憑き物落とし 其之肆
「この期に及んで、まだ狗神にエサを与え続けるか……道理で品の無いワンコロが懐いておる訳じゃ」
イカれ女がこちらを睨む。いや、その視線が俺達から少し左にズレているところを見ると、どうやら僅かな街灯さえも消えたこの暗闇では、こちらのおおよその位置しかつかめないようだ。
「まだそんな減らず口が聞けるとは、痛ぶりがいがあるぜ」
(やり過ぎるなよ、俺が楽しめなくなる)
ニヤニヤ笑う狗神に、俺は咄嗟に釘を刺した。女は血が滴る左腕をだらんと下ろし、目を凝らして俺達の動きを探っているようだった。
「案ずるなよ相棒。なーに、あとは足の一本も満足に使えないようにしちまえば、あのアマも大人しくなるさ」
ガサ……
(今更何をしようというんだ、あのイカれ女は?)
女の方から紙の擦れる音が聞こえたのは、ヤツが懐から何枚ものお札を鷲掴みにして取り出したからだった。女が右手で握るお札の束が青白く輝くと同時に、ヤツの目が俺達を正確に捕らえる。
(まずい、あれを明かりにするつもりだ!)
「へっ、そんな小細工したところで、俺達のスピードにはついて来れないだろうがよ!」
その時、不意にガクンと体が傾いた。
(どうした?)
「……気にするな、少し張り切り過ぎて息が切れただけだ」
狗神が身体を起こす間に、女が青白く光る札を宙に投げる。
(まずい、また何か仕掛けて来るぞ!)
「何をする気か知らないが、その前に右足をへし折ってやるぜーーっ!」
狗神が女に向かって飛ぶが、明らかにその速度はさっきよりも落ちていた。いや、今ならばこの速度でも十分だろう、なにせ相手は片腕が使えないのだ。
(なんだ?)
狗神が視線を上に向ける。見上げれば、先ほど女が宙に投げた青白く光るお札が集まって、何か大きな人の形を成そうとしていた。
(やばいぞ逃げろ!)
狗神は咄嗟に方向転換をはかるも、逃げきるにはとても間に合わない。もう青白い札は、巨大な鬼の形へと変貌を遂げていた。
「バカな! こんなものまで!」
(あれは、雷神?)
雷を纏うその鬼が、俺にはそんな風に見えていた。
「「グルアアアアァァァァッ!!」」
鬼が吠えると共に周囲に雷が降り注ぎ、地面を転がって逃げる俺達を追い詰めていく。
「ぬぐああああああっ!」
狗神の悲鳴と共に青白い雷の光が俺を包み、激しい痺れる感覚と共に俺の身体が、俺の元へと戻ってきた。
※ ※ ※
気が付くと、俺は仰向けで道路に寝ていた。街灯の明かりも元に戻り、雲に隠れがちな三日月が、空からこちらを覗いている。
「憑き物が落ちた気分はどうじゃ?」
あのイカれ女が、俺を見下ろしている。たすきを解いて左肩の傷を縛っているため、開放された着物の袖が大きく風にたなびいてバタバタと音を立てていた。
(こいつ、こんな顔をしていたか?)
狗神が落ちたせいなのか、さっきよりこの女の目が優しく見えた。もっとも、野暮ったい前髪と長く伸ばしてカールがかったもみあげで、それもほぼ台無しなのだが。
「とんでもない目に遭わせやがって、最悪の気分に決まってんじゃねーか!」
体を起こそうとするも、まるで力が入らない。手足が鉛の様に重く、鈍い痛みが体中を走っている。
「おい! 俺に何をした! あの雷で俺の身体を麻痺させたのか!?」
「あの神雷は、狗神の霊力を霧散させて弾き飛ばしただけじゃ。お主の体に直接電気を流した訳ではないわ。もしあの雷が単なる高圧電流ならば、おまえの体はとっくに消し炭になっている筈じゃろうが。
お主が動けぬのは、無謀にも狗神の好き勝手に体を使わせたからじゃよ。よもや、生身の肉体であれだけ人間離れした動きをして、無事で済むとでも思っておったのか? だいたいお祓いの途中で、既にへばり始めておっただろうが」
「なんだと! 俺をコケにする気か!?」
「コケにされても仕方なかろうよ。
長年狗神の声にそそのかされ続けておったというに、肝心要のところでまーた騙されよって! 本当に懲りない奴じゃな、お主は。
2~3日は大人しく寝ているがよいわ」
ふぅ~~……
安堵のため息が、自然と口から洩れた。2~3日後には回復すると聞いて、少し気が抜けてしまったようだ。
「で、どうやって、あんなに強力な狗神を育てたんじゃ?」
「なんの事だ?」
「普通の狗神なら、わしがここまで苦戦することなどなかった。あれだけ桁外れに強力な狗神を育てるには、何か特別な方法が必要な筈じゃ」
「特別な事? 何言ってんだがサッパリわかんねーよ! テメーがヘボなのを、変な言いがかり付けて誤魔化してんじゃねぇ!」
もし心当たりがあったとしても、コイツに教える義理などない。体が自由に動かせるのなら、目の前で中指を立ててやるところだ。
「確かにお主が、狗神を強化する秘術を知ってるとは考えにくいのぅ。ならば、エサがよっぽど良かったじゃろうな…‥わしの考え過ぎだったようじゃ」
「エサってなんの事だ?」
「探偵から貰った資料によると、お主は中学時代に酷いイジメをしていたらしいな。集団で弱い者に襲い掛かる、そういう行為を狗神は好むのじゃよ。憑かれた原因も十中八九それじゃろう。
これからも同じような事を続けるのなら、お主は近い将来にまた狗神に憑かれてしまうじゃろうな」
「この俺に説教でもするつもりか、クソアマが!」
「説教などしても、お主は決して耳を貸すまいよ。ただわしは、最低限教えておくべきことを話しておるだけじゃ。お主がこれからどう生きるかを、自分の意志で選択するのに必要なだけの知識をな。
もしお主がまた狗神に憑かれたいというのなら、わしの言う事など全て無視すればいいだけじゃ。それもお主の自由じゃし、わしはもう二度とお主のお祓いをする気もない」
女はジャンパーを拾い上げると、ポケットに入っていたスマホを俺の前に突き付けた。
「ほれこの通り、お主等の声を録音したデータもちゃんと消したぞ。
それとイチイチ人に噛みつかねば気が済まぬその性分も、狗神を呼び寄せかねぬから、心しておくのじゃ」
まだ満足に動けぬ俺が目で画面を追うのを待ってから、女はそのままスマホでどこかに電話をかけようとする。
「まて、どこにかける気だ!?」
なんとなくだが、嫌な予感がした。
「お主の母じゃよ。動けぬお主をわし一人で運ぶのは、骨が折れそうじゃからの」
「やめろ! あんなクソババアを呼ぶんじゃねぇ!
あいつの手を借りて帰るくらいなら、ここでずっと寝ていた方がマシだ!」
「お主の母親にな、初めてわしが会いに行った時には、数百万の木像を買おうとしておったぞ。わしが間に入って強引に止めねば、今頃はカルト教団に入信して食い物にされとったじゃろうな」
「はぁ!?」
「そんなにあの人が嫌いなら、このままグレ続けておれば良いという話じゃ。思いつめた人間がカルトに嵌るのはよくある事、お主が直接手を下さずとも、あの母親ならすぐにでも自ら地獄へと転がり落ちるじゃろう。
もっともそれは、狗神のみならずほぼ全ての悪霊共の好む、憎しみを貫く人生を歩むということじゃがの。お主が心の底からそんな一生を送りたいと思うのなら、やってみるといい」
「……」
あのクソババアの事は気に食わない。目の前から消えてくれと、当然今でも思っている。だが、もう一押しで崖から突き落とせる所まで俺自身が追い詰めていたなどと、夢にも思わなかった。
あれほど憎いと思っていたのに、ババアを破滅させるスイッチがもう自分の手の中にあるのだと知った今、その恐ろしさに体の芯から震えがきて止まらない。
そんな俺を知ってか知らずか、あの女は再びスマホを構え、ややあってから呼び出し音が静かな林の一本道にやけに大きく響き渡る。
「……藤田さんか? お待たせして申し訳なかったのう。実は、もうお祓いは済ませたのじゃが、幸一君が疲弊しておっての、足腰立たん状態じゃから迎えに来てくれんか? ……そう……その神社の前の細い一本道じゃ。
……いや、狗神は祓ったが、これからどうなるかは幸一君次第じゃよ。……ああ、……うん? それはちと了見違いじゃ……、母親のあんたがどうするかではなく、それはあくまで幸一君が決める事じゃ………‥。……そう気負わんでもよかろう。がんばらねばならぬのも幸一君であって、お主ではないのじゃから。
うん?……うん……うん…………、そう心配せんでも、ちゃんと必要な事は全部教えておいたから……。…………いやいや……わしからこれ以上何を言おうが無駄じゃよ。校長先生のお話を、生徒が誰も真面目に聞かんのと同じ事じゃ。説教一つで人の考えなんて、そうそう変わるもんじゃなかろう。
…………うん……じゃから、お主が期待するように、そんな急激に人は変れぬよ。少しずつ少しずつ無理なく変化するのが自然じゃし、逆方向に勢いが付いておるなら、ブレーキをかけるとこから始めねばならん。
…………ちょ……ちょっと待ってくれんか、そこまで悲観しなくてもいいじゃろう。そんなに焦らずとも、もそっと自分の息子を信じてやってはどうじゃ?
……うん?……うん………………」
迎えに来るつもりならさっさと来ればいいものを、その電話はなぜかなかなか切れなかった。