第1話 そこじゃない
三月の光が、校舎の床に窓枠の影を落としていた。
窓の外では、まだ冷たい風に梅の枝が揺れている。花はほとんど散っていたけれど、ところどころに白いものが残っていた。
高校生活も、あと少し。
大学には受かった。
教室では、進学先や一人暮らしの話が飛び交っている。
家具はどこで買うとか、サークルは何に入るとか、入学式には何を着ていくとか。
みんなもう、次の場所へ向かって歩こうとしていた。
あたし、千波ナナミだけが、その流れの外にいる。
進む道は決まっている。
四月になれば大学へ行く。授業を受けて、たぶんアルバイトをして、何年かしたら就職活動をする。
道順は分かっているのに、そこへ進む意味だけが見えなかった。
「ナナミ」
向かいに座っていたカグラが、スプーンをくるりと回した。
「またボーッとしてる。今度はどこまで行ってた?」
「あ、ばれた?」
「窓の外を見ながら味噌汁飲んでる人、ちょっと怖いよ」
あたしは口元まで持ち上げていた紙パックを机に置いた。
「……なんか、空っぽになっちゃって」
「受験が終わったからじゃない? 燃え尽き症候群ってやつ」
「それもあると思う。でも、そういうのとも少し違うんだよね」
何が違うのか、自分でもうまく説明できなかった。
「お兄ちゃん、就職で家を出たじゃん」
「うん。先週だっけ」
「大学に行って、就職して、一人暮らしして。あたしも、そのうち同じように進むんだろうけど」
そこで言葉が止まる。
「それを目標にしなきゃいけないのかなって思ったら、急に分からなくなった」
「進路は決まったのに?」
「決まったから、かな」
道順なら、すぐに分かる。
校内の避難経路図を一度見れば、廊下や階段の位置を頭の中で組み立てられる。地下街でも立体交差でも、迷ったことはほとんどない。
平面に描かれた線を見ると、その向こう側にある空間が自然と浮かんでくる。
だけど、人生の行き先は地図に描かれていなかった。
「進んでるはずなのに、どこにも近づいてない感じ」
「難しいこと考えてるねえ」
「カグラが考えなさすぎなんだよ」
「失礼な。今日のデザートをプリンにするかゼリーにするか、朝からずっと考えてる」
「それは悩みじゃなくて幸せ」
カグラが笑ったので、あたしも少しだけ笑った。
その笑い声に重なるように、昔の言葉が頭をよぎった。
――ナナミ、そこじゃない。
中学の体育で、何度も言われた言葉だ。
バスケットボールでも、バレーボールでも、あたしは決まって周りと違う場所へ動いてしまった。
ボールが今あるところではなく、次に飛んでくる場所。
相手が今立っているところではなく、数秒後に通ろうとする場所。
あたしには、そちらへ動いた方がいいように見えていた。
でも、実際にボールが来る前に移動すると、みんなにはただ勝手な動きをしているように見える。
「なんでそんなところにいるの?」
「ちゃんとみんなに合わせて」
理由を説明しようとしても、うまく言葉にできなかった。
だって、そうなるように見えたから。
それだけでは、誰にも伝わらない。
こっちはちゃんと考えているのに、いつも共通認識からずれていると言われる。
そのうち、あたしは自分の感覚を口にしなくなった。
どうせ、大した役には立たない。
地図を見て迷わないくらいのことを、特技と呼ぶのも大げさな気がした。
成績は並。
運動もそこそこ。
顔だって、雑誌の誰かの引き立て役になら使えるかもしれない。
平凡。
それが、あたしの全部だった。
◇
その翌日。
学校から帰ると、玄関に大きな段ボール箱が三つ積まれていた。
「なに、これ」
送り状を見る。
送り主は、家を出たばかりのお兄ちゃん。
受取人の欄には、あたしの名前が書かれていた。
一番大きな箱を開けると、黒いパソコン本体が出てきた。
もう一つの箱にはモニター。残りの箱には、キーボード、マウス、ヘッドセットと、大量のケーブルが詰め込まれている。
箱の底に、二つ折りの紙が入っていた。
『高校卒業と大学合格、おめでとう。
使わなくなったPCをやる。合格祝いだと思ってくれ。
ゲームを一つだけ入れてある。
昔、お前が地下通路を見つけたやつだ。
暇だったら、やってみろ』
「地下通路?」
何のことだろう。
首をかしげていると、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。
お兄ちゃんからだった。
「もしもし?」
『よう、ナナミ。荷物届いた?』
「今開けたところ。これ、本当に貰っていいの? 大事にしてたじゃん」
『就職先の部屋、狭いんだよ。新しいノートも買ったしな』
「でも、こんなにいっぱい……」
『一通りそろってる。初期化したあと、必要な設定もしておいた』
「ありがとう」
『手紙、読んだ?』
「読んだけど、地下通路って何?」
電話の向こうで、お兄ちゃんが少し笑った。
『覚えてないのかよ』
「覚えてない」
『俺がゲームしてるところ、お前が後ろから見てたことあっただろ』
「あったかな」
『あったんだよ。俺が何回も後ろから撃たれてたら、お前が地図を見て、地下から回ってきてるんじゃないかって言ったんだ』
「それで?」
『本当に地下への階段があった』
そう言われて、ぼんやりと記憶が戻ってきた。
お兄ちゃんの部屋。
暗い画面。
銃を持った人が、建物の中を走り回っていた。
画面の隅には、小さな地図が表示されていた。
『そのゲームを入れてある。お前、案外向いてるかもしれないぞ』
「地図が読めるだけで?」
『少なくとも、俺よりは読めてた』
「それ、お兄ちゃんが下手だっただけじゃないの?」
『うるさい。とにかく、一回やってみろって』
お兄ちゃんは、父さんと母さんによろしく、と言って電話を切った。
あたしは三つの箱を、順番に自分の部屋まで運んだ。
重かった。
合格祝いというより、ちょっとした引っ越しだった。
机の上を片づけ、モニターを置く。パソコン本体を足元へ運び、キーボードとマウスをつないだ。
お兄ちゃんが使っているところを何度も見ていたので、配線そのものは難しくなかった。ケーブルが「刺さる」場所に刺すだけ。
電源を入れる。
低い音とともにファンが回り、モニターに画面が映った。
デスクトップの隅に、見覚えのないアイコンが一つだけある。
銃を構えた兵士の横顔。
アイコンの下には、英語のタイトルが書かれていた。
ダブルクリックすると、ゲームの起動画面が開いた。
荒れ果てた市街地。
銃を持つ兵士たち。
空を横切る、火を引いた弾丸。
「これが、FPS……」
名前だけは知っていた。
一人称視点で、銃を撃ち合うゲーム。
お兄ちゃんが何度か遊んでいるのを見たこともある。
怖そうだし、難しそうだし、自分からやろうと思ったことは一度もなかった。
それでも、わざわざお兄ちゃんが残したゲームだ。
少しだけなら。
あたしは新しいアカウントを作り、初心者向けと書かれた対戦モードを選んだ。
読み込みが終わる。
画面に銃が映った。
その直後、周囲で一斉に音が弾けた。
銃声。
爆発音。
味方の足音。
画面の前を、人影がものすごい速さで横切っていく。
「速っ……!」
何をすればいいのか、まるで分からない。
とりあえず味方についていこうとしたけれど、壁に引っかかった。
ようやく外へ出たところで、正面から撃たれた。
画面が赤く染まり、そのまま倒れる。
開始から、十秒も経っていなかった。
「なにこれ……」
復活する。
今度は慎重に進んだ。
角から少しだけ顔を出した瞬間、また撃たれた。
次は後ろから。
その次は、どこから撃たれたのかすら分からなかった。
相手の姿を見つけても、照準が追いつかない。
慌ててマウスを動かすと、今度は画面が回りすぎる。
指がキーから外れ、自分がどちらを向いているのかも分からなくなった。
「無理でしょ、こんなの」
自分には向いていない。
お兄ちゃんの勘違いだった。
そう思いかけたとき、画面の左上にある小さな地図が目に入った。
白い線で描かれた、簡単な平面図。
建物が三つ。
中央に広場。
広場の上を横切る渡り廊下。
外側には細い通路があり、二か所の階段が上下の階をつないでいる。
あたしは、動かしていた手を止めた。
「……あ」
頭の中で、線が持ち上がった。
壁に高さが生まれる。
階段が斜めに伸び、二階の通路とつながる。
広場の周囲に積まれた箱。その陰にできる死角。窓から見下ろせる範囲。外周路から建物の裏側へ回り込む道。
一度も歩いていない場所まで、形が浮かんでくる。
見える。
地図の中に、あたしが立っていた。
右耳から、硬い足音が聞こえた。
かん、かん、と金属を踏む音。
二階。
足音は右から左へ移動している。
画面の中に敵の姿はない。
それでも、その人がどこを走っているのか分かった。
二階の渡り廊下。
その先にある階段を下りれば、中央の細い通路へ出る。
味方は広場の正面へ向かっていた。
あたしは反対側へ進んだ。
――ナナミ、そこじゃない。
昔の声が、頭の中によみがえる。
みんなとは違う方向。
味方のいない場所。
ゲームのやり方も分からない初心者が、勝手に離れている。
たぶん、また間違っている。
それでも、足音は確かに近づいていた。
あたしは細い通路の出口が見える場所で止まり、銃を構えた。
照準がふらふらと揺れる。
操作はまだ、全然うまくできない。
一秒。
二秒。
誰も来ない。
「やっぱり、違った……?」
不安になり、銃口を下げかけた。
その瞬間、通路の奥から敵が飛び出してきた。
「あっ」
反射的にマウスを押す。
銃声が連続して鳴った。
最初の弾は壁に当たった。
二発目も外れた。
それでも何発目かが敵に当たり、画面の中央に小さな表示が現れた。
初めての撃破だった。
「……当たった」
呆然としているうちに、別の敵が横から現れた。
何もできないまま撃たれ、あたしのキャラクターは倒れた。
対戦は、そのあとも散々だった。
敵のいる場所が分かっても、銃が当たらない。
曲がる方向を間違える。
慌てて味方に向かって撃つ。
最後に表示された結果は、1キル12デス。
たぶん、参加者の中で一番下手だった。
それなのに。
あたしは、すぐに席を立てなかった。
さっきの光景が、頭から離れない。
地図の線が建物になった。
足音が、その建物の中を走った。
目の前にはまだいなかった敵が、どの道を通り、どこから現れるのか分かった。
偶然じゃない。
あたしは、敵が来る前からそこにいた。
今まで何度も、そこじゃないと言われてきた。
みんなと違う場所に立つたび、間違っているのは自分なのだと思っていた。
だけど、さっきは違った。
敵が現れたのは、あたしが待っていた場所だった。
そこだった。
現実では、次にどこへ進めばいいのか分からない。
四月から何を目指せばいいのかも、どこへ辿り着きたいのかも見えない。
けれど、この戦場では迷わなかった。
敵がどこから来るのか。
どこで待てばいいのか。
あたしには、見えていた。
胸の奥にあった空っぽの場所へ、小さな熱が落ちた。
あたしはマウスを握り直す。
そして、もう一度。
対戦開始のボタンを押した。




