17
数日後。
渋谷の街を包んでいたあの雨が嘘のように、東京は連日の秋晴れに恵まれていた。
矢吹はいつものオフィスで、パソコンの画面と睨めっこしながら書類作成に追われていた。
小林課長が突然「個人的な都合」で長期失踪扱いとなり、部署内はその穴埋めでてんてこ舞いだったが、矢吹の心は不思議なほど穏やかだった。
(死に物狂いだったあの夜が、なんだか遠い夢みたいだ……)
街を徘徊する殺し屋も、山手線を回る道化師も、もうどこにもいない。自分は相変わらず、冴えない日常を消化する一人の「観客」に戻ったのだ。
久しぶりに、あの時着ていた服を引っ張り出して着てみた。あの日以来だ。
天気予報によると午後から雨が降る。
矢吹はちらりと、机の脇に目をやる。そこには新しく購入した長傘がたてかけてある。
定時のチャイムが鳴り、矢吹はバッグを抱えてオフィスを出た。
すでに小雨が降り始めていた。矢吹は傘を開いた。
駅へ向かう途中、ふと思い立って、久しぶりに喫茶店へと足を向けた。
矢吹、亜留々、ビッグ・ジョー、三人が初めて出会った、あの場所へ……
あの喫茶店に行こう…… ひとりごとを声に出して言った。
最初からそのつもりだったのかもしれない。
扉を押し開けると、カランと乾いた鈴の音が響く。
割れていた強化ガラスは綺麗にはめ直され、店内には穏やかなジャズが流れていた。
矢吹は奥のテーブル席——あの夜、亜留々が突然隣に腰を下ろした、あの席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ」
マスターが水とメニューを運んでくる。
矢吹はメニューも見ずに、ゆっくりと微笑んだ。
「熱い紅茶を一杯。……レモンをつけてください」
「かしこまりました」
運ばれてきたカップから湯気が立ち上り、甘く爽やかなレモンの香りが鼻腔をくすぐる。
カップに手を添えながら、矢吹は窓の外を眺めた。
雨はやや強さを増したようだ。ぽつり、ぽつりとガラス窓を小さな雨粒が叩き始めた。
カラン、と乾いた音がして、喫茶店の扉が開いた。
冷たい外気が、コーヒーと紅茶の香りが充満する店内に滑り込んでくる。
矢吹はゆっくりと入口の方へ視線を向けた。
そこに立っていたのは——
濡れた黒髪を背中に流し、見たことのない新品の純白の長傘を一本、手首で軽やかに弄んでいる少女だった。
彼女は店内をゆっくりと見渡すと、矢吹と目が合い、鈴の鳴るような声でくすりと笑った。
「そこ、空いてるかしら?」
矢吹はカップをソーサーに置くと、椅子を引いて静かに答えた。
「ええ、もちろん。お奢りしますよ、『雨の日の処刑人』さん」
あの喫茶店に行こう……
どこかで彼女が聞いているかもしれない。
そう思って自分の胸元にある、盗聴針に語りかけた……
外の雨足が少しずつ強くなっていく。
だが、もうそこに恐怖も追手もなかった。ただ静かで、どこか愛おしい、二人だけの雨の時間が始まろうとしていた。




