サファイア
「勿論だ。いいに決まっている」
意識するよりも早く、その言葉は喉の奥から飛び出していた。
もともと心中では決まっていたことなのだ。
断る道理などある筈がない。
そして何より、目の前でプルプルと肩を震わせる少女に申し訳なかった。
本来は俺から言うべきな筈なのに、俺よりも先に彼女は、ここまでして俺について行きたいと懇願したのだ。
ならせめてと、何よりも早くに彼女を安心させてあげたかった。
「本当ですか……?」
彼女は、その透き通った青色の瞳をウルウルとさせながら、確認するように俺に問いかける。
「ああ」
俺は、即答する。
空白の時間は、迷いを疑われてしまうかもしれない。
「……よかった」
緊張が解けて、脱力してしまったのだろう。
彼女はぐったりと床に臥す。
だが、こんなことでいちいち体力を使い果たしているようじゃ困る。
彼女には、これから世界の広さを知ってもらわないといけないのだ。
俺は立ち上がり、彼女の両手に腕を伸ばす。
「行くぞ。まだ始まってすらいないのにそんなんじゃ、身がもたないぞ?」
俺は彼女の両手を掴むと、勢いよく引っ張った。
「あっ!」
彼女が俺の胸に飛び込んで来る。
そういえば、彼女は長い間本を読むだけの生活を送っていたのだ。
俺の予想以上に、体力が無かった。
そのせいで足取りが覚束なく、俺の胸に倒れかかって来てしまったのだろう。
「流石に、自立くらいはしてくれよ?君をおぶって行く程余裕がある訳では……」
彼女を俺の胸から剥がしながら、そう言っていると何処か小さな違和感を感じた。
ああ、そうだ。
今になって、漸く気がついた。
彼女には名前が無いんだったな。
「そういえばだが、君には名前がないんだったな?」
幾ら何でも、これから長く旅を共にする予定の仲間に名前が無いのは、不恰好すぎる。
早急に、どうにかしないとな。
彼女も突然の質問に困惑しているようだ。
その瞳は、何で今そんなことを?という疑問を孕んでいる。
「そうです、が。どうかしましたか?」
「今更で悪いんだが、旅を共にする仲間が名無しの権兵衛、というのがどうにもしっくり来なくてな」
「あ、そうですよね……。私に名前が無くて、申し訳ありません」
「名前が無いのは君の責任じゃない。責任を負うべきなのは君ではなく、義務を放棄した親だ」
育児の義務がこの世界にあるかは分からないが、命を生み出したものとして、育児の放棄がやってはいけない行為というのは変わらない。
それは、如何なる事情があったとしても。
人の命は、止むを得ずで片付けていいものではないのだ。
「つまり、だ。君が謝る必要はない。違うか?」
「はい、違いないです……。すみません」
彼女は、初めて出来た友人とも呼べる存在に嫌われたくないのだろう。
事あるごとに、すみません、申し訳ありませんと謝る。
今も、彼女は何も悪いことをしていないのに、判決を待つ受刑者のような、絶望的な目をしている。
この際だから、ついでに言っておくか。
「いちいち、謝る必要は無いぞ。それはくどいばかりか、君の謝罪の言葉を軽いものにしてしまう」
「は、はい。そうですね。すみません……あっ」
彼女は酷く狼狽した様子で、「これはですね、違うんです」と何度も言い訳をしている。
まあ、それが意図的にではなくふとした拍子に出てしまうものなら仕方ない。
それもこれから、だ。
俺は苦笑しながら、優しく彼女の頭をポンポンと叩く。
「まあ、これから直していけばいい。意味もなく謝ったら、飯抜きだが」
「えっ!死活問題じゃないですか!?」
彼女は信じられない、という表情をして目を見開いた。
こういう所が、本当に面白い。
「君は、飯無しで生きてきたんじゃないのか?」
「……はっ!す、すみません。あ、また!」
「またかよ!」
またもや、思わず吹き出してしまった。
何度も同じ失敗を繰り返すその様子は、同じ自虐ネタを繰り返す芸人のような、酷く可笑しいものに思えたのだ。
さっきから、見ているだけで飽きない子だ。
感情がそのままに顔や仕草で表れてしまう。
それはもはや、幼子特有の美点なのかもしれないな。
彼女の場合は年齢の所為というより性格の所為のようなので、いくつになっても変わらないかもしれないが。
今もおどおどとしている少女を見ながらにそんなことを考えていると、天啓のように一つ、良い案が浮かんできた。
「そうだ。なあ、君の名前、俺が決めていいか?」
俺がそう言うと、彼女は突然フリーズしたように固まった。
ん?
どうしたんだ?
俺が疑問に首を傾げていると、彼女は俺の心配が無意味だったと思わせるような勢いで、声を上げた。
「ぜひ、ぜひ!お願いします!」
「お、おう。なんか、嬉しそうだな」
思ったより食い気味に彼女が頼んで来たので、少しどころかかなり驚いた。
「は、はい……。名前を受け取ったら、空っぽだった私に、何かが吹き込まれる。そんな、気がするんです」
「そうか……」
ならば、彼女に気に入ってもらえるようないい名前にしないとな。
まあ、俺が名前を付ければいいと閃いた時点で殆ど決まっていたんだが。
「ソフィア。これが、君の名だ」
サファイアのような両の瞳と、知的な印象を受ける彼女にはぴったりな名前だと思う。
この名前が思ったよりしっくりくるので、名付け親になってやろうと決心したくらいだ。
さあ、彼女の反応は如何に。
俺が目を向けると、そこには「ソフィア、ソフィア……」と何度も繰り返す少女の姿がある。
そして、しばらくそのまま呟いていたが不意に、彼女は俺に目を向けた。
「何というか、まだしっくりきてはいないです。けれど、ソフィア……。何となく、良い名前だと思います」
「そうか。まあ、気に入ってくれて良かった」
「はい。これから慣れていけるように、どんどんソフィアと呼んでくださいね!」
そう言って、彼女は微笑んだ。
……改めて見るとやはり、彼女の笑顔は美しいと感じる。
まるで、天使のようだ。
「ああ、ソフィア。これから、よろしくな」
俺達は、近い距離で向かい合っていた。
その所為もあり何だか照れてしまい、彼女に手を差し出すことで俺の顔を見られないようにする。
握手の要求だ、これで赤くなっている俺の顔を見られることはないだろう。
「はいっ!シンさん、よろしくお願いしますね」
彼女は迷い無く、俺の手のひらに自分の手のひらを重ねる。
その手は、細く痩せこけている。
だが、何処か力強さを感じる握手だった。




