3-11
折しも今夜は満月、枝葉の向こうには白く冴えた月が浮かんでいる。
けれど幾重にも重なる木々がその光を遮り、深い森の奥まで明るく照らしてはくれない。僅かに零れ落ちる月明かりが、地面や木の幹にまだらな白い模様を作っているだけだった。
どうやら、これ以上は逃げられないと悟ったらしい。薄闇の向こうで何かが動いた。
がしゃりと重い金属が擦れ合う音が響く。続いて枯れ葉を踏み潰す足音が一つ、また一つと近付いてきた。
やがて木々の間から大きな人型の影がゆっくりと姿を現す。最初に目へ飛び込んできたのは左腕に携えた巨大な盾だった。
先ほどセレンティナの【風の刃】を弾いたのがあの盾なのだろう。人ひとりを覆い隠せるほどの大楯は端が大きく欠けている。表面には無数の罅が走り、幾度となく強烈な攻撃を受け止めてきたことを物語っていた。
その陰からゆらりと巨躯が現れる。レナトスにも劣らない大きな身体は、頭から足先まで重厚な全身鎧に覆われていた。
かつては美しく磨き上げられていた金属に往時の輝きはない。長い年月、手入れされることなく雨風に晒され続けた鎧は赤茶けた錆に侵され、ところどころが崩れ落ちている。
深い傷やへこみも無数に刻まれ、継ぎ目からは黒ずんだ内部が覗いていた。
右手に握られているのは一本の槍。その穂先もまた刃が何ヶ所も欠け、月明かりを受けても輝くことなく鈍い色を返すだけだった。
大盾も鎧も、そして槍も、どれも朽ちかけているというのに、その姿をレナトスが見間違えるはずがない。
何度となく目にしてきた、父王の装備だった。
骸導がさらに一歩、月明かりの僅かに届く場所へ踏み出す。
その時、欠けた兜の奥が見えた。左側を中心に大きく損壊し、本来ならばその隙間から顔の一部が覗いているはずだった。
だが――目があるべき場所には光を一切映さない真っ黒な空洞だけがぽっかりと穿たれ、そこから二人を見ている。
それは明らかに生者の眼差しではなかった。
五年前に姿を消したグランヴィレア王国前国王。その面影を確かに残しながらも、そこに立っているものはもう父ではない。
それを目の当たりにした瞬間、レナトスの全身の肌がぶわりと粟立った。
恐怖なのか、ようやく父を見つけた歓喜なのか。
その身体を弄ぶ魔獣への怒りなのか、あるいは五年間探し続けた末にようやく辿り着けたことへの安堵なのか、自分でも分からない。
身体が一瞬にして熱を帯び、呼吸が浅くなっていった。
「うーん。やっぱり、あの程度の魔術じゃ防がれちゃいますよねー。ざーんねん!」
あまりにも場違いな朗らかな声にレナトスは我に返る。隣へ視線を落とせば、セレンティナが大きな銀紫の瞳でこちらを見上げ、にこりと微笑んでいた。
「先に大楯を落としておきましょうか? 腕ごとになっちゃいますけど」
無邪気な笑顔と共に随分と物騒な提案をしてくる。先ほどまで胸の内を埋め尽くしていた複雑な感情とのあまりにも大きな落差に、レナトスの肩から力が抜ける。
「いや、必要ない」
「はーい。邪魔が入らないようにしますので、ご安心を!」
セレンティナは軽やかに答えながら左手をすっと横へ払った。その動きに合わせて巨大な【風の刃】が放たれ、木々の陰からこちらへ襲い掛かろうとしていた獣型の骸憑が真っ二つになる。
左右に分かれた巨体がそれぞれ重い音を立てて地面へと落ちた。
「陛下」
レナトスが槍を構え、骸導へ向かって踏み出そうとした背に静かな声が掛かった。
足を止めて半身だけ振り返ると、そこには後ろ手を組み、いつもと変わらぬ穏やかな表情を浮かべた調律者が佇んでいた。
「あそこにあるのは、ジャルク王ではありません」
迷いなく断言された言葉が胸へとまっすぐに突き刺さる。その瞬間になって初めて、レナトスは自分の中にまだ躊躇いが残っていたことに気付いた。
父ではないと理解している。それでも目の前にあるのは、間違いなく父の姿なのだ。
見慣れた槍を握り、見覚えのある大楯を構えている。そこへ槍を向けることを心のどこかで拒んでいた。
まるでそんな葛藤を見透かしていたかのようにセレンティナは言葉を続ける。
「あの骸導はお父様が人として、そして王として守ってきた誇りと尊厳を踏みにじっている魔獣です」
その声音から、普段の軽さが消えていた。
いつもなら冗談めかして語尾を伸ばして、どこか楽しげに言葉を紡ぐセレンティナがまっすぐにレナトスを見つめている。
慰めようとしているわけでも苦悩に寄り添おうとしているのでもない。ただ、これから為すべきことを見失わないように、余計な感情を挟まず事実だけを突きつけてくる。
その冷酷さが、むしろ今のレナトスにはありがたかった。
「陛下はこれから、お父様をそんな屈辱的な日々から解放するんです」
諭すようなその口ぶりには、逃げ道を容赦なく塞いでいくような厳しさも含まれている。
レナトスはぐっと口元を引き締めた。
「それじゃ、アルシェラとの約束は絶対に守ってくださいねー」
いつもの軽やかな口調に戻り、セレンティナはくるりと背を向けると、純白のローブと銀紫の髪を靡かせながら軽やかに走り去っていった。
「…………ああ」
その短い返事が遠ざかっていくセレンティナの耳に届くことはなかった。
レナトスは軽く目を伏せ、大きく息を吸い込む。胸の内に渦巻いていたものを吐息と共に静かに吐き出すと、骸導へと向き直る。
重々しい鎧が擦れ合う音が静まり返った森に響いた。それは記憶の中にあるものよりも遥かに鈍く、ひどく軋んでいる。
手入れをする者を失った全身鎧を纏った魔獣がゆっくりと身構えた。右手の槍をやや高い位置へ構え、腰を深く落とす。
その姿勢を目にした瞬間――レナトスの胸が僅かに揺れた。
幼い頃から幾度となくこの姿を目にしてきた。
次はどこから攻めてくるのか、どう踏み込めば懐へ届くのか。
必死になって父の動きを追いかけていた遠い日の記憶が脳裏へ鮮明に蘇る。
懐かしさが胸を絞めつけ、そして同時に目の前にいるものがもう父ではないという現実が改めて突き付けられる。
――それでも。
レナトスは槍を握り直しながら素早く構える。
もうその手に、一切の迷いは残っていなかった。




