渋滞の帰り道
「もし途中で行きたくなったらどうしよう。」
長距離移動や渋滞の中では、その不安が急に大きくなることがあります。
第5話では、文化祭後の疲れた帰り道を舞台に、“逃げ場のない渋滞”の中での不安と安心感を描きました。
そして今回は、美咲と奈々だけではなく、一人で夜行バスへ乗る小学五年生の男の子も登場します。
年齢が違っても、
* 長距離移動が不安なこと
* 「大丈夫」と思える準備をしたいこと
* 安心できることで落ち着けること
は同じなんだと、二人が少しずつ気づいていく回です。
少し恥ずかしくて、でもどこか優しい空気を感じてもらえたら嬉しいです。
文化祭が終わった次の日。
学校帰りの駅前は、いつもより少し静かだった。
昨日までの賑やかさが嘘みたいに、みんな疲れた顔をしている。
美咲と奈々も例外じゃなかった。
駅前のベンチへ座った瞬間、奈々が大きくため息を吐く。
「……むり。」
「おつかれ。」
「文化祭ってこんな疲れるんだ……。」
奈々はぐったりしたまま空を見上げる。
「足痛いし、眠いし、ずっと立ってたし。」
「でも楽しそうだったじゃん。」
「楽しかった! でも疲れた!」
美咲は思わず笑った。
今日は片付け後の打ち上げもあった。
クラスみんなでファミレスへ行って、気づけばかなり遅い時間になっている。
しかも今日は、駅前で事故渋滞が起きていた。
バス停には長い列。
車道には赤いブレーキランプがずっと並んでいる。
奈々がスマホを見て顔をしかめた。
「うわ……バス全然来ない。」
「ほんとだ。」
『到着遅れ 約25分』
その表示を見て、美咲は少し嫌な予感がした。
今日は疲れていたせいか、ファミレスでドリンクバーをかなり飲んでしまっている。
奈々も同じだったらしく、苦笑いした。
「……なんか、嫌な予感する。」
「私も。」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
⸻
三十分後。
ようやくバスが来た。
でも車内はかなり混んでいた。
立っている人もいる。
「座れただけマシかも……。」
奈々が窓側へ座りながら呟く。
「うん。」
バスは発車した。
でも、少し進んでは止まる。
また少し進んでは止まる。
完全に渋滞だった。
車内アナウンスが流れる。
『道路混雑のため、大幅な遅れが発生しております』
奈々が天井を見上げる。
「終わった。」
「まだ始まったばっか。」
「いや、気持ち的に。」
美咲は吹き出した。
窓の外には赤いランプがずっと続いている。
全然進まない。
疲れているせいか、時間の流れまで遅く感じた。
⸻
二十分ほど経った頃。
奈々が小さく姿勢を変えた。
「……っ。」
美咲はその動きで気づく。
「やばい?」
奈々は苦笑いした。
「……ちょっと。」
「私も。」
奈々はため息を吐きながら窓へ頭を預ける。
「最近こういうの多くない?」
「イベントのたびに何か起きてる。」
「プール、夜行バス、映画館、文化祭……。」
「全部。」
二人は顔を見合わせて笑った。
でも、尿意は少しずつ強くなっていた。
しかも今回は、映画館みたいに“終わる時間”が見えない。
渋滞はまだ続いている。
バスはほとんど動かない。
奈々は小さな声で言った。
「……ねえ。」
「ん?」
「今日はさ。」
奈々は少し照れながら続ける。
「最初から準備してきた。」
美咲は目を丸くした。
「え、ほんとに?」
「うん。」
奈々は恥ずかしそうに笑う。
「文化祭のあと、“もう長距離移動怖い”って思っちゃって。」
美咲は思わず吹き出した。
「奈々、完全に慣れてきてる。」
「いや、安心感がすごいんだもん。」
その言葉に、美咲も頷く。
「分かる。」
実際、美咲も今日は準備していた。
最近は、“念のため”が当たり前になってきている。
昔は隠したくて仕方なかったのに。
でも今は、“不安で苦しくなるより安心できるほうがいい”と思えるようになっていた。
⸻
さらに三十分後。
渋滞はまだ続いていた。
車内はかなり静かになっている。
寝ている人も多い。
エンジン音だけが低く響いていた。
その時。
前の席の男の子が、もぞっと身体を動かした。
大きめのリュックを抱えながら、一人で座っている小学生くらいの子。
奈々は小さく首をかしげる。
「……一人?」
男の子は眠そうな目をこすりながら振り返った。
「……うん。」
「おばあちゃん家から帰る途中。」
美咲は少し驚く。
「一人で?」
男の子はこくっと頷いた。
「五年生だから大丈夫って。」
奈々は「すご……」と小さく呟いた。
男の子は少し照れながら笑う。
「でも、長い移動ちょっと苦手で。」
そう言って、ブランケットを少しだけ引っ張った。
白いウエスト部分がちらっと見える。
「だから履いてる。」
奈々は目を丸くする。
男の子は恥ずかしそうに肩をすくめた。
「普段は普通の白ブリーフだよ。」
その言い方が妙に自然で、奈々は少し吹き出しそうになる。
「でも、夜のバスとか渋滞の時だけ。」
美咲は優しく聞いた。
「不安だった?」
男の子はこくっと頷く。
「前に間に合わなかったことあるから。」
その言葉に、奈々と美咲は顔を見合わせた。
“安心できるように準備する”。
それは自分たちだけじゃなかった。
⸻
その時。
奈々が小さく肩を震わせる。
「……やば。」
「そんなに?」
「うん……。」
かなり限界そうだった。
奈々は苦笑いする。
「ドリンクバー調子乗った……。」
「カルピス三杯飲んでたもん。」
「だって文化祭終わったテンションで……。」
二人は小さく笑う。
でも、奈々の表情はかなり本気だった。
バスが少し揺れる。
その瞬間。
奈々の肩がぴくっと震えた。
「あっ……。」
小さな声。
奈々は慌てて周りを見る。
でも、誰もこちらを気にしていない。
静かな車内。
暗い窓。
その中で、奈々は小さく息を吐いた。
「……もう無理かも。」
美咲はそっと頷く。
「大丈夫。」
奈々は恥ずかしそうに笑ってから、シートへ身体を預ける。
それから、ゆっくり力を抜いた。
じゅっ……。
小さな音。
続いて、
じわぁ……っ……
温かさが広がっていく感覚。
奈々はぎゅっと目を閉じる。
静かな車内だから、自分にははっきり分かる。
しゅわ、じゅわっ……。
少しずつ力が抜けて、張っていた苦しさがゆっくり消えていく。
「……はぁっ。」
奈々は小さく息を漏らした。
顔は真っ赤だけど、その表情はどこか安心している。
「……助かったぁ……。」
そのあと、ふわっと少しだけ空気が変わる。
近くにいると、かすかにおしっこの匂いも混ざっていた。
強いわけじゃない。
でも、自分たちには分かるくらいの、少し温かい空気。
奈々はさらに顔を赤くした。
「……なんか分かる気する。」
美咲は苦笑いする。
「うぅ……なんか余計恥ずかしい……。」
奈々はパーカーの袖で半分顔を隠す。
⸻
その時。
前の席の男の子が、もぞっと動いた。
「……っ。」
小さな声。
美咲がそっと聞く。
「大丈夫?」
男の子は少し照れながら笑った。
「……ちょっとやばい。」
奈々は思わず苦笑いする。
「さっきしたって言ってなかった?」
「したけど、まだちょっと……。」
男の子は恥ずかしそうにリュックを抱え直した。
「渋滞長いから。」
その言葉に、奈々と美咲は顔を見合わせる。
本当に今日はみんな同じだった。
男の子は小さく息を吐く。
「でも、履いてるから大丈夫。」
その声は、自分に言い聞かせるみたいだった。
そして。
バスが少し揺れた瞬間。
男の子の肩がぴくっと震える。
「あっ……。」
小さな声。
次の瞬間。
じゅっ……。
小さい音が、静かな車内へ溶ける。
男の子は顔を赤くしながら、ぎゅっとブランケットを握った。
じわぁ……っ……
少しずつ力が抜けていく。
「……はぁ。」
安心したような息。
奈々は思わず小さく笑う。
「大丈夫?」
男の子は恥ずかしそうに頷いた。
「……うん。」
それから、少し照れながら言う。
「やっぱ安心。」
そのあと、ふわっと少しだけ空気が変わる。
かすかに温かい匂いが混ざる。
男の子はさらに顔を赤くした。
「……ちょっと分かる。」
奈々も苦笑いする。
「うん……。」
でも、不思議と嫌な空気ではなかった。
恥ずかしい。
だけど、“間に合わなくて大変になる不安”が消えた安心感のほうが大きい。
男の子は小さく笑う。
「ぼく、一人だったからちょっと怖かった。」
奈々はその言葉を聞いて、少しだけ表情を柔らかくした。
「……でも今は?」
男の子は眠そうに目を細める。
「なんか安心。」
その答えに、美咲も小さく笑った。
⸻
その言葉を聞きながら、美咲もゆっくり息を吐いた。
自分もかなり限界だった。
でも、“大丈夫”と思えるだけで、焦り方が前とは全然違う。
前みたいなパニックじゃない。
焦りより安心感のほうが大きかった。
美咲もそっと身体の力を抜く。
じゅわぁっ……。
小さく広がる感覚。
じわ、じわっ……。
張っていた苦しさがゆっくりほどけていく。
「……っ。」
思わず肩が震える。
そのあと、奈々が小さく吹き出した。
「美咲もじゃん。」
「……うるさい。」
男の子まで小さく笑う。
静かな夜のバス。
エンジン音と、遠くの車の走行音。
渋滞の赤い灯りが窓の外で揺れている。
少し恥ずかしくて、でもどこか安心できる空気が、三人の間にゆっくり流れていた。
第5話「渋滞の帰り道」を読んでいただき、ありがとうございました。
今回はシリーズの中でも、“安心感を共有すること”を強く意識して書いた回でした。
これまでの美咲と奈々は、
* 「隠したい」
* 「恥ずかしい」
* 「誰にも知られたくない」
という気持ちが強くありました。
でも今回登場した男の子は、“安心するための準備”として自然に受け入れています。
その姿を通して、
「不安だから準備するのは、変なことじゃない」
と、美咲たち自身も少しずつ感じられるようになっていきます。
特に、
* 奈々が以前より自然に受け入れていること
* 美咲が“自分だけじゃない”と思えるようになっていること
* 男の子が一人でも安心できるよう準備していること
は、このシリーズの大事な変化として描いています。
渋滞の静かな夜のバスの中で流れる、“少し恥ずかしくて、でも安心できる空気”を感じてもらえていたら嬉しいです。
次回も、三人それぞれの「安心できる日常」を描いていけたらと思います。




