわめく。
「塩水?」
「畑が白くなったのは、それか」
男がミルカを見る。
「村へ戻れというのか」
「見るだけ」
ミルカは言った。
「直せるとはまだ言わない。でも、原因を見ないで都市へ行っても、次の場所でまた水が足りなくなる」
男はしばらく迷っていた。
その時、列の後方から子どもの泣き声がした。
「水……」
小さな少女が、母親に抱かれている。
唇は乾き、顔が赤い。
母親が空になった水筒を何度も傾けている。
一滴も出ない。
アオイがすぐに自分の水筒を持って近づいた。
「少しずつ飲ませてください。一度にたくさんではなく」
母親はためらった。
だが、少女の顔を見て水筒を受け取る。
少女は、ほんの少し水を口に含んだ。
それだけで必死に飲み込む。
澪は、その光景から目を逸らせなかった。
一人を助けることはできる。
今ここにある水を渡せばいい。
けれど、列の全員へ同じことはできない。
そして、その一人も、明日また水が必要になる。
水のない土地で、善意だけでは足りない。
だからといって、目の前の子どもへ水を渡さない理由にもならない。
両方が必要なのだ。
今をつなぐ水。
次を作る構造。
「村へ行きます」
澪は言った。
「水も、配れる分は配ります。でも、全員で戻る必要はありません。動ける人だけ案内してください。残りの人たちは日陰を作って休ませる」
セラフィナがすぐに周囲を見る。
「調律門の石柱と遮光布を使えば、簡易避難所を作れます」
ルシェリアが言う。
「風を整えれば、熱気を少し外へ逃がせます。ただし、水分の蒸発を増やさない程度に弱く」
フィリアはネレイアを見た。
「この子なら、空気中のわずかな水を集められるかもしれません。多くは無理でも、布を湿らせる程度なら」
ライカが耳を動かす。
「近くに動物の匂いがある。生きてるなら、水場があるかも。探してみる!」
ミルカが荷車の工具を確認する。
「井戸を見るなら、測深縄と地盤杭が必要。持ってきてよかった」
アオイは水筒を少女の母親へ渡したまま、澪を見る。
「私はここに残って、人々を守りますか」
澪は少し考えた。
三人しか前線に出られない。
新しい土地。
未知の危険。
枯れた井戸。
砂漠での移動。
ここで最初の編成を決める必要がある。
今回は、戦闘だけで考えてはいけない。
井戸と地下構造を見るミルカ。
水と生命の声を聞くフィリア。
広い砂漠で水場と安全路を探すライカ。
「村へ行く前線は、ミルカ、フィリア、ライカ」
三人が澪を見る。
「アオイ、ルシェリア、セラフィナは、ここで避難所を作って。人々を休ませながら、都市や配給所から追手が来ないか警戒して」
アオイはすぐに頷いた。
「わかりました」
ルシェリアも穏やかに答える。
「この人数を落ち着かせるには、調和の役目が必要でしょう」
セラフィナは周囲の配置を見ながら言う。
「水の配分規則も必要です。無秩序に配れば、奪い合いになります」
避難民の男が、澪たちを見回す。
「本当に、村を見るつもりか」
「はい」
「戻っても、何もないぞ」
「何もないのかを確認します」
男は苦い顔をした。
「変な調律者だ」
「よく言われそうな気はします」
澪が答えると、ライカが首を傾げる。
「まだそんなに言われてないよ?」
「今後言われる予感がするの」
ほんの少しだけ、男の表情が緩んだ。
彼は杖を握り直す。
「俺が案内する。名はサディクだ」
「神代澪です」
「知っている。さっき名乗った」
「そうでした」
疲労と暑さで、少し頭が回っていない。
ミルカが呆れた顔をする。
「主調律者、砂漠に着いて早々だめそう」
「暑さに弱いの」
「寒さにも強くなさそう」
「普通の室温が好き」
「役に立たない情報だね」
ライカが楽しそうに笑う。
フィリアも小さく笑った。
その笑顔に、避難民の何人かが少しだけ警戒を緩めた。
***
ハディル村は、調律門から歩いて一時間ほどの場所にあった。
かつては畑だったらしい場所を抜ける。
地面には、規則正しく土を盛った跡が残っている。
だが作物はない。
枯れた茎。
砕けた水路。
白い粉に覆われた地面。
澪はしゃがみ込み、白い土へ触れようとした。
「触らない方がいい」
ミルカが止める。
「塩?」
「たぶん」
ミルカは布越しに土を少量取り、指で崩す。
「灌漑した水が地表近くで蒸発して、塩だけ残った。地下水位の変化もありそう」
フィリアが土の上に手をかざす。
精霊の光は弱い。
「土が、眠っているみたいです」
「死んでるんじゃなくて?」
澪が聞く。
「完全には死んでいません。でも、水も、根も、小さな命の声もほとんどありません」
土の中の微生物。
植物の根。
虫。
それらが失われれば、土は水を抱えられなくなる。
雨が降っても染み込まず、表面を流れてしまう。
乾けば硬くなる。
また雨が降っても入らない。
「水がないから土が死んだ」
澪は呟く。
「でも、土が死んだから水を抱えられない」
ミルカが頷く。
「悪循環だね」
サディクが振り返る。
「昔は、雨が降れば畑に水が残った。今は一気に流れて、低い場所に塩の池ができる」
「雨は降るんですか」
「年に数度だ。昔より不安定になった。降らない年もある。降る時は、村を流すほど降る」
ライカが不思議そうに言う。
「水がないのに、村を流すの?」
「乾いた土地は、水を受け止められない」
澪が答えた。
「だから一度に降ると、染み込まずに全部流れる」
ライカは地面を見た。
「もったいない」
「うん。本当に」
雨が少ないことだけが問題ではない。
降った水を受け止め、蓄え、ゆっくり地中へ戻す構造が失われている。
砂漠へ雨を降らせればいい。
ゲームや物語なら、そう考えやすい。
雨の魔法。
天候制御。
巨大な貯水池。
遠くから引く水路。
だが、土が死に、水路が壊れ、管理が崩れたまま大量の水だけを入れれば、洪水か塩害を起こす。
水のない土地に、雨だけ降らせても救えない。
受け止める土が必要だ。
溜める場所が必要だ。
使いすぎない規則が必要だ。
そして、次の雨まで生き延びる水が必要だ。
村の入口には、空の家が並んでいた。
扉は開いたまま。
窓には布が残り、庭には割れた壺が転がっている。
生活だけが、急に抜け落ちたようだった。
中央広場に、大きな井戸があった。
石積みの円形井戸。
周囲には、何本もの縄が垂れている。
だが、底から水音はしない。
「これです」
サディクが言った。
「昨日までは、泥混じりでも少しは汲めた。今朝、完全に消えた」
ミルカが測深縄を井戸へ下ろす。
縄が、どんどん入っていく。
十メートル。
二十メートル。
三十メートル。
それでも水へ触れない。
「深い……」
澪が井戸を覗き込む。
暗い。
底が見えない。
ライカが鼻を動かす。
「水の匂い、する」
「本当?」
「でも下じゃない。横」
ミルカが顔を上げる。
「横?」
ライカは井戸の東側を指した。
「こっちへ流れてる。遠いけど、湿った匂いがある」
サディクが険しい顔になる。
「東には、オルドアしかない」
都市国家オルドア。
深井戸によって周辺の地下水を汲み上げていると、避難民たちが疑っている都市。
ミルカは井戸の壁へ地盤杭を当てた。
軽く叩く。
乾いた音が返る。
場所を変えて、もう一度。
今度は、少し低い音。
さらに東側。
ごん、と。
空洞を叩いたような音がした。
ミルカの表情が変わる。
「まずい」
「何が?」
澪が聞く。
「井戸が枯れただけじゃない。地下が空洞化してる」
サディクが息を呑む。
「空洞?」
「地下水を急に抜きすぎると、土や砂の層が支えを失う。崩れて、水脈の向きが変わったかもしれない」
「都市が水を吸ったからか」
「可能性はある。でも、まだ決めつけないで」
ミルカは地面へ耳を当てる。
その瞬間だった。
遠くで、低い音がした。
ごうん。
地面の下を、巨大な何かが通ったような音。
澪たちの足元が、わずかに揺れる。
「地震?」
澪が身構える。
ミルカはすぐに首を振った。
「違う。地下の砂が崩れた音!」
井戸の縁に、細いひびが入った。
「離れて!」
ミルカが叫ぶ。
全員が井戸から飛び退く。
次の瞬間、広場の一部が沈んだ。
石畳が割れ、砂が下へ吸い込まれていく。
大きな穴が開くほどではない。
だが、地面の下に空間があることは明らかだった。
フィリアのネレイアが強く揺れる。
青い精霊は東の地下へ向かって光を伸ばした。
「何か、います」
フィリアが言った。
澪の背筋が冷える。
「水の精霊?」
フィリアは首を横に振る。
「水に似ています。でも、水ではありません」
地面の下から、また音が響く。
ごうん。
今度は、少し近い。
ライカが耳を伏せる。
「大きい」
「何が?」
「何かが、地下を進んでる。水の流れと一緒に」
澪の胸元の調律核が光った。
表示が浮かぶ。
《ハディル村地下水脈:異常偏流》
《地盤空洞化:進行》
《塩水上昇:検出》
《地下水流出方向:オルドア都市圏》
《未知大型反応:接近中》
未知大型反応。
澪は息を呑む。
ゲーム版なら、ここで《渇きの巨人》の存在が示される。
地下水を飲み、砂漠を広げる虚無体。
倒すべきボス。
だが、澪はもうその説明を信じ切ることができない。
地下水は、都市へ流れている。
地盤は空洞化している。
塩水が上昇している。
そこに何かが生まれようとしている。
怪物が水を奪ったのか。
水を奪われた結果、怪物が生まれたのか。
まだ、わからない。
調律核の表示が追加される。
《Another Route Seed反応:微弱》
《地下水脈内に発芽兆候》
《警告:地上からの直接介入困難》
フィリアが地面へ手をついた。
「苦しい声がします」
「どこから?」
「村の下だけではありません」
フィリアは東を見た。
砂の向こう。
まだ見えない都市オルドアの方角。
「たくさんの井戸からです。水を引かれている声。水を求めている声。水を離したくない声」
澪は、乾いた村を見回した。
枯れた井戸。
白くなった畑。
空になった家。
地面の下を流れていく水。
水は消えたわけではない。
別の場所へ集められている。
誰かが生きるために汲み上げた水が、別の誰かの暮らしを乾かしている。
海洋異変と同じだった。
悪意だけではない。
都市にも人がいる。
水が必要だ。
食料が必要だ。
難民が流れ込めば、さらに水が必要になる。
だから深く掘る。
だから周囲の井戸が枯れる。
そして、枯れた村からまた難民が増える。
「ミオ」
ミルカが険しい顔で言った。
「これ、村の井戸だけ直しても駄目だよ」
「うん」
「地下水脈全体を見ないと。また都市に引かれる」
「うん」
「それに地盤が危ない。下手に水を戻したら、崩れる可能性もある」
「わかってる」
澪は東を見た。
目指すべき場所が決まった。
都市国家オルドア。
地下水を集めている都市。
おそらく、この砂漠編の中心。
サディクが低い声で言う。
「オルドアへ行くのか」
「はい」
「門は開かないぞ。難民を追い返している」
「それでも行きます」
「都市の連中は、自分たちの井戸を止めない」
澪は答えられなかった。
止めればいい。
そう言うのは簡単だ。
だが、都市の水を突然止めれば、そこに住む人々が困る。
海洋異変で、排水門をただ閉じるだけでは解決しなかったように。
地下水の揚水も、ただ止めるだけでは別の破綻を生む。
「止めるかどうかを決める前に」
澪は言った。
「何に、どれだけ使っているのかを見ます。飲み水なのか、農業なのか、工業なのか。それ以外なのか」
「それ以外?」
「無駄に失われている可能性もあります。壊れた水路、蒸発、漏水、塩害。都市が汲んだ水が、全部人の役に立っているとは限らない」
ミルカが頷く。
「構造を見ればわかる」
フィリアが言う。
「水の声も聞きます」
ライカは東の匂いを嗅ぐ。
「道を探す。人の列とは違う道もあるかも」
澪は調律核を見る。
新たな地図が浮かんでいた。
ハディル村。
難民の列。
北の配給所。
東の都市国家オルドア。
そして地下に、青い水脈が描かれている。
その水脈のほとんどが、都市へ向かって引き寄せられていた。
中央には、赤黒い小さな反応。
《Another Route Seed:地下水脈にて発芽中》
澪は拳を握った。
第1部では、海が息を失っていた。
第2部では、大地が水を失っている。
でも、ただ雨を降らせればいいわけではない。
ただ井戸を掘ればいいわけでもない。
ただ都市の水を止めればいいわけでもない。
「水がないんじゃない」
澪は呟いた。
「水の流れ方が壊れてる」
その時、地面の奥で、何かが鳴いた。
獣の声ではない。
風の音でもない。
巨大な空洞そのものが、渇きに耐えきれず軋んだような音。
ごおおおおん――。
ハディル村の枯れた井戸から、白い砂が逆流するように吹き上がった。
砂の中に、赤黒い光が混じっている。
フィリアが叫ぶ。
「離れてください!」
井戸の底から、何かの指のようなものが現れた。
岩ではない。
骨でもない。
乾いてひび割れた土が、巨大な腕の形を取っている。
澪の調律核が警告を発する。
《未知大型反応:地表接近》
《暫定識別名:渇きの巨人》
《推奨対応:討伐》
《警告:地下水脈と接続中》
討伐。
また、その文字が現れた。
けれど今度の澪は、すぐには従わなかった。
「待って」
ミルカが構える。
フィリアの精霊が光る。
ライカが姿勢を低くする。
澪は、井戸から伸びる巨大な腕を見つめた。
土の巨人は、村を壊そうとしているようには見えなかった。
地上へ這い出そうとしている。
いや。
地面の奥から、何かを掴もうとしている。
水を。
失われた水を求めるように。
「まだ攻撃しないで」
澪は言った。
「こいつが水を奪っているのか、水を奪われて生まれたのか。それを確かめる」
枯れた井戸の底で、赤黒い光が脈打つ。
遠く東。
都市国家オルドアの方角から、何本もの地下水流が引かれていく。
その流れに引きずられるように、渇きの巨人の腕が震えた。
そして砂漠の空に、最初の咆哮が響いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
第13話から、第2部「砂漠再生編」が始まりました。
海洋ヘックスでは、海が息を失っていました。
内陸砂漠ヘックスでは、大地が水を失っています。
しかし、今回の問題は、単純に「雨が少ない」「水が存在しない」というものではありません。
地下水の過剰揚水。
都市へ集中する水。
枯れる周辺の浅井戸。
灌漑水の蒸発による塩類集積。
土壌の生命と保水力の喪失。
雨が降っても染み込まず、洪水として流れてしまう地表。
そして、水を失った村から都市へ向かう難民。
すべてが、ひとつの悪循環としてつながっています。
今回、澪たちはハディル村の枯れた井戸を調べ、地下水そのものが消えたのではなく、都市国家オルドアの方向へ引かれている可能性を確認しました。
同時に、地下水脈には《Another Route Seed》が発芽し始めています。
そして枯れた井戸から現れた、《渇きの巨人》。
システムは討伐を推奨しています。
しかし、渇きの巨人が水を奪っているのか。
それとも、水を奪われた大地の苦しみが巨人になったのか。
澪は、まだ攻撃を命じませんでした。
第2部では、水を増やすだけではなく、受け止める土、蓄える構造、使い方、配分、地下水、食料、都市と農村の関係を見つめていきます。
水のない土地に、雨だけ降らせても救えない。
必要なのは、壊れた水の流れをつなぎ直すことです。
原案・構想:マスター
物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)




