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異世界交差点の小料理屋〜10年修行した女板前は、今日も日本の裏口から仕入れた食材で疲れた異世界人の胃袋と心を癒やします〜  作者: タカノ


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第38話:宮廷料理長のSOSと、素材を閉じ込める天ぷら

王都アルカディアは、冬の寒さが一段と厳しさを増し、吐く息が白く染まる季節を迎えていた。

石畳を覆うように薄っすらと霜が降り、街路樹の葉はすっかり落ちて寒々しい姿を晒している。そんな凍てつくような夜であっても、路地裏にひっそりと佇む小料理屋『結(むすび)』の店内は、別世界のように暖かく、そして極上の出汁と醤油の香りに満ち溢れていた。

真っ白な割烹着に身を包んだ店主の藤原栞(ふじわらしおり)は、厨房で静かに小鉢の仕込みを進めている。今日もまた、厳しい任務を終えた王都警備隊の面々や、風変わりな常連客たちが、この小さなオアシスを求めてやってくるはずだ。

そう思って大根の面取りをしていた彼女の耳に、突如として尋常ではない足音が飛び込んできた。


——ダダダダダンッ!

——ガラガラガラッ!!


「お、お師匠様ぁぁぁぁぁぁぁっ!! 助けてください、一生のお願いでございますぅぅぅっ!!」


引き戸が壊れんばかりの勢いで開け放たれ、店内に転がり込んできたのは、純白のコックコートを身に纏った大男だった。

王都の料理人ギルドにおいて頂点に君臨し、公爵邸専属にして宮廷料理長をも務める天才炎魔法使い、ジュリアンである。以前、栞が作った究極の茶碗蒸しの前に己の傲慢さと技術の未熟さを痛感して以来、彼は栞を「お師匠様」と崇め奉り、すっかりこの店の常連——もとい、熱烈な弟子志願者として定着していた。

しかし、普段は自尊心の塊のように胸を張り、優雅な所作を崩さない彼が、今日の今日はまるで嵐に巻き込まれた小舟のように髪を振り乱し、顔を蒼白にして、栞の足元に文字通りすがりついてきたのだ。


「ちょ、ちょっとジュリアンさん!? どうしたんですか、そんなに慌てて。服も泥だらけじゃないですか!」

栞は驚いて大根を包丁ごと置き、ジュリアンの肩を支えようとした。

ジュリアンは涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、すがるような目で栞を見つめた。

「お、お師匠様……! 私の、いえ、我が公爵家とアルカディア王国の威信に関わる、絶体絶命の危機なのです! 明後日、東の果てから強力な同盟国の使者団が王城を訪れることになっておりまして、その歓迎晩餐会の総責任者を私が任されているのですが……!」

「晩餐会のメニューが決まらないんですか?」

「は、はい……。使者団の国は、高い山脈に囲まれた内陸国でして、海を見たことがない者ばかりだそうです。ですから、王都からは最高の『海の幸』と、彼らの国には生えていない『珍しい山の幸』をふんだんに使ってもてなせと、国王陛下から直々に厳命が下りました。……食材の調達は、私自らが極秘のルートを使い、完璧なものを揃えました。しかし……調理法が、どうしても決まらないのです!」

ジュリアンは床に置いた巨大な保冷用の魔法鞄(マジックバッグ)を開けた。

中から現れたのは、大人の腕ほどの太さと長さがある、透き通るような青い殻を持った『大王海老(リヴァイアサン・シュリンプ)』。そして、アルカディアの秘境でしか採れないという、春の訪れを告げる前に雪の下で芽吹く幻の山菜『雪解けタラの芽』や『黄金蓮根』といった、途方もなく高価で希少な食材の数々だった。


「素晴らしい食材じゃないですか。ジュリアンさんの得意な炎魔法で、一気に香ばしくローストすれば最高のご馳走になるのでは?」

「そ、それがダメなのです!」

ジュリアンは頭を抱えて呻いた。

「お師匠様の茶碗蒸しを食べてからというもの、私の料理哲学は完全に覆されてしまいました。これらの繊細な甘みを持つ海老や山菜を、私の力任せな炎魔法で数百度に熱してしまえば、外側は焦げ、強烈な脂の匂いで食材本来の繊細な香りがすべて消し飛んでしまう! かといって、ただ出汁で煮込むだけでは、せっかくの『ご馳走』としての華やかさとパンチに欠ける……! 私は、食材の命を最大限に活かしつつ、使者たちを圧倒するような強烈な美味しさを持つ調理法が、どうしても見つけられないのです!」

かつての彼であれば、迷うことなく強い香辛料を塗りたくり、業火で焼き上げて「これが宮廷の味だ」と豪語していただろう。だが、和食の奥深い『旨味』と『温度管理』を知ってしまった今の彼には、素材を暴力的に破壊するだけの調理法がどうしても許せなくなっていたのだ。

料理人として成長したからこその、深い深いスランプであり、苦悩であった。


栞は、ジュリアンのその真摯な姿勢と、食材に向き合う誠実な思いを受け止め、ふわりと優しく、そして頼もしく微笑んだ。

「……ジュリアンさん。あなたが素材の味を大切にしたいと心から思えるようになったこと、私はとても嬉しいです」

「お師匠様……」

「海老の甘みと、山菜のほろ苦い香り。それらを一切逃すことなく、一つの衣の中に完璧に『閉じ込める』魔法の調理法が、私の故郷にはあります。……今日は特別に、その極意をあなたに伝授しましょう」

「と、閉じ込める魔法……!?」

ジュリアンが目を輝かせる。

栞は割烹着の袖をキリッとまくり上げ、カウンターの奥から深めの天ぷら鍋を取り出した。

「和食の華であり、引き算の美学の極致。……『天ぷら』を作ります!」


栞はすぐさま下ごしらえに取り掛かった。

まずは大王海老だ。ミスリルの包丁を使い、硬い殻を丁寧に剥いていく。背中にスッと包丁を入れて背ワタを取り除き、腹側に数カ所、浅く斜めに切れ込みを入れる。

「海老をまっすぐに揚げるための隠し包丁です。こうして筋を切っておかないと、熱を通した時にクルンと丸まってしまい、見た目の華やかさが失われてしまいますからね」

次に、雪解けタラの芽や黄金蓮根といった山菜類。これらは水で丁寧に洗い、水気を完璧に拭き取る。水分が残っていると油が跳ねるだけでなく、衣がベチャッとなってしまうのだ。


「そして、天ぷらの命である『衣』を作ります。ジュリアンさん、よく見ていてくださいね」

栞は大きめのボウルに、冷蔵庫でキンキンに冷やしておいた『冷水』を注ぎ、そこに卵を一つ割り入れてよくかき混ぜた。そして、あらかじめふるいにかけて空気を含ませておいた小麦粉を、数回に分けてバサバサと投入する。

「ここで絶対にやってはいけないのが、『混ぜすぎること』です」

栞は太い菜箸を使い、小麦粉を練るのではなく、切るようにしてざっくりと合わせるだけにとどめた。ボウルの中には、まだ小麦粉のダマがたくさん残っている状態だ。

「えっ!? お、お師匠様、まだ粉の塊がたくさん残っております! これでは滑らかな衣にならないのでは!?」

ジュリアンが驚いて指摘するが、栞は首を横に振った。

「これでいいんです。小麦粉を練りすぎると『グルテン』という粘り成分が出てしまい、揚げた時に重たくて硬いフリッターのような衣になってしまいます。サクサクで羽根のように軽い衣を作るためには、冷たい水で、あえてダマが残るくらいにざっくりと合わせるのが絶対の鉄則なんですよ」

「な、なんと……! あえて不完全に混ぜ合わせることで、最高の食感を生み出すというのか……!」


次に、天ぷら鍋にたっぷりの油を注ぐ。

栞が選んだのは、癖のないサラダ油に、香ばしさを加えるための『ごま油(太白ごま油)』を絶妙な比率でブレンドした特製の揚げ油だ。

コンロの火をつけ、油の温度を上げていく。

「天ぷらは、ただの『揚げ物』ではありません」

栞は菜箸の先から衣を油に一滴落とし、温度を測る。衣が鍋の底まで沈み、すぐにフワッと浮き上がってくる。温度は百七十度から百八十度の間。完璧な黄金の温度帯だ。

「高温の油の中で、衣の水分が一気に蒸発してサクサクのバリアを作ります。そして、そのバリアの中で、食材が自分自身の持っている水分で『蒸される』のです。……つまり天ぷらとは、油を使った究極の『蒸し料理』なんですよ」


「究極の、蒸し料理……!!」

ジュリアンはその言葉に雷に打たれたような衝撃を受けた。油の中に沈めるという暴力的な行為が、実は内部を優しく蒸し上げるための魔法の結界を作る作業だったとは。


「いきますよ!」

栞は大王海老の尻尾を持ち、衣のボウルにサッとくぐらせると、熱された油の海へと静かに、滑らせるようにして投下した。


——ジュワァァァァァァァァッ!!!


凄まじい音と共に、鍋全体に無数の細かい気泡が花を咲かせたように弾け広がり、ごま油の極上の香ばしさが厨房の空気を一瞬にして支配した。

栞は菜箸を持ち、油の中で踊る海老の周囲に、さらに指先で衣のしずくをピチッ、ピチッと弾き入れた。

「これは『花を咲かせる』という技法です。こうすることで衣に複雑な突起ができ、よりサクサクとした食感と、見栄えの豪華さが生まれるんです」

油の中の気泡の音が、最初は低く大きな「ジュワワワッ」という音だったものが、次第に高く軽やかな「チリチリチリッ」という音に変化していく。食材内部の余分な水分が抜け、旨味だけが凝縮されたという、天ぷら鍋からの合図だ。

「今です!」

栞は絶妙なタイミングで大王海老を油から引き上げ、網の上に乗せてしっかりと油を切る。

続いて、タラの芽や蓮根といった山菜も次々と油に投入し、それぞれの食材が持つ個性に合わせた秒数で、完璧な薄緑色と黄金色の衣を纏わせて引き上げていった。


「完成です」

栞は、美しい和紙を敷いた漆黒の皿の上に、揚げたての天ぷらを芸術的な立体感を持たせて盛り付けた。

中心にそびえ立つのは、衣の花を纏って黄金色に輝く巨大な大王海老。その周囲を、鮮やかな緑色が透けて見えるタラの芽と、美しい穴の模様が見える蓮根が囲んでいる。

「これには、重たいソースは不要です。鰹と昆布の出汁に、みりんと醤油を合わせた温かい『天つゆ』と、すりおろした大根おろし。あるいは、こちらのミネラルたっぷりの『粗塩(あらじお)』をほんの少しつけるだけで食べてください。……さあ、熱いうちにどうぞ」


ジュリアンは、震える手で箸を持ち、まずは雪解けタラの芽の天ぷらをつまみ上げた。

ほんの少しだけ粗塩をつけ、口に運ぶ。


——サクゥッ!!


「…………ッ!!!」

ジュリアンの瞳孔が極限まで見開かれた。

耳の奥まで心地よく響く、羽毛のように軽い衣の破砕音。

そして次の瞬間、衣というバリアの中で完璧に『蒸し上げられていた』タラの芽の持つ、強烈な春の息吹と、大地のエネルギーを感じさせる鮮烈なほろ苦さが、口内へと爆発的に溢れ出したのだ。

油の香ばしさが、山菜の青臭さを完全に打ち消し、旨味だけを何十倍にも引き上げている。塩のしょっぱさが輪郭を引き締め、噛むほどにみずみずしい山の香りが鼻腔を抜けていく。

「す、素晴らしい……! なんだこの衣の軽さは! 全く油っぽくない! むしろ、衣があるからこそ、山菜の香りが一滴も逃げずに、口の中に入った瞬間に初めて弾ける仕組みになっているのか!」

ジュリアンは興奮のあまり立ち上がり、今度は巨大な大王海老の天ぷらを、温かい天つゆにサッとくぐらせてから大きく頬張った。


——ザクッ、プリッ!


「ああっ……! 海老の甘みが……海老の甘みが、極上のスープのように溢れてくる!」

ジュリアンは涙を流しながら絶叫した。

高温の油で瞬時に衣の壁を作られた海老は、その内部で己の水分だけで蒸されることにより、パサつくことなく、信じられないほどのプリプリとした弾力と、限界まで濃縮された濃厚な甘みを保持していた。

それが、天つゆの持つ出汁の旨味と大根おろしのさっぱり感と絡み合い、味覚のオーケストラとなって彼を圧倒する。

素材の味を火炎魔法でねじ伏せるのではなく、素材の命を衣で優しく包み込み、出汁と塩という極限まで削ぎ落とされた『引き算の美学』で味わい尽くす。

これこそが、内陸から来る使者たちに海と山の真の豊かさを伝えるための、唯一無二の究極の調理法であった。


「お師匠様……! 見えました、私には晩餐会で歓喜の涙を流す使者たちの姿が、はっきりと見えます! この『天ぷら』という魔法の衣があれば、アルカディアの食材は無限の可能性を放つことができる!」

ジュリアンはその場にひれ伏し、額を床にこすりつけて栞に深い感謝の意を示した。

「本当に、本当にありがとうございます! このご恩は、私が宮廷料理長である限り、生涯忘れません! すぐに城に戻り、使者たちを圧倒する天ぷらの特訓に入ります!」


ジュリアンは嵐のように店に飛び込んできた時と同じ凄まじい勢いで、天ぷらの技法を記したメモと保冷バッグを抱え、夜の路地裏へとすっ飛んでいった。

「あはは……頑張れ、宮廷料理長さん。火傷には気をつけてね」

栞は、嵐が去った後の静かな厨房で、残った天ぷらをつまみ食いしながらクスリと笑った。


数日後。

王城で開かれた同盟国の使者歓迎晩餐会は、歴史に残る大成功を収めたという。

海の幸を知らない使者たちは、ジュリアンが揚げた大王海老のサクサクの天ぷらを一口食べた瞬間、あまりの感動に立ち上がって拍手喝采を送り、アルカディア王国との強固な同盟をその場で即決したのだ。

後日、山ほどの金貨の報酬と、王家の紋章が入った最高級のワインを手土産に、再び泣きながら店に飛び込んでくるジュリアンの姿があったが、それはまた別の賑やかな夜のお話。

小料理屋『結』は、今日も異世界のあらゆる悩みを、美味しい和食の魔法でサクサクと解決し続けている。

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