第10話(2)
深雲の低い声に、少年の胸にも緊張と興奮が走る。腰を落とし、飛びかかるタイミングを見計らっていた。
対して相手は、細長い三つ編みを揺らして体を向ける。風竜の顔を見た時、彼女の桃色の双眸が僅かに見開かれた。
「オレは中見てくっから任せていいか。気ぃ抜かすんじゃねぇぞ」
「りょーかいっ」
首輪を放された犬の如く、黒髪が飛び出していった。
色黒の女は冷静な眼差しで、懐に突っ込んできた少年を肩を引いて躱す。流れるように回し蹴りを打ち込んだが、風竜は身を屈ませ地面を転がってみせた。
すぐさまコンクリートを蹴り上げ、相手の腹を目掛けて拳を打つ。猛烈な瞬発力だったが、彼女の方が一枚上手らしい。手首を掴まれ、勢いそのままに投げ飛ばされた。
(こいつ力強っ!?)
何とか体を反転させ、改めて体勢を整える。
相手はほとんど動いていない。きつい吊り目は何を考えているのか分からなかった。
Lead Letterの隊員なだけあり、なかなかの手練れだ。女だと見くびっていた本心が苦い。
彼は再び、躊躇いなく間合いを詰めた。
黒革グローブに包まれた左拳は、女の鳩尾を目掛けるもあしらわれてしまう。だが間髪入れずに右拳を繰り出した。彼女は半強制的に、防御の構えに切り替えさせられる。
連続で殴打を放ち、綻びを引き出す魂胆らしい。しかし、先に集中力が切れたのは彼だった。
腕の動きが一瞬だけ鈍る。それを見逃すことなく、褐色肌の女は拳を突き出してきた。
叩き込まれる鉄拳から凄まじいパワーが爆発する。守るのに構えた左腕が軋んだ。思わず表情が歪む。
一旦退くと、ジンジンと鈍痛が広がってきた。
(今の全然見えなかった、咄嗟に守って正解だったみたいだけど)
風竜の身体能力は、響の言影によるデバフ効果があれど本人の実力が伴っていない。判断力などないに等しい。
考えて動くなど、彼の戦術プランにはないようだ。
琥珀色の眼光が細められる。
もう一度殴りかかろうとした彼だったが、三つ編みの女に片掌を向けられた。言わずもがな制止の合図である。
彼女はハスキーな声で言った。
「一つ聞く。何者だ、此処の組織の者ではないだろう」
「そーだけど別に誰でもよくない? 正義のヒーローってコトでっ」
彼の右ストレートが牙を剥く。相手は後ろへステップを踏んだ。
攻めの手は服を擦るもダメージには至らず躱され、女から反撃のアッパーカットが打ち上げられた。脳が理解するより速く体が反応し、頭を左に避ける。頬に掠めながらも、がむしゃらに風竜は左腕を振るった。
残っていた痛みで動かしにくかったが、鋭い殴打は彼女の顎を打つ。
偶然ヒットしたことに彼自身も驚く。女は怯んで後退した。
ふと、建物から騒ぎ声が聞こえてくる。深雲に何かあったらしい。
風竜は思わず振り返ってしまい、張り詰めていた気が途切れる。直後、気配が目睫の間に迫った。
「余所見とは感心しないなっ」
吊り目に射抜かれる。
彼は顔を守ろうと腕を構えた。しかし疲労と鈍痛に阻まれ、零コンマ差で間に合わない。右頬を殴り飛ばされてしまった。
持ち堪えつつ、その勢いを利用して右足を軸に体を回転させる。視野がブレてもなお、高く掲げた左踵を一思いに落とした。
女の肩に当たるも相手の体幹が揺らぐことはない。受け流され、追い討ちの拳が飛んでくる。
片足でバランスを崩した風竜は、鉄拳をまともに食らい吹き飛ぶ。地面に四肢を打ち、息が詰まった。
「っは、ぐ……ッ」
「身の程を弁えろ、小屁孩」
異国の言語を理解する余裕はなかった。
息の切れた少年は立ち上がって、一心不乱に固く握った右手を打ち出す。女は何故か微動だにしない。いける。
そう思った矢先。
「《鋼鐵の断末魔をあげよ》」
言影だと反応する前に、風竜は視線を自身の足に向ける。建物の影に入っていたことに気がついた。
(オレ、誘導されて、)
刹那、音が聴こえなくなる。
耳元で鳴っていた風の音も、遠くの喧騒も、自分の呼吸音さえ聴こえない。脳内の思考する声だけが無駄に大きく感じた。
戸惑えど振るわれた拳は止まらない。彼は歯を食いしばって力の限りに殴る。
だが、次に襲ってきたのは得体の知れない気持ち悪さだった。
「ゔ、おえ゙ッ……!?」
視界が回り、点滅する。左右も上下も分からなくなった。
風竜は混乱したまま地面に倒れ込む。本人は倒れたことも分からず、揺れる世界に嘔吐した。食道が熱くて痛くて仕方ない。体に蓄積した痛みも分からなくなっている。
それでも体は本能で動くようだ、動きのバラバラな手足は立ち上がろうとしている。言わずもがな、すぐに地面に伏してしまったが。
とても戦える状態でない彼の元へ、女が近づく。
オーキッドピンクの瞳孔で見下ろし、褐色の鉄拳が振り翳される。
最後に何かを呟いたように見えたが、耳が使い物にならない風竜は目を瞑る。
唯一、口の動きで分かったのは。
「カコ」
彼は握っていた意識を弾き飛ばされたのだった。




