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顔の下半分を覆うその銀の仮面は、ところどころにくすみや窪みが目立つ。
異様なのは、その締め付けんばかりの密着ぶりだ。
鈍色の鎖が後頭部に食い込んでいる様は、どことなく奴隷の拘束を連想させた。
「……宿の同僚から、噂話なんですけど、聞いたことがあります」
遠慮がちに口を開くリタ。
「南方の一部の貧しい国では、身分の低い者が許可なく食物を口にすることを防ぐために、こういう仮面をつけさせるって……耳に穴をあけて施錠されるから、鍵を持つ管理者に服従するしかなくなる、って」
「……」
なおもウルを睨め付けるテオの四肢には、ひとつまみの脂肪もない。
細かな傷だらけの皮膚ごしに、骨と筋が透けて見えてしまいそうな有様だった。
ウルの指先に力がこもる。
先回りするように、リタが制止する。
「み、耳を切って戒めを解いた者は『耳破れ』と呼ばれて、奴隷以下の扱いを受けることになります」
無言のままテオを見下ろし続けるウル。
テオは怪訝そうに二人の様子を伺っている。
「……私を仕留め損ねて帰ったところで、似たようなものだろう」
「……」
「それどころか、こんな体たらくでは自国に帰り着けるかも怪しい」
まるで言い訳をするように呟いて、ウルは微かに剣を引く。
リタはちくりとした胸の痛みと同時に、安堵のような気持ちが芽生えるのを感じた。
戸惑いはあるものの、彼の意思にはリタも同意していた。
ウルはテオをうつ伏せにさせ、リタがその両手を後ろで縛り付け、馬乗りになる。
「ジー!……ワッケティナ……っ!」
「アパラザイ……少しだけ、我慢して」
暴れもがくテオにナディル語で謝罪の言葉をかけ、その自由を奪う。
ウルが躊躇いのない手つきで、長剣の先を耳朶に這わせた。
「……っ……!」
ポタポタと音を立てて、鮮血が滴り落ちる。
身をよじる動きをなんとか押さえ込みながら、リタは彼の顔から仮面を取り外した。
ウルがもう一つ鉄管を髪から取り外し、折り曲げる。
たちまち赤く染まり熱を発し始めた鉄管の中程を、傷口に押し付ける。
「……あ!ああぁあっ!」
洞穴に響く悲鳴と、肉を焦がす嫌な臭い。
千切れた箇所を十分に消毒し終える頃には、テオは暴れる余力もなくなったようだった。
「テオ?アガ、ビーベ」
リタが水筒を口に近づけると、テオはもはや何がなんだかわからないという表情だった。
「飲め。これも食え。そんなに衰弱していては、剣先も定まらないだろう」
通じないと分かった上で、ウルはぶっきらぼうにそう言って、自分の荷物からパンを一つ取り出してテオのそばに置いた。
説明を求めるように見上げてくるテオに、リタは可能な限りの穏やかな表情で頷いて見せた。
しばらくリタを見つめた後で、テオは恐る恐る水筒から水を飲み始めた。
二、三口程度嚥下してから、パンに視線を移す。
油断なく引き締められていた眉がハの字に緩み、その口の端から涎が垂れた。
尺取り虫のように這って、パンにかじりつく。
なんの色気もない保存性重視の丸パンだったが、テオは歓喜の呻きを上げ目に涙を浮かべながら、更にもう一口かじる。
「縄を解いてやれ。座らせて、手に持たせて食べさせよう」
「……そうですね」
ウルが微かに口元を緩めていることに気づいて、リタも微笑む。
リタの視線に気づいたウルは、不機嫌を装ってそっぽを向き、鉄管で火を起こす作業を始めた。
—
辿々しいナディル語で敵意がないことを伝えると、テオは半信半疑という様子ながら二人と一緒に焚き火を囲んで座った。
自分の顔よりも大きな丸パンを、バリバリと音を立てながらみるみる平らげていく。
「……あまり品の良い国だと思ったことはなかったが、こんな非道までやってのけるとはな」
瞳に揺らめく炎を映して、ウルは独り言のように呟いた。
リタはただ静かに、俯くことしか出来なかった。
南方の子供を奴隷同然の扱いで刺客に仕立て上げ、ウルを追わせているファルシア。
その実体について何の情報も持っていないリタには、ただただ不気味で不穏な印象だけが渦巻いている。
一体どれくらいの南方人が、彼と同じ仮面を付けられて放たれているのだろうか。
そしてその中に、テオのような子供が何人含まれているのだろうか。
考えると暗澹たる思いがこみ上げる。
「リタ」
「……はい?」
「…………こいつも、連れて行って構わないか?」
切り出しづらそうに言うウルに、リタは迷わず頷いた。
ウルはばつが悪そうに少し笑って、視線を落とした。
「……独りよがりなのは分かっている。……だが……」
「分かってます。……分かりますから、大丈夫」
「……」
耳を切った以上、彼に帰る場所はない。
リタと同様、どこか新しい居場所を見つける必要がある。
「でも、本人はどう思うでしょう?素直に付いて来てくれるでしょうか?」
「……ふむ」
南方の貧国に生まれ、他国の剣奴として使役されているテオ。
それ以下の境遇は想像するにも難儀しそうだ。
同じく武器を手にする生き方であったとしても、場所が変わるだけで待遇も見違えることだろう。
しかし、幼い彼にそれを納得することが出来るかと言えば、簡単には頷けない。
「……テオ?」
「?」
丸パンから顔を上げて、警戒するように目を細めるテオ。
「イー、シーマルヴェニ、ノビス、カーナ?」
「……」
言われていることが理解できないという様子で、テオは顔を顰めた。
「レディ、ファルシア、インヌティアリア。ペリキューロ……エッフージウム」
「…………オチーデレ、クォードモ。イーゴオムニア」
「…………」
リタの表情が曇る。
「なんと?」
「その……」
「いいから、早く言え」
「…………あなたを殺すことが、彼の全てだと」
「……ふん」
皮肉っぽく唇を釣り上げてから、ウルは踏みつけていたショートソードを拾い、テオに投げる。
「なら、殺せるまで付いて来いと伝えてくれ」
足元に落ちた剣と、ウルの顔を見比べるテオ。
「この小僧、得物に剣を選ぶ心意気も、片手剣の扱い方、身のこなしも、なかなかどうして悪いものじゃない。死ぬ気……いやこの場合殺す気か。そんな気概で鍛錬すれば、良い剣士に育つかも知れない。私が鍛えてやろう」
「う、ウル様……」
一応嗜めるように言ってみるものの、何となくこう言い出すような予感はしていた。
そして言い出したら聞かないであろうことも、用意に予想はついた。
テオは怪訝そうに眉を顰めながらも、剣を拾ってから、また一口パンにかじりついた。




