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隠れΩの辺境スローライフ飯 元宮廷料理人が拾った傷だらけの青年はαの皇帝陛下でした 美味しい手料理で胃袋を掴んだら溺愛されています  作者: 月夜 闇花


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番外編「冷たい玉座の記憶と温かな手」

◇アレク視点


 羊皮紙の上を滑る羽根ペンの先から、微かな摩擦音が静かな土間に響いていた。

 インク壺にペン先を浸し、次々と送られてくる帝都からの決裁書類に署名を書き込んでいく。

 国境警備の配置転換、新たな交易路の関税率、貴族たちの領地争いに関する裁定。

 かつての自分が冷たい石造りの執務室で、息を詰まらせながら処理していた事案の数々だ。

 だが、今の自分が座っているのは大理石の豪華な椅子ではなく、辺境の小さな食堂にある使い込まれた木製の丸椅子だった。

 背もたれのない椅子は姿勢を保つには不便だが、不思議と苦痛は感じない。

 机の代わりとしている食卓の表面には、細かな傷やナイフの跡が無数に刻まれている。

 それは、この場所で何年もの間、誰かのために温かい食事が作られ、命が繋がれてきた証だった。

 最後の書類に署名を終え、羽根ペンを置く。

 深く息を吐き出すと、肺の奥にまで木造建築特有の柔らかな木の香りが入り込んできた。

 帝都の城に立ち込めていた匂いを思い出し、アレクはゆっくりとまぶたを閉じる。

 あの場所には、常に血と鉄の匂いが微かに漂っていた。

 すれ違う貴族たちは皆、己の体臭や本性を隠すために、むせ返るような人工的な香水を全身に浴びていた。

 αとして頂点に立つ皇帝という立場は、常に周囲を威圧し、誰にも弱みを見せないことを要求される。

 気を抜けば足元をすくわれ、暗殺の刃がいつ首筋に向けられるかわからない。

 生き延びるため、アレクは自らの内に猛獣を飼いならし、常に火打石を打ち合わせたような焦げた匂いをまとって他者を遠ざけてきた。

 食事の味など、とうの昔にわからなくなっていた。

 毒見役が安全を確認した冷え切った肉の塊を、ただ生命を維持するためだけに胃の腑へ流し込む日々。

 そこには何の喜びもなく、ただ空虚な時間が流れているだけだった。

 あの森の奥で魔物に襲われ、致命傷を負って倒れた時、アレクは心のどこかでこのまま終わるのも悪くないと思っていた。

 冷たい土の上で意識が遠のいていく中、重すぎる鎖からようやく解放されるのだと、どこか安堵すら覚えたのだ。

 だが、その暗闇の底に、一条の温かい光が差し込んだ。

 目を覚ました時に鼻腔をくすぐった、香ばしい肉の焼ける匂い。

 火にかけられた鍋から立ち上る、静かな湯気の音。

 そして、懸命に自分の体を拭い、看病してくれていた小さな背中。

 レオが差し出してくれた分厚い肉とパンの食事を口にした瞬間、止まっていたアレクの時間に再び血が通い始めた。

 彼の作る料理には、冷え切った細胞の隅々にまで染み渡るような、生きる力そのものが込められていた。

 それだけではない。

 レオの体から漂う、雨上がりの土や甘い果実を思わせる微かな香りが、アレクの中で常に牙をむいていた猛獣を優しくなだめてくれたのだ。

 彼が自分の体質を偽っていることには、早い段階で気づいていた。

 本来なら相反し、時に暴走を引き起こすはずの強力なαとΩの気配が、共に食卓を囲み、同じ熱を分け合うことで奇跡のように調和していく。

 彼が自分のために作ってくれる食事は、どんな魔法の霊薬よりも確実にアレクの心を救い上げていた。

 帝都からの追手が現れ、彼から冷たい拒絶の言葉を突きつけられた時の胸の痛みは、魔物に引き裂かれた傷よりもはるかに深いものだった。

 彼が自分を守るために嘘をついていることは痛いほどわかっていた。

 だからこそ、彼を宮廷という冷酷な檻に閉じ込めることはできないと、一度は身を引く決意をした。

 馬車に揺られながら、遠ざかる辺境の景色を見つめていたあの朝。

 距離が離れるにつれて、自分の中にあった温かな光が急速に失われ、再び冷たい闇が侵食してくるのを感じた。

 そして、あの甘い果実の香りが途切れた瞬間、アレクは自分の半身をもがれたような喪失感に襲われたのだ。

 帝国の未来も、皇帝としての義務も、彼がいない世界では何の意味も持たない。

 そのことに気づいた時、アレクはすでに馬車を飛び出し、来た道を全力で駆け戻っていた。

 洞窟の奥深くに倒れ伏す彼を見つけた時の恐怖は、今思い出しても指先が冷たくなる。

 だからこそ、アレクはもう二度と彼の手を離さないと誓った。

 皇帝の玉座をこの辺境の食堂に移すという決断は、周囲から見れば狂気の沙汰だろう。

 だが、アレクにとってそれは、自分自身の魂を生かし続けるための唯一の選択だった。

 厨房の方から、軽い足音が近づいてくる。

 目を開けると、両手に木の盆を持ったレオが歩み寄ってくるところだった。

 盆の上には、湯気を立てる二つの木の杯が乗っている。


「仕事は終わったみたいだね。少し休むといい」


 レオが盆を食卓の中央に置き、向かいの席に腰を下ろす。

 杯からは、洞窟の奥で採れる薄荷に似た葉の清涼な香りが立ち上っていた。

 アレクは杯を手に取り、熱い茶をゆっくりと喉の奥へ流し込む。

 頭の芯にあった疲労感が、その香りと温かさによって静かに溶かされていく。

 杯を置き、アレクは目の前に座るレオを真っ直ぐに見つめた。

 薄茶色の柔らかな髪からのぞく琥珀色の瞳が、小首を傾げてこちらを見つめ返してくる。


「どうかした。顔に泥でもついているかな」


「いや。ただ、俺の目の前にお前がいるという事実を、噛み締めていただけだ」


 アレクの言葉に、レオは少しだけ目を丸くし、それから照れ隠しのように視線を伏せた。

 ほんのりと赤く染まった耳たぶが、愛おしくてたまらない。

 アレクは手を伸ばし、食卓の上にあったレオの指先に自分の指を重ねた。

 ごつごつとした自分の手とは違う、しなやかで温かい手のひら。

 包丁を握り、土を耕し、自分に生きる喜びを与えてくれた魔法の手だ。

 指を絡めると、レオの体から甘く穏やかな香りがふわりと立ち上り、アレクの深い森の香りと静かに混ざり合う。

 それは、世界で最も安全で、最も美しい調和の証だった。

 もう、誰もこの場所を脅かすことはできない。

 アレクは絡めた指先に力を込め、窓の外で輝く真昼の太陽に向かって、心の中で静かに誓いを新たにした。

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