第15話:二日酔いの警備隊と、胃に優しいしじみ汁
静かな午後。開店時間を少し後に控えた『小料理屋 結』の厨房では、シャラシャラ、という涼しげな音が響いていた。
店主である栞が、ボウルの中で黒褐色の小さな二枚貝をこすり合わせるようにして洗っている音だ。
日本のスーパーマーケットの鮮魚コーナーでパック詰めされて売られている、ごくありふれた食材——『シジミ』である。
シジミの調理において、最も重要かつ手間の掛かる工程が「砂抜き」だ。海水程度の濃度の塩水に浸し、暗い場所に数時間置いておくことで、シジミは呼吸と共に体内の砂を吐き出す。しかし、栞の仕込みはそこで終わらない。砂を吐かせたシジミを綺麗に水洗いした後、ジップロックなどの密閉袋に入れ、一度『冷凍庫』でカチカチに凍らせるのである。
「よし、このくらいでいいわね」
栞は冷凍庫から、昨日から凍らせておいた別のシジミの袋を取り出した。
シジミは冷凍することで、細胞内の水分が凍って膨張し、細胞壁が破壊される。すると、旨味成分であるコハク酸や、肝臓の働きを助ける奇跡のアミノ酸『オルニチン』が細胞の外へと溶け出しやすくなり、栄養価も旨味も何倍にも跳ね上がるのだ。これは、現代日本の科学が証明した、家庭でもできる最高の調理ハックである。
異世界のお客さんたちは、とにかくよく飲む。彼らの肝臓を労わるためにも、シジミのストックは小料理屋にとって必須アイテムと言えた。
そんな仕込みの最中。
時刻はまだ午後四時を回ったばかりで、暖簾も出していないというのに、表の引き戸が重々しい音を立てて開いた。
——ガラガラガラ……。
いつもなら「女将! やってるか!」と威勢の良い声が飛んでくるはずだが、今日は違った。
「う、うぅ……あぁぁ……」
「隊長……俺、もうダメです。胃袋が口から飛び出そうです……」
「光が……光が脳髄に突き刺さる……頭が割れる……」
地獄の底から這い出してきた亡者のような呻き声と共に、三人の大男が店内に転がり込んできた。
王都警備隊第三部隊隊長のバルトルトと、その部下であるクラウスとマルコの三人である。
しかし、今日の彼らはかつてないほどに悲惨な状態だった。立派な鎧は着ておらず、ダルダルの私服姿。顔面はロウ細工のように蒼白で、目の下にはどす黒いクマができ、両手で頭を抱えながら、生まれたての小鹿のように足元をフラつかせている。
どう見ても、重度の『二日酔い』である。
「ちょっと、三人ともどうしたんですか!? 顔色が最悪ですよ!」
栞が慌てて厨房から飛び出すと、バルトルトはカウンターの丸椅子に縋り付くようにして突っ伏し、かすれた声で答えた。
「女将……助けてくれ……俺たちは、毒を……毒を飲まされたんだ……」
「ど、毒!? 大変、お医者さんか回復魔法使いを呼ばないと!」
「違うんです、女将さん……」
隣で突っ伏したクラウスが、うわ言のように呟いた。
「昨日の夜……王城で、上位貴族様の主催する大宴会があって……俺たち下っ端警備隊も、護衛兼、賑やかしとして駆り出されたんです……。そこで、終わりの見えない宴に付き合わされて……」
マルコが涙声で引き継ぐ。
「出された酒が、最悪だったんです……。貴族様たちは上等なワインを飲んでるのに、俺たちに配られたのは、粗悪な密造酒みたいなエールや、変な香草で甘ったるく誤魔化した悪酔い確実の安酒ばっかりで……。しかも『飲まないのは不敬だ』って、朝まで一気飲みの強要ですよ……。俺たちの肝臓は、完全に破壊されました……」
要するに、理不尽な上司の飲み会で、質の悪い酒を朝まで飲まされ続けた結果の、地獄の二日酔いである。
異世界の醸造技術はピンキリであり、安酒には不純物が多く含まれていることが多い。それを致死量ギリギリまで飲まされれば、屈強な騎士の肉体であってもひとたまりもないだろう。
「……なるほど。完全な二日酔いですね。お水、飲みますか?」
「水すら……受け付けねぇ……。胃が……胃の中でオークが暴れ回ってるみたいに気持ち悪い……。女将、なんでもいい……この地獄の苦しみを、和らげてくれるものを……うっぷ」
バルトルトが口元を押さえ、危険な音を立てる。
「わかりました! ここで吐かないでくださいね! すぐに最高のお薬を作りますから!」
栞はダッシュで厨房へと戻った。
二日酔いで荒れ狂う胃腸と、悲鳴を上げている肝臓。
これらを優しく鎮め、急速に回復させるための特効薬といえば、和食の世界では一つしかない。
栞は先ほど仕込みを終えたばかりの、冷凍シジミの袋を手に取った。
鍋に水を張り、凍ったままのシジミをザラザラと投入する。
シジミの味噌汁を作る時の鉄則は『水から煮る』ことだ。熱湯から入れると貝の口が急激に閉じてしまい、旨味が外に出なくなってしまう。水からじっくりと火を入れることで、シジミは鍋の中でゆっくりと口を開き、その身に蓄えた極上のエキスをスープの中へと放出していくのだ。
中火にかけ、しばらくすると、鍋の中からパチン、パチンという小さな音が聞こえ始めた。
シジミが口を開く音だ。
同時に、お湯がほんのりと白濁し始め、潮の香りと深い旨味の匂いが立ち昇る。
アクを丁寧にすくい取り、沸騰する直前で火を弱める。グラグラと煮立たせてしまうと、シジミの身が縮んで硬くなり、風味も飛んでしまうからだ。
「よし、お出汁は完璧。ここに合わせるお味噌は……今日は二日酔い用だから、やっぱりこれね」
栞が選んだのは、長期熟成されたコクのある『赤味噌』と、大豆の風味が豊かな『信州味噌(白味噌)』の合わせ味噌だ。
赤味噌に含まれるメラノイジンという成分は、胃腸の粘膜を保護し、アルコールの分解を助ける働きがある。二日酔いの迎えに飲む味噌汁として、これ以上理にかなった調味料はない。
お玉の上で味噌を丁寧に溶き入れ、鍋全体に馴染ませる。
味噌は決して沸騰させてはいけない。フワリと味噌の香りが立ち、鍋の表面が微かに波打つ『煮え花』の瞬間を見極め、栞は火を止めた。
シジミから溶け出したオルニチンと琥珀酸の旨味、そして味噌のアミノ酸が融合した、極上の『しじみ汁』の完成である。
だが、栞の処方箋はこれだけでは終わらない。
二日酔いの朝に不足しているのは、水分と塩分、そして低下した血糖値を補うための炭水化物だ。
栞は炊飯器から炊きたての白米を取り出し、手に塩をつけて素早くおにぎりを握り始めた。中に入れる具材は、日本の伝統的な保存食であり、疲労回復の王様——『梅干し』である。
紀州南高梅の、果肉がたっぷりとついた酸っぱい梅干し。これに含まれるクエン酸が、疲れ切った身体のエネルギー代謝を劇的に改善し、荒れた胃の働きを正常に戻してくれるのだ。
海苔をパリッと巻き、大きめの梅干しおにぎりを作る。
「お待たせしました。当店特製、二日酔い撃退セットです」
栞は、カウンターでうめき声を上げている三人の前に、お盆を並べた。
黒いお椀の蓋を開けると、フワァァッと白い湯気と共に、磯の香りと味噌の芳醇な匂いが立ち昇った。お椀の中には、小さなシジミがたっぷりと沈んでおり、白濁したスープが琥珀色に輝いている。
隣の小皿には、真っ黒な海苔に巻かれた、美しい三角形の梅干しおにぎり。
「しじみの味噌汁と、梅干しのおにぎりです。まずは、お汁からゆっくりと飲んでみてください。肝臓に直接効く魔法の成分がたっぷり入ってますから」
バルトルトは震える両手で、熱々のお椀を包み込むように持ち上げた。
ズキズキと痛む頭と、吐き気を催す胃袋が、食べ物を受け付けるかどうか不安だった。しかし、鼻をくすぐる味噌とシジミの香りは、不思議と胃のむかつきを抑え、むしろ『これを飲めば助かるかもしれない』という本能的な欲求を呼び起こした。
バルトルトは、お椀に口をつけ、ズズッ……とスープを一口すすった。
「…………ぁ」
バルトルトの瞳孔が、極限まで見開かれた。
口の中に広がったのは、強烈なまでの『旨味』だった。
小さな貝から出たとは思えないほど、深く、濃厚で、それでいてどこまでも澄み切った海の風味。それが、味噌の塩分と大豆のコクに包まれて、食道を滑り落ちていく。
熱い。
だが、その熱さが心地よい。
胃の腑に到達した瞬間、シジミのスープはまるで乾ききった砂漠に水が染み込むように、ズンッ! と音を立てて内臓全体へと浸透していった。
オルニチンが血流に乗って肝臓へと運ばれ、アルコールの分解で悲鳴を上げていた細胞たちに、強烈な活力を与えていくのが、物理的な感覚としてはっきりとわかる。
「お、おおおおおおっ……!?」
バルトルトは声にならない呻きを上げながら、二口目、三口目と、すがるようにしじみ汁をすすり続けた。
「隊長!? 大丈夫ですか!?」
クラウスとマルコも慌てて自分のお椀に口をつける。
「…………っ!!」
「な、なんだこれ……! う、美味い……美味すぎる……!!」
二人の若者も、同じように目を見開き、一心不乱にスープを飲み始めた。
「腹の中が……荒れ狂ってたオークが、聖母の抱擁で浄化されていくみたいだ……! 温かい……内臓の隅々まで、命の力が染み渡っていく……!!」
「毒の酒が、全部抜けていく……! なんだこれ、回復魔法のポーションより即効性があるぞ!」
三人の顔色が、みるみるうちに蒼白から血色の良い肌色へと戻っていく。
しじみ汁による圧倒的なデトックス効果。
バルトルトはお椀を半分ほど空けたところで、プハァァァッと、心の底からの深い安堵の息を吐き出した。
「生き返った……。女将、この黒い貝のスープ、とんでもない魔法薬だな。五臓六腑に染み渡るとは、まさにこのことだ」
「ふふっ。それがシジミの力です。お汁を飲んで胃が落ち着いたら、今度はそっちのおにぎりを食べてみてください」
栞に促され、バルトルトはおにぎりを手に取った。
まだ温かい白米と、パリッとした海苔の食感。
大きく口を開け、ガブリと中央部分に食らいつく。
——チュゥゥゥゥンッ!!
「ぬぉぉぉぉぉぉぉっ!!?」
バルトルトの顔面が、一瞬にして梅干しのようにクシャクシャにシワ寄った。
米の中から現れた赤い果肉。それが舌に触れた瞬間、経験したことのない凄まじい『酸味』が、脳髄を直接電撃で撃ち抜いたのだ。
「す、すっぱぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! なんだこの赤い実は!! 口の中が、キュウウウッてなるぞ!!」
「あはは、それが梅干しです。すっぱいでしょう?」
「隊長、大丈夫ですか!? ……って、俺のもすっぱぁぁぁぁっ!!」
「ひぃぃっ! 目が覚めるぅぅっ!!」
クラウスとマルコも、梅干しの強烈な酸味の洗礼を受け、カウンターで身悶えしている。
異世界には果物の酸味はあるものの、塩漬けにして発酵・熟成させた梅干しのような、塩気と強烈な酸味が一体となった保存食は存在しない。二日酔いの弱った脳に、クエン酸の刺激はまさに劇薬のような衝撃を与えた。
だが、その衝撃は決して不快なものではなかった。
強烈な酸味が口内をリセットし、唾液が滝のように分泌される。すると、酸っぱさの奥から、梅が持つフルーティな香りと、おにぎりの塩気、そして白米の圧倒的な甘みが、一気に押し寄せてくるのだ。
「す、酸っぱい……だが、それがいい!」
バルトルトは顔をしかめながらも、二口目にかぶりついた。
「この強烈な刺激の後に来る米の甘さが、たまらなく愛おしい! そして、この酸味の余韻があるうちに、黒い貝のスープを流し込むと……!」
ズズッ。
「くぅぅぅぅぅっ……! 完璧だ。この赤い実と、貝のスープは、互いを高め合うために存在しているのか! 胃袋が、歓喜の歌を歌い始めているぞ!」
梅干しのクエン酸がエネルギー代謝を促進し、シジミのオルニチンが肝臓を癒やし、白米が血糖値を引き上げる。
理にかなった日本の二日酔い特効薬は、異世界の騎士たちの身体を瞬く間に正常な状態へと修復していった。
あっという間にお椀とおにぎりを平らげた三人は、カウンターに突っ伏したまま、しかし店に入ってきた時とは全く違う、満ち足りた表情で天井を仰いでいた。
「……助かった。本当に、死の淵から蘇った気分だ」
バルトルトがおしぼりで顔を拭きながら、深く息を吐く。
「女将。あんたは料理人じゃない。命の恩人だ。王都のどんな名医も、こんなに美味くて即効性のある治療はできねぇよ」
「俺たち、一生女将さんについていきます……」
「今度から、貴族の宴会の後は絶対にこの店に直行します……」
クラウスとマルコも、涙ぐみながら栞を拝み倒している。
「あはは、大げさですね。でも、お酒の飲み過ぎには注意してくださいよ? いくらしじみ汁があるからって、無茶ばかりしてたら身体壊しちゃいますからね」
栞が母親のように苦言を呈すると、大の大人の騎士三人が、揃って「はい……」と反省したように肩を落とした。
その光景がおかしくて、栞は思わずクスクスと笑い声を立てた。
「さて、胃がすっきりしたところで、もう一仕事頑張れそうですか?」
「おう。この魔法のスープのおかげで、昨日の酒が完全に抜けた。むしろ、普段より身体が軽いくらいだ」
バルトルトは立ち上がり、力強く拳を握りしめた。
「よし、お前ら! 無駄な二日酔いで半日潰しちまった分、これから溜まった書類仕事を片付けるぞ! 女将の飯に泥を塗らないよう、気合いを入れろ!」
「「ハッ!!」」
クラウスとマルコも、背筋を伸ばして敬礼する。
彼らはすっかり生気を取り戻し、代金の銀貨をカウンターに置くと、足取りも軽く表の路地裏へと飛び出していった。
その背中を見送りながら、栞は空になったお椀を片付ける。
(……ふふっ。日本のシジミパワー、恐るべしね)
異世界の過酷な労働環境で戦う男たちにとって、この『結』は美味しい料理を提供するだけでなく、傷ついた心と身体を修復する最高の医療施設にもなりつつあった。
お昼の仕込みを再開しながら、栞の厨房には、ほんのりと優しいお味噌の香りがいつまでも漂っていた。次に来る客は、どんな悩みを抱えてこの扉を開けるのだろうか。栞は楽しみにしながら、次の料理の準備へと取り掛かるのであった。




