第四二話 紅子感嘆
遊郭、その妓楼の屋根の上。
カリンは望遠鏡からゆっくり目を離し、静かに溜息を吐く。
絡舞と百足が同時に首を断たれる光景を見届け、落胆で腹を重くしていた。
そして恐る恐る、隣に佇む紅子を伺う。
「母上……申し訳ありません……ご期待に応えられず……」
消え入りそうな声音で母に謝罪する。
自分が羅神教の教義を無視して事を進めてしまったせいで、存分に練っていた計略も瓦解し、母の期待に応えられなかった申し訳なさに、項垂れるように頭を垂れた。
しかし、母は特に気にする様子もなく。
「お見事でしたね。ねえ、カリン?」
自身の能力で強化した視力で、ネズミの闘争を観察していた紅子は、仮初の肉体で拍手を送る。
そして次には、地上の神輿で落ちた絡舞紀伊の首に向けて、
「絡舞紀伊が囚われていたのは、まさに人の形でしたね」
意味深げな感想を述べる。それにカリンが首を傾げると、母の舌が続きを回した。
「かつて盲目であった彼が縋っていたのは、人間の姿への想像でした。産まれてからずっと暗闇に囚われていたのですから、自分の顔も、他者の顔も、どんなものであるかと妄想を膨らませていたと、聞いたことがあります」
いわく、紅子が絡舞紀伊の姿を初めてみたとき、路上に風呂敷を広げて人形を売っていたそうだ。
当時は、盲目の人形師〈キイ〉として注目を集めていた。人の顔など見たことがないにも関わらず、その手から作成される人形の見事な美しさの前に、いつも人だかりができていたという。
「私が目玉を授けてから、自分の作った人形の顔を見て、絶望していましたね。理想との乖離があったのでしょう」
その気落ちする顔を、紅子は今でも良く覚えているという。
『こんなに冷たいものを、俺は作っていたのか』と、そんな呟きを漏らしたそう。
「彼は、自分に寄り添うような優しい顔を彫っていたつもりだったそうです。しかし、実際に自身の眼で人形の顔を見てみれば、怒りと怨嗟が滲むような顔であった」
自分の境遇への呪いを、知らず知らずに人形へと刻んでいたのだろう。
産まれてからずっと、光を捉えられない自分の目玉。
羅刹であるのに、微弱な静電気を起こすことしかできない自身の能力。
ゆえに、羅刹であると周囲にバレぬよう、能力を隠して生きてきたそうだ。
「私が手解きをして、その静電気の使い方を指南しました。人形を動かす〝生体電流〟にしてみれば良いのではないかと」
血管と神経に見立てた動線を人形の体内に張り巡らせて、電気を通して操作する。
その助言を受けてから、キイは無数の人形を使役する強力な羅刹に生まれ変わった。
「今までの鬱憤を晴らすかのように、多くの羅刹を狩っていました。そして気がついた時にはもう、千歳町の羅神として社の頂上に座っていましたね」
当時を懐かしみ、紅子の口から笑みが漏れる。
そして次には、憐れむような呼気を払った。
「タカオとトオルに、自分の理想を見出したのですね。盲目であった頃に描いた、慈しみを帯びる顔。己の境遇を呪って育てた手からでは産み出せない、姉妹の愛情深き眼差しを、老いる前に永久に保存したい。その誓願は──」
成し得ませんでしたね。と、あっけなくも何処か労わるような響き。
そんな態度に、カリンの胸がズキリと痛み、また頭が垂れ下がった。
「母上、申し訳ありません。僕の独断で教義をないがしろにしたばかりに、絡舞紀伊の悲願も、ネズミの捕縛も……何もかも……」
「良いのですよ。その代わり、面白いものが見れたじゃありませんか」
後悔を滲ませるカリンに軽く言って、紅子は五重塔の頂上に首を向ける。
「ネズミ……ふふふっ、すっかり騙されていました。実母が行使した秘匿の効力が完全に失われた頃合い、真の姿を見せてくれましたね」
「真の姿……」
そう、カリンも驚愕する現象がネズミの身に起きていた。
ネズミの灰神化、炎を見に纏う肉体。
そして、白骨刀〈紅雀〉の作成。
「彼の能力〈生編の花〉の特性は、苦痛を変換して自身の武器とすることです。獄炎に身を焼かれたあの夜、炎を扱える獣になった。翁火九乱の強力な鮮花を取り込んだことによって、その使い方の手解きを、ネズミの鮮花が学習したのでしょうね」
「なるほど……。では、口から母上の紅雀と似た刀を作成していたのも……」
「恐らく、あなたが取り上げる前に、紅雀で己を刺傷したのでしょう。それにより、生編の花に紅雀の内部構成を学習させ、己の武器とした──」
素晴らしくも末恐ろしいと、紅子は評する。
「まことに、ネズミらしい面白き花です。存分に苦痛を伴わなければ学べないなんて。いや……人間らしいと言えば良いですかね」
その賞賛を聞いて、カリンは別の驚きを浮かべる。
絶対なる神である香梨紅子が、まるで人間らしく声を弾ませているからだ。
仮初の肉体だからか、いつもの静謐な神格が身を潜めてゆくようだ。
「母上……ネズミのあの花は……」
興を削いではいけないと、カリンは違和感に蓋をして望遠鏡を五重塔に向ける。
吹きざらしとなった頂上では、左半身に至るところに花を生やしたネズミが佇んでいた。
闘争を終えたからか、その花々がゆっくりとネズミの肉体の中に引っ込んでゆくのだ。
「あの現象は、成人式の時に見せた現象と同じですよね?」
「はい、間違いなく。あの日と同じ現象ですね。しかしあのときは、灰神となった実母の花が、外に漏れてしまったものだと思ってました」
ネズミの実母──〈秘匿の花〉の灰神。
その女の事情は、カリンも紅子から聞き及んでいる。
ネズミの肉体の中に自分の身を秘匿し、裏で息子の援護をしていた。
息子の記憶の秘匿と、その〈生編の花〉の開花の音を秘匿。
暮梨村にいるすべての者から自分たちに関する記憶も秘匿。
そして、香梨紅子の花の音さえ秘匿してみせた、恐ろしい鮮花。
神と世界さえ欺く、類を見ない強力な能力だ。
「すっかり騙されていました。その力の真の目的が、今回の現象ではっきりとしました」
紅子は片手を顔に運び、盛大に緩んだ口元を覆う。
神の威厳も消え去るほどに、大声で笑い出しそうなのだろう。
「ふふふ、秘匿の花で隠したかったのは──〝息子の死〟でしたか」
紅子のその呟きに、カリンは言葉を失う。
頭の中が巨大な疑問符で支配されるようだった。
「……それは……どういう……?」
「間違いなく、ネズミは死んでいます。紛うことなき灰神そのものです」
紅子は嬉々として声音を弾ませる。カリンの納得など、もはや置き去りだ。
確かにネズミの身に起こった現象は灰神そのもの。
されど、あの獣は、生者ように喋り、思考し、理性のある動きをしていた。
その事実を踏まえると──
「母上、あの獣は、自由に灰神になれるということでしょうか?」
「違います。灰神になれるのではなく、灰神そのものです」
「それは……。では、今まで灰神であるのに、普通に喋って、食事をし、寝ていたと?」
「ふふふ、そこに秘密があるんです。ネズミの肉体は生きてます。それは紛れもない事実。しかし──」
中身は、どうでしょうね。と、紅子は不穏な響きを落とす。
「人間であったネズミに、私は〈生変の花〉の花弁を一枚を授けました。その結果、見事に適合して羅刹となった」
カリンは、静かに頷く。
そう聞かされている。香梨紅子の花弁によって羅刹へ変貌した稀な人間であると。
「しかし、そうじゃない。見事に騙されていた。二度も私を騙すとは……」
あっぱれとばかりに言いながら、紅子はうっとり頬に手を添える。
「彼はね、母親と同じく、私の鮮花に適合しなかった。神の正しさを受け入れられなかったように、私からの贈り物も──肉体に合わなかった」
その結果、人間であった少年は、灰神に転化した。
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香梨大社の奥深く、とある静寂に包まれた一室。
母の悲壮が、冷たい地面を這った。
「お母さンを、許シて……」
気が滅入る。聞き飽きた。
何度そんなことを懇願されたかわからない。
「母チャん……諦めメンな……」
少年はなんとか口を開くも、自分が唇を動かした感触がない。
今喋ったのは自分なのかさえ判然としない。
親子揃って川の字で横たわり、肉体の変質に苦しんでいた。
香梨紅子から授けられた花弁をこの身に取り込んでから、死が全身を撫でるのだ。
肋骨が軋むのを感じながら、肺が空っぽになる。呼吸が、もう、自分の意思でできない。
このまま灰神となるのだろう。
諦めるなと口にしているものの、その変異は、容赦なく少年を絶望に引きずり落とす。
「ああ……」
顔の皮膚を突き破り、白い花が咲いてゆく。
痛みはない。痛覚を感じる脳の働きさえ、もう失われているようだ。
「隠しテ、あゲる」
母が何かを言いながら、少年の頬に手を添えた。
「私ガ、全んブ、隠してあゲる。私ニハ、それがデキるみたイ」
よくわからない。その言葉を察してやれるほどの思考が回らない。
虚な眼を天井に向ける少年。その顔を覗き込んで、母は目元に落涙を滴らせる。
「やダ、認めナイ。私ノ息子が死んじゃうナンテ、認められるワケガない」
母ちゃんらしいことを言う、と、少年は心内で笑った。
不貞腐れるといつもそうだった。ちょっとした親子喧嘩をしたときも「やだッ、お母さんは認めない!」と繰り返し言うのだ。
弱い人だった。悲しいことがあると、まず最初に拒絶から入る。
美人であるから甘やかされて育てられたのだろう。
祖父や祖母にも、ずっと猫のように可愛がられていたと記憶している。
だから、甘えられる人間を探したのだ。
父が亡くなってから、母は寂しさに囚われた。
もっとも愛した男を失い、別の男にその影を見た。
「許スヨ……母ちゃン……」
むかついていたが、これが最後だ。
死ぬなら怨念を残さず、すっきり死にたい。
もし、生まれ変わることができれば。
この魂がまた生を成せるのであれば。
次は、自由な獣に生まれ変わろう。
正しさに縛られず、惨さと言う概念さえ知らない。
そんな獣になって、自由に野を駆けるのだ。
「なってイイよ……そこニ……ゼンぶ……隠すカラ……」
母の身体が少年に覆い被さり、そんなことを囁く。
「作ッテ……獣ノ身体ヲ……ソコに一緒ニ隠れヨウ……」
お母さんと一緒に隠れよう。
こんな汚い、正しい世界から──。
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