第16話:裏口の危機と、極上の賄いチャーハン
日本の昼下がり。
路地裏の雑居ビルの一角にある、表向きは存在しないはずの小料理屋『結』の裏口である勝手口から、けたたましい台車の音が聞こえてきた。
「ちわーっす! 毎度おなじみ、リカーショップサトウの配達でーす!」
鉄扉がガチャリと開き、首にタオルを巻いた酒屋の配達員、浩太が元気よく入ってきた。彼の押す台車には、純米酒の一升瓶が詰まったプラスチックケースが三段、さらに業務用の一斗缶に入った丸大豆醤油、大容量の本みりんと料理酒のペットボトルが山のように積まれている。
「いらっしゃい、浩太さん。今日もたくさんありがとう」
厨房の奥から真っ白な割烹着姿の栞が顔を出し、にこやかに微笑んだ。
「まいどありっす。よいしょっと……」
浩太は手慣れた様子で重たいケースや一斗缶を下ろし、厨房の指定された場所へと納品していく。しかし、その作業を進める浩太の表情は、いつものような明るい営業スマイルではなく、どこか険しく、疑念に満ちたものだった。
「……栞ちゃんさ」
最後のケースを下ろし終えた浩太は、腰に手を当てて真っ直ぐに栞を見た。
「ん? どうしたの?」
「いや、あのさ。前の時……ほら、一週間前に俺が怪しんだ時、栞ちゃんは『北欧のお金持ちのコスプレイヤーたちがパトロンになってて、毎晩貸し切りで大宴会をしてる』って言ったよね?」
「ええ、言ったわね。皆さんとっても日本文化が大好きで、すごくよく召し上がるのよ」
栞は顔色一つ変えずに、極上の作り笑い(営業スマイル)を貼り付けた。一度ついた嘘は、死ぬまで突き通さなければならない。相手は異世界から来る本物の甲冑騎士や魔法使いやドワーフなのだと言っても、浩太が信じるわけがないのだから。
「俺もね、あの大金(前払い金)をもらった手前、その話を信じようと努力したんだよ。世の中にはいろんな趣味の人がいるし、羽振りのいい外国人が毎晩集まる隠れ家があってもおかしくないって」
浩太は腕を組み、真剣なトーンで言葉を紡いだ。
「でもさ……どうしても、物理的な計算が合わないんだよ」
「け、計算?」
「酒の減りが早すぎるのは、まだ百歩譲って理解しよう。アルコール依存症ギリギリのザルみたいな外国人が十人くらい集まれば、一晩で樽が空くこともあるかもしれない。でもね……」
浩太は、ドンッと足元の醤油の一斗缶(十八リットル入り)を指差した。
「醤油とみりんの減り方、いくらなんでも異常すぎるよ。先週一斗缶で納品したばかりなのに、なんで今日また追加発注が来るの? カウンター十席の店で、一週間で十八リットルの醤油を消費する? その外国人たち、グラスに醤油注いでロックで飲んでるの?」
「の、飲んでないわよ! うちのお料理がおいしくて、皆さんおつゆまで全部残さず飲んでくれるから……」
「おでんの汁だってそんなに減らないよ! それに、店の外から全然お客さんの出入りが見えないのもおかしい。実はこの店の奥って、地下帝国みたいな巨大空間に繋がってたりするんじゃないの?」
浩太の推理は、ある意味で的を射ていた。地下帝国ではないが、異世界の王都アルカディアという巨大空間に繋がっているのだから。
だが、ここで肯定するわけにはいかない。
「ちょ、ちょっとちょっと! 探偵ごっこはやめてよね。うちは健全な小料理屋なんだから!」
「いや、俺は自分の目で確かめるまでは納得しないからね! 今日こそ、その表の客席側をしっかり見せてもらうよ!」
浩太が強引に厨房の奥へ、つまり『表の扉』がある方向へと足を踏み出そうとした。
「っ……!!」
栞の背筋に、氷のような悪寒が走った。
今の時間、店内の換気をするために、栞は表の引き戸を全開にしてしまっているのだ。
もし浩太が厨房を抜けて客席側に行き、開け放たれた扉の外を見てしまえば、そこには日本の路地裏ではなく、石畳と馬車が行き交い、獣人や魔法使いが歩くファンタジー世界の光景が丸見えになってしまう。
日本の一般人である浩太に、異世界の風景を見せるわけには絶対にいかない。
「だ、ダメぇぇぇっ!!」
栞は猛烈な勢いで浩太の前に立ち塞がり、その胸板に両手を押し当てて必死に押し返した。
「な、なんだよ栞ちゃん! やっぱり何か隠してるんじゃん!」
「違うの! 今はダメ! 表の席は……その、ものすごく散らかってて、女の子として絶対に見られたくない下着とか干してあるから!」
「飲食店で下着干さないでしょ!? 言い訳が雑すぎるよ!」
浩太が強行突破しようとする。力では当然、大人の男性である浩太に勝てるはずがない。
絶体絶命のピンチ。
どうする。どうやってこの酒屋の配達員の意識を、表の扉から逸らすか。
栞の視界の端に、今朝ミレイユが「物々交換のお代です!」と言って置いていった『ある食材』が飛び込んできた。
それは、ダチョウの卵をさらに一回り大きくしたような、表面に微かな鱗模様のある赤茶色の巨大な卵だった。ミレイユ曰く『飛竜の卵』。山奥の巣から命がけで盗んできたという、魔力をたっぷりと含んだ超高級食材である。
「浩太さん!! お腹、空いてない!?」
栞は突然、大声で叫んだ。
「えっ? いや、まぁ……お昼時だし、これ終わったらコンビニで弁当でも買おうかと……」
「コンビニ弁当なんてダメ! 私、ちょうど今から最高の『まかない』を作るところだったの! 浩太さんも食べていって! お代はいらないから!」
栞は浩太の腕を掴み、裏口付近にある休憩用のパイプ椅子に無理やり座らせた。
「えっ、ちょ、ちょっと栞ちゃん……」
「ここで大人しく待ってて! 絶対立ち上がっちゃダメだからね! 三分で作るから!」
浩太をパイプ椅子に固定し、栞は疾風のような速さで厨房のコンロの前に立った。
作るものは一つ。和食の板前である栞が、忙しい修業時代に先輩たちに振る舞い、絶賛されていたスピードと火力の料理。
——『極上の黄金チャーハン』である。
栞はまず、まな板の上にあった『飛竜の卵』を手に取った。
殻が異常に硬いため、ドランからもらったミスリル包丁の『峰』の部分を使って、ガンッ! と思い切り叩き割る。パカッと割れた殻の中からボウルに流れ落ちたのは、普通の鶏卵の十倍はあろうかという量の、信じられないほど濃厚で、オレンジ色を超えて赤に近い『黄金色』の黄身と、プルプルの白身だった。
「すごい粘度……。魔物とはいえ、これは間違いなく最高の卵ね」
栞は菜箸を使い、空気をたっぷりと含ませるように素早く卵液を溶きほぐした。
次に用意するのは、角煮を作った時に余った豚バラ肉を細かく刻んだ『自家製チャーシュー』と、みじん切りにした長ネギ。そして、少し硬めに炊いておいた冷やご飯。
準備は完了だ。
栞は和食の板前でありながら、なぜか厨房に常備している使い込まれた『鉄の中華鍋』を取り出し、強火のコンロにドンッと乗せた。
炎が鍋底を舐め上げ、鉄がカンカンに熱せられる。
そこへ、お玉一杯の純正ラード(豚脂)を投入した。
——ジュワァァァァァッ!!
ラードが一瞬で溶け、香ばしい煙が立ち昇る。
十分に鍋が熱されたことを確認し、栞は飛竜の卵液を一気に流し込んだ。
バチバチッ! と激しい音を立てて、黄金色の卵が瞬時に膨らみ上がる。卵が完全に固まる前に、すかさず冷やご飯を投入。
ここからは、時間との勝負だ。
栞は中華鍋の柄を握り、手首のスナップを利かせて鍋を前後に激しく煽った。
ガチャン、ガチャンという鉄と五徳がぶつかる勇ましい音が厨房に響き渡る。お玉の背を使ってご飯の塊を叩き潰し、宙に舞わせながら、米粒の一つ一つに飛竜の濃厚な卵をコーティングしていく。
「す、すげぇ……」
パイプ椅子に座らされた浩太は、栞の鮮やかな中華鍋さばきに目を奪われ、先ほどの疑念をすっかり忘れて見入ってしまっていた。小柄な彼女のどこにこんな筋力があるのかと思うほど、重たい鉄鍋がリズミカルに宙を舞っている。
ご飯がパラパラになり、全体が美しい黄金色に染まったところで、自家製チャーシューとネギを投入。さらに鍋を煽り、ラードの香ばしさとチャーシューの旨味、ネギの風味を一体化させる。
味付けは、塩と少量の白コショウのみ。飛竜の卵の圧倒的なコクを活かすため、余計な調味料は使わない。
そして仕上げだ。
栞は、浩太が納品したばかりの一斗缶から醤油差しに移した丸大豆醤油を手に取った。
鍋肌に沿って、醤油をひと回し。
——ジュワッ!!
熱せられた鉄鍋に触れた醤油が一瞬で焦げ、むせ返るような、そして暴力的なまでに食欲をそそる『焦がし醤油』の香りが、爆発的に厨房を満たした。
その香りをチャーハン全体に纏わせるように、最後にもう二度、三度と鍋を大きく煽る。
「よしっ!」
栞は火を止め、お玉を使ってチャーハンをすくい上げると、真っ白な丸皿の上にこんもりと美しい半球状に盛り付けた。
パラパラの米粒が、飛竜の卵によって文字通り黄金に光り輝いている。
「お待たせしました! 当店特製、『まかない黄金チャーハン』です!」
栞はレンゲを添えて、湯気を立てるチャーハンを浩太の膝の上に置いたお盆に乗せた。
浩太は、ゴクリと喉を鳴らした。
目の前にあるのは、具材こそシンプルだが、今まで見たどのチャーハンよりも輝きを放っている一皿だった。ラードと焦がし醤油、そして異常に濃厚な卵の香りが、浩太の嗅覚を蹂躙し、脳内の『食欲』という本能を激しくノックしている。
「こ、これ……本当に俺が食べていいの?」
「もちろん! 冷めないうちに早く食べてみて!」
栞の言葉に押され、浩太は震える手でレンゲを持ち、黄金色の山を崩した。
パラッ、と見事なまでにほどける米粒。
レンゲにたっぷりとすくい上げ、大きく口を開けて一気に放り込む。
「…………ッ!!!」
浩太の瞳孔が、極限まで見開かれた。
口の中に入った瞬間、パラパラの米粒が舌の上で踊り、その一粒一粒にコーティングされた『卵のコク』が、信じられないほどの威力で味蕾を爆撃したのだ。
ただの鶏卵ではない。飛竜の卵が持つ、大空を支配する魔物の圧倒的な生命力と旨味が、ラードの甘みと完全に融合している。濃厚。あまりにも濃厚だ。それでいて、焦がし醤油の香ばしさと塩気が全体をピリッと引き締めているため、決してしつこくない。
噛みしめれば、自家製チャーシューから八角や生姜の微かな風味が溶け出し、さらに味の次元を一段階引き上げる。
「な、なんだこれ……! なんだこれぇぇぇっ!?」
浩太は叫びながら、二口目、三口目と、猛烈な勢いでレンゲを動かし始めた。
「美味い! 美味すぎる! こんなにパラパラなのに、パサパサしてない! 卵の味が……普通の卵の十倍くらい濃いぞ!? 栞ちゃん、これ本当にただのまかない!? 三ツ星の中華料理店でも絶対に出せない味だよ!!」
「ふふっ。お口に合ったみたいでよかったわ。日本の養鶏場から仕入れた、ちょっと特別な卵を使ってるからね」
嘘である。異世界の飛竜の巣からかっさらってきた卵である。
しかし、そんなことは今の浩太にとってどうでもよかった。
飛竜の卵が持つ魔力的な美味しさは、浩太の脳から『店の不審な点』『大量の調味料の行方』『奥の部屋の謎』といった、すべての理性的思考を完全に溶かし去っていたのだ。
「うめぇ……うめぇよ……。こんな美味いもん食わせてもらって、俺、配達員やってて本当によかった……」
浩太は涙目になりながら、ガツガツとチャーハンをかき込む。
頭の中はすでに幸福感で満たされており、先ほどまでの鋭い探偵のような表情は見る影もなく、ただただ美味しいご飯に夢中な青年に戻っていた。
「……はぁっ。ごちそうさまでした!」
あっという間に皿をピカピカに舐めるように完食した浩太は、ふうと大きな息を吐いて満足げにお腹をさすった。
「いやぁ、最高だった。栞ちゃんの料理の腕は、やっぱり神がかってるよ。こんな美味しいチャーハン、人生で初めて食べた」
「お粗末様でした。浩太さんがいつも美味しいお酒や調味料を運んでくれるおかげよ」
栞がお茶を出すと、浩太はそれをズズッとすすり、ニコッと笑った。
「なんか、さっきは色々疑ったりしてごめんね。こんなに美味しい料理を作ってる栞ちゃんが、悪いことなんかしてるわけないよな。大量の調味料だって、これだけ美味しい料理を作るなら、そりゃあたくさん使うに決まってるし!」
「……え、ええ。そうよ。出汁を引くのにもたくさん使うしね!」
「うんうん、納得した! 表の席も見なくていいや! じゃあ、俺は午後の配達があるから戻るね! これからもガンガンうちの酒と醤油を使ってよ!」
浩太はすっかり上機嫌で立ち上がり、空の台車を押して裏口の鉄扉へと向かった。
「ごちそうさま! また来週来るからねーっ!」
ガチャリ、バタンッ。
浩太の明るい声と共に、鉄扉が閉まり、日本の喧騒が遮断された。
静寂が戻った厨房。
栞は、その場にズルズルと崩れ落ちた。
「……はぁぁぁぁぁぁっ。あぶな、かったぁぁぁ……」
額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。
飛竜の卵というチート食材を使ったチャーハンの圧倒的な美味さによる、文字通りの『思考放棄』。今回もなんとか料理の力で乗り切ったが、こんな綱渡りがいつまでも続くとは思えない。
いつか浩太に異世界の存在がバレてしまう日が来るのではないか。
「……でも、まあ。その時はその時で、また美味しいものを食べさせて誤魔化すしかないわね」
栞は空になったチャーハンの皿を見つめ、クスリと笑った。
どんなトラブルも、美味しいご飯があればなんとかなる。それが、小料理屋『結』の絶対的なルールなのだから。
栞は立ち上がり、気を取り直して夜の営業の仕込みを再開する。表の引き戸の向こうからは、ファンタジー世界の心地よい風が、静かに厨房へと吹き込んでいた。




