第四三話 生道再編
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「生きた肉体の中に隠れれば、灰神化の進行を一時的に止められる。ネズミの実母は本能的にそれを理解していたのかもしれません」
その記憶を辿るような紅子の語りに、カリンは大いに瞠目する。
考察の域ではない、まるで己が体験した思い出を振り返るような、手に取れるような輪郭を帯びていたのだ。
──母上は、なぜそこまで知っている?
聞きながら、常に疑問はあった。しかし、言葉にできずにいた。
神の言葉を遮るわけにはいかず、カリンは遠慮がちに疑念を帯びる視線を注いでいたが、母はいつものように静かに微笑むばかり。
「ねぇ、カリン。楽しいですねぇ。あの親子は本当に、おもしろき花を芽吹かせました」
仮初の肉体で、紅子はカリンの頭を撫で付ける。
その手つきが、ひどく、ざらついているように感じてしまう。
言葉の端々、所作の節々。些細な違和感が、カリンの胸に広がってゆく。
「母上、あなたは──」
口を開きかけたカリンの声を、紅子がゆるやかに遮る。
「ここまで胸が高鳴るのは、生まれて初めてかもしれません」
しっとりと、夢心地にそう語る。
遠く、甘く、五重塔の頂上に佇む獣に、囁くように。
その声の湿り気は、肌を重ねた男女のように、熱に浮かされた質感があった。
「ネズミの肉体には、すでに灰神と化した自らの死体が隠されていた。さらに──灰神となった母親もそこに」
言いさして、紅子は仮初の肉体の喉元に、労わるように手を添える。
「ですが、その母親は〈生編の花〉の意志により、ネズミの肉体から追い出され、私のもとへ送り込まれました。まるで刺客のようにね」
そして、ネズミの実母は、神の命を摘み取ること叶わず、紅子の前で消滅した。
残されたのは、秘匿の花と、腹に宿った赤子の小さき花。
「生編の花の恐ろしきこと。宿主の母親まで利用して、この香梨紅子の命を狙うとは。私が知るかぎり、これほど容赦のない花はありません」
恐怖を滲ませるようなことを言いながら、母の声音はやはり弾んでいた。
「さて、ここからは私の憶測です」
ひとつ息をつき、紅子は人差し指を掲げ、
「ネズミは人間であった自分を、獣の肉体の中で再編しています」
意味深な考察を一滴落とした。
「……再編……ですか?」
「彼の本体(灰神となった肉体)は、獣の体内に埋もれている。〈生編の花〉は、それを素材に、ふたたび〝人間〟として、彼を作り直そうとしているのでしょう」
もしくは、と、紅子は虚空に打ち込むように付け足す。
「神の支配《正しさ》から逃れられる獣のままか。あるいは〝別の何か〟に、なってしまうかもしれませんね」
その言葉に、静聴していたカリンの背中に怖気が走った。
あの汚らしい獣はすでに、紅雀を作り出し、母に迫る片鱗を見せていた。
であるならば、『別の何か』とは──
最強の羅神である、香梨紅子を凌駕しうる何か。
「おもしろき花です。手元に置いて研究したいところですが──」
言葉を途中で切り、紅子は惜しむでもなく、ただ花が咲くのを待つように微笑む。
「今回は、ここまでのようですね」
言うと、紅子は誘うようにカリンの背中に手を添えた。
退散の合図か、と、理解したその瞬間だ。
『捕まえました』
カリンの頭の中に、愛らしい女子の声。
『我が名は女、絡舞 夢鐘 髙緒』
その静かなる名乗りが、脳に木霊すると同時。
視界が、夕暮れの霞のように淡くぼやけてゆく。
「ぐっ……こうなるかッ……」
悔恨を落として、カリンの全身が崩れるように弛緩する。
絡舞の娘であるタカオが、〈夢誘の花〉を行使してきたのだ。
ネズミとザクロの真の目的──ミチユキの救出のために。
『香梨が五女、カリン様。我が友のため、ひとときの眠りに落ちてもらいます』
強制的に夢に誘う、洗脳系の能力。
カリンの〈使役の花〉と同系統であるならば、弱点は知れている。
「まだ……間に合う……」
微睡む意識の中、カリンは腰に携えた〈紅雀〉の柄を握った。
激しい痛みを己に与えれば、能力に抵抗することは可能なはずだ。
『囲え、囲え、甘やかなる夢。母に抱かれるような、安堵の時を』
その朗々とした詩に、カリンの意識が引きずられてゆく。
リンリン、と、鈴虫のような鳴き声が頭の中を駆け回り、思考の手綱を奪われる。
なんとか得物を引き抜こうと力を込めるも、
「ぁ……」
カリンの手がするりと脱力して、衣擦れの音が立つ。
紅雀の柄に手を添えるのもままらぬ有様。
「これはこれは、驚くべき強制力ですね」
崩れるカリンの肉体を支えて、紅子が〈夢誘の花〉に賞賛を送った。
朦朧としながらも、カリンはその声に首を上げる。
「母上……」
縋るように言って、口元から血糊を一筋垂れ流す。
燃えるような執念から、自身の舌を噛んで〈夢誘の花〉から逃れようとしているのだ。
「カリン、もういいのですよ。充分よくやりました。安心しておやすみなさい」
「……どこまでも……無様な姿を見せて……ごめんなさい……」
「無様なんてことはありませんよ? この母に、可愛い寝顔を見せてくれますか?」
ああ、母がそう言うなら、と、カリンは紅子の胸に頭を預ける。
決定的な敗北であるのに、母との抱擁の感触が、すべての憂いを消し去ってくれる。
「ゼイゾウ、速やかに身支度を済ませて退散しましょう」
「かしこまりました。こちらへ」
血に濡れたカリンの口元を袖で拭い、紅子が愛娘を抱えて歩き出す。
そして最後、燃えゆく五重塔を見上げて、母がぽつりと溢すのだ。
「愛しい我が子よ、見事でしたよ」
深い慈愛がこもる、母の心からの賛辞。
その花を贈られたのは、間違いなくあの灰獣。
閉じゆく意識の中、カリンは粘つくような嫉妬を覚えた。
次は必ず──母の期待に応えなくては。
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