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「ちょっとあんた、気を付けたほうがいいよ。フケが大きくなってるから」

 いったいなにを言ってるんだと妻のほうに首を回す。

 洗面所の棚に置いておいた俺のヘアブラシに妻は顔をしかめている。ヘアブラシやシェーバーが乱雑に載った棚の下は妻専用の棚だ。綺麗に整っている。上の棚からフケが落ちるのが我慢ならないのだろう。

「フケが大きくなってるってなんだよ」

「意味わかるでしょ。最近、頭頂部が涼しくなったと感じない?」

「ちっ」

 どう気を付ければいいんだよ。おまえだってぶくぶく太りやがって、と言いかけてやめた。涼子は新婚の時のほうがぶくぶくしていた。しわが増えやがって、にすればいいかと思ったが、老化は自然現象だ。嘆いても逆らっても仕方がない。

 結婚して二十五年。小言が多いことと潔癖の気味があることくらいしか涼子に対して不満がないのだから、自分は幸せな男だと思う。子供には恵まれなかったが、それもささいなことだ。なんの変哲もない平凡な男が妻とふたりで不自由なく暮らしていけるのだから。

「そんなことより、旅行先決まったのか」

「やっぱり温泉がいいかしらね」

「海外旅行でもいいぞ。ヨーロッパ行きたいって言ってただろ」

「でもねえ、二週間もいたら飽きちゃうだろうし」

 休暇を余すところなく旅行に費やすつもりの涼子に呆れた。

 地方の小さな菓子製造会社の工場に就職し、三十年間真面目に働いてきて、今は数十人の部下を持つ管理職になった。特別慰労休暇は長期勤務のご褒美である。

「旅行券は三十万円分だぞ。余らせてももったいない」

「ええ、だから高級旅館とか……あら、これなにかしら」

 振り向くと涼子が封筒を手にして怪訝な顔をしていた。

「手紙か」

「あなたあてね。郵便屋さん、上まで入れに来たみたいね」

 食卓には朝食と新聞が並べられている。手紙は新聞の合間に挟まっていたようだ。

 そういえば団地の集合ポストが劣化して前のめりになっていて、葉書や薄い封筒は隙間から落ちてしまうのだった。管理組合に言っておかねばならない。

 おもて面に住所と綾川のフルネームが明朝体で印刷されている。裏返したが差出人は書かれていない。

「匿名の苦情だったらいやね」

「苦情なんて思い当たらないけどな」

 妻が団地裏の野良猫に餌をやっていることは見て見ぬふりをしている。

 上辺の封を切り、封筒の胴を膨らませて中を覗いた。臆したわけではないが剃刀の刃でも仕込まれていたら困る。

 紙片が見えた。新聞の切り抜きをコピーしたもののようだ。

『独居高齢者が行方不明。畳に血痕見つかる』

 かろうじて見出しが読める。

 引っ張り出して読む気にはならなかった。

「どうしたの?」

「いや……」

 涼子がちらりと封筒に目をやったので、何気ない風を装って伏せた。

「自治会長が選挙に出る際はよろしくってさ。チラシが入ってた」

「ふうん」

 涼子は自治会にも選挙にも関心がない。一瞬で興味を失ったようだ。

「駅ビルに旅行代理店入っていたわよね。パンフレットもらいに行ってくるわ」

 いそいそと身支度をして夫を置いて 一緒に行かないかと声をかけてこなかったのは、ケーキ専門店に寄るつもりだからだろう。生クリームの甘ったるさを想像すると吐き気がする。

 玄関の鍵が閉まったのを確かめて、手紙の中身を広げた。

 新聞のコピーと便箋が一枚だけ。

 古い新聞だ。三十五年前に起きた行方不明事件である。居間に血痕があったが死体がみつからず、続報はなかった。

 便箋にはそっけない字体でこう印字されていた。

『人殺しの綾川雄二、〇日午後一時に新宿○○公園南出入り口から数えて三番目のベンチにこの手紙を持ってやって来い。来なければ真実は警察の手に落ちる』

 ばかばかしい。

 綾川は冷めきったコーヒーを飲もうとして、うっかりカップを倒してしまった。絨毯にしみこんだ黒いしみは布巾で擦っても落ちなかった。涼子に嫌な顔をされると考えただけでこめかみがずきずきと痛んだ。また涼しくなりそうだ。

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