08.ここがあの女のハウスね 2
「……ブロック?」
「ああ、《ツブシアン》って言う人、いるだろ?」
やばい。なんとなしに言ったつもりだったのに気分が悪くなった。お盆で思わずひっくり返してしまったように、胃が暴れる。吐き出しそうな負の感情を、グッと人知れず呑み込んで元の場所まで押し戻す。
「……ああ、いるよね。オフ会でも会った人で、昔はネットでやり取りはしていたけど、最近はしていないかな? その人がどうかしたの?」
「俺、あの人に恨まれていてさ……」
「う、恨まれたって? どうして? 何かしたの?」
「《ツブシアン》さんには直接何もしていないんだけどさ、ものすごいあの人に粘着されたんだよ。話を一話挙げるごとに感想欄で、誤字脱字から、キャラの言動のおかしな点から、とにかく、欠点を書かれたよ」
「そっか。でも、それぐらいだったらきっと、ネットに小説を投稿した人だったら誰もが通る道だよね?」
情け容赦なく、抜身の剣を袈裟切りしてくるかのようの舌鋒。でも、それは本当のことだ。それぐらいのことだ。それぐらいのことで一々へこんでいたら小説なんて書けない。
だけど、たまに思ってしまうのだ。
もしかして、無機質とも思える文章を書いているネット小説を読んでいると、読者は忘れてしまっているのではないかと。
小説を書くのは、血の通った人間であるということを。
そんな当たり前のことを、忘れてしまっているのかと疑ってしまう。
「うん。そうなんだよな。いくら悪口書いたからって、小説がつまらないから、人格否定したって、許容範囲なんだよな。読者様はどれだけ作者をこき下ろしても『俺様がアドバイスしてやっているんだから、どんな罵詈雑言も聞き入れるべき!』――それが、今の風潮。俺だってそのぐらい甘んじて受け止めるつもりだった。だけど、ギリギリリミットいっぱいまで耐えられたのは、見える場所での指摘だったんだよ」
「見える場所でのって?」
「衆人環視の場だと、ある程度自制は効くんだよ。だけど、個人のチャットみたいな場所だと話は変わってくる。Twitterや『ヴァルハラ』でのメッセージ機能ではさ、毎日馬鹿にされていたよ。俺の小説一文字一文字全てを丁寧に読んで、ここが面白くないって言う、ほとんどこじつけみたいな批判をずっと、ほんとうに、ずっと、長文で……」
現実世界では他人と眼を合わせることができない人間でも、ネット世界では多弁になることがある。悪口はその最たる例だろう。日頃の鬱憤を晴らすことができる、匿名のネット社会において、自分の暗黒面を開放できるこれほど格好の場はない。それはある意味、肉声よりも心に突き刺さって、底なしの闇へと引きずり込まれる。
「まるで、毒に蝕まれるように、俺の心は芯から崩れていくような気がした。何で俺、小説書いているんだろうって、こんなに批判されてまで書く必要あるのかなって、辛くて、ほんとうに辛くて、泣いた日もあったよ……」
「…………」
あまりにも執拗に批判文を書かれすぎて、網膜に焼きついたように目蓋を瞑っても文字が浮かびあがってきた。寝ても、夢で散々駄目だしを喰らった。起きていても、眠っていても、ずっと批判されていた。頭がおかしくなるところ――いや、きっとあの時の俺は頭がおかしくなっていたんだろう。
何もない時に、フラッシュバックした。
お前の小説はつまらない。見る価値はない。時間の無駄だった。お前は小説を書くな。死ね、死ね、死ね。そんなことを、永遠に書かれ、そして、俺は、投稿するのを辞めた。まるで背後霊のようにまとわりつくトラウマを除霊したかったのだ。だけど、それだけで生霊の怨念を振り払えるはずもなかった。
「それで、最終的にはあっちからブロックされた。Twitterでも、『ヴァルハラ』でも。そして、それで終わればいいのに、終わらなかったんだ。あることないこと《ツブシアン》さんは、他の人に俺の悪口を書いていった」
「……えっ?」
「『《空の夢》は、どうしもないクズでぇ、《巨人殺しの弟子》さん狙いなんです。下心で《巨人殺しの弟子》さんに猛アッタクしているんですよぉ。これが証拠です』って言って、こんな風に捏造した」
スクリーンショットされたものを、スマホで見せる。そこには俺と《ツブシアン》さんとのやり取りが書かれている。内容は、俺が《巨人殺しの弟子》のことを好きだから、《ツブシアン》は引っ込んでろ、関わるな、と言っているもの。そして、実際のやり取りも見せる。それとは全く内容が異なるもので、《ツブシアン》が一方的に俺を嬲っている内容だ。だが、虚実溢れるネットにおいて、どちらが正しい情報かなんて水掛け論。先に言った者勝ちなのだ。
「なに、これ? 日時は同じだけど、文章が全然違う?」
「知識があれば、誰でもできるらしいけどな……。文章を丸ごと変えたんだよ。結局、俺が悪者に仕立て上げられたんだ。どれだけ俺が正しくても、人は最初に得た情報が正しいと思いこむ。だから、最初に嘘でもいいから、でっちあげた方が勝つんだ」
「どうして、《ツブシアン》さんはこんなことを?」
「……恐らく、いや、十中八九四月一日のことが好きだったんじゃないのかな?」
「え、えぇっ!? でも、夢野クンが小説を投稿しなくなったのって、オフ会する前のことだよね? その頃、ボクと《ツブシアン》さんって会ってもないんだけど?」
「だからきっと会う前から好きだったんだと思う。それで結構、見える範囲で俺達けっこうお互いに小説のことも、それ以外のことも話していたよな? それが、嫌だったんだろうな。なんか、情報を捏造したあいつも、まんま自分のことを言っているみたいだったし」
「……えぇ。ボク達あの頃はお互いのこと知らなかったし、そういう、その、恋愛関係だったわけでもないんだから、嫉妬する必要ないんじゃないの?」
「うーん。潔癖症だったのかもな。アイドルが男と飲み会している画像をTwitterであげるだけで、裏切りだとか過剰反応するみたいに、きっと、《ツブシアン》さんにとって、四月一日はアイドルのようなものだったんじゃないのかな……」
「………………」
アイドルを日本語訳すると、偶像。言い得て妙だ。だけど、ネットで出会った二人が、そのまま結婚、ゴールインするなんて話は意外にゴロゴロ転がっている。それに、アイドルと熱烈なファンが結ばれることだってある。実体の見えない者に恋すること自体は、決して異常とは言えないぐらい昔と比べて時代は変わったのかもしれない。だけど、だからといって、何もしていなのに、馬に蹴られて死ぬのはごめんだった。
「……でも、ほんとうに、そんな、こと」
「ほんと、そんなこと、だよなあ……。それを信じたみんなが、俺をブロックし始めてさ、でも、それを否定するのも疲れたんだ。だって、言ったもの勝ちなんだ。情報が先に出回った方が、真実になる。それがこの世界の常識だろ? みんなから批難されまくって、もう、俺は小説を書くのが怖くなった」
「そんなの、ボクは知らない……」
「俺と仲が良かったからな。知らせたら、俺の味方になるかもしれないと思って言わなかったのか、《ツブシアン》さんにも後ろめたいって気持ちがどこかにあったのか。理由は色々あるだろうけど、四月一日には言わなかったみたいだな……。なっ、後悔しただろ?」
「え? ご、ごめん、ボク、ボクは……」
「あっ、いや、俺は――」
意地悪ないい方をしてしまった。八つ当たりするつもりなんてなかった。絶望の穴に落ちて、それでも底から這いあがらなかったのは俺のせいなのに、どうしようもなく卑怯なことをしてしまった。
「ごめん……。四月一日にこんなこと話して、卑怯だって分かっている。だけど、楽になりたかったんだ。お前が嫌な気分になるって分かっていて、だけど、どうしようもなくて。無理やり言わされたことにすればいいんだって自分に言い聞かせたけど、けど、けど、やっぱり俺は――」
「卑怯なんかじゃないよ」
時が止まる。心臓さえも止まったような気さえして、視線によって射抜かれる。身じろき一つすることなどできずに、真っ直ぐなその瞳に全てが吸い込まれるようで、じわりと、景色が歪む。意味も分からず、透明なフィルターがかかったに動揺する。
そして、時は動き出す。
四月一日が俺のうなじ付近に腕を回したことによって、俺の時計の針もカチカチと動き出した。
「ありがとう、勇気を出して告白してくれて――よし、よし」
「ちょ――やめ――」
「ごめんね。きづいてあげられなくて。ボクは、ほんとうに、ほんとうにキミのことが好きだったのに、今でも、大好きなのに――それなのに、キミが苦しんでいることに気がつくことができなかった。責めることしかできなかった。だけど、これからはきっと気づいてみせる。気づかなくても、気づくように目を凝らすよ。……だから、ボクのこと許してくれる?」
「いや、許すもなにも、というかこれは――」
抱きしめられている。だけど、恋人同士というよりかは、まるで愛しいぬいぐるみを抱いているように優しい抱擁。よしよし、と頭を撫でられた時には、脳が痺れてショートするかと思った。甘ったるい匂いが鼻腔をくすぐり、くらくらする。今なら蜜に惹かれて飛びまわる蜂の気持ちが分かるかもしれない。ほんとうに、とても、甘い。あと、百回言っても言い足りないぐらいには。
いつまでも、いつまでも、このままでいたかった。本当に、時間が止まってしまえばいいと思った。恋人なんてできたことはないけれど、人間の本質――本能の部分が幸福を叫んでいる。人と人とが重なり合うと、こんなにも、こんなにも癒されるのか……。
風呂は命の洗濯という名言があるけれど、きっと、抱擁は命の蘇りだ。
生まれ変わったような気分。
人生において、俺の心臓がこれほどまでに仕事をしたことがあっただろうか? バクバクと早鐘をうち、今にも口からはみ出しそうだった。
「…………許すよ。だから俺のことも許してくれ。こんなくだらない理由で小説を投稿するのを辞めてしまったことを。《巨人殺しの弟子》の期待を裏切ったことを。だから――」
「いいよ、許してあげる。その言葉だけで、ボクはきっともっとキミのことを好きになったんだから――」
その時。
ずっと心に巣食っていた黒い霧がスッと晴れたような気がした。