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第六章 名を預ける道 ① 名持ちの証明

 白い塔の外門に、朝から列ができていた。


 治療を待つ者ではない。


 通行許可を求める者でも。


 全員、自分の名前を書いた紙を持っている。


 家族名まで大きく書いた紙。


 商会の印を押した札。


 教会で出生を記録した写し。


 布へ名前を縫い付けた腕輪。


 中には、本人より大きな板を抱えている子どももいた。


「何の列ですか」


 朔が尋ねた。


 リオは並んでいる者の手元を見る。


「名持ちの証明やと」


「王都が出しているんですか」


「お前が聞け」


***


 列の先頭では、若い職員が一枚ずつ紙を確認していた。


 机の上にある見出しは、


 名保持確認票


 だった。


 その前に、紙の束を抱えた少女が立っている。


 年は十五ほど。


 指先へ何枚も細い布を巻いている。


 紙で切った傷を保護するためらしい。


「現在名は?」


 職員が尋ねる。


「ミウ」


「家族名は?」


「使ってない」


「出生時の名前は?」


「知らない」


「本人の名前を証明できる家族は?」


「いない」


 職員は紙を見る。


「雇用主は?」


「ミエル」


「家族ではありませんね」


「紙を届けに来たんだけど」


 ミウは抱えている束を少し持ち上げた。


「旧紙市場の倉で補修した記録紙。今日の昼までに塔へ入れろって」


「受取票は?」


「これ」


 ミウが別の紙を出す。


 ミエルの署名。


 倉の印。


 届け先。


 紙の枚数。


 すべて書かれている。


「配達記録としては確認できます」


「じゃあ、通して」


「名保持確認が終わっていません」


「名前は言った」


「確認者が必要です」


「ミエルは店にいる」


「ここへ来てもらえますか」


「今、棚を直してる」


 壁の調査で移動させた棚だった。


 戻し終わっていない。


「では、確認が取れるまで待ってください」


「糊が乾く」


「何が?」


「紙袋の口。届け先で開け直すんだよ」


 職員は困ったように名保持確認票を見た。


 紙には、空欄が三つ残っている。


 空欄があるから、目の前のミウも不足しているように見えていた。


***


「この確認票は、誰が作ったんですか」


 朔が尋ねた。


 職員が顔を上げる。


「列の後ろへ並んでください」


「証明を受けに来たのではありません」


「では」


「この人が紙を届けられない理由を聞いています」


「名を持つ者であることを確認できないためです」


「本人がミウと名乗りました」


「自己申告だけでは」


「自己申告では、名前を持っていることにならない?」


「偽名の可能性があります」


「偽名だったら、名前を持っていない?」


 職員は止まった。


「そういう意味ではありません」


「では、何を確認していますか」


「黒い道の人影が、名を持つ者だけ来いと」


「ミウさんは、黒い道へ行くんですか」


「行かない」


 ミウが答えた。


「塔へ紙を届けるだけ」


「では、人影の言葉と、この門を通ることに、どういう関係がありますか」


「塔内へ危険を持ち込まないためです」


「名前を証明できない人は、危険なんですか」


「そうは言っていません」


「でも、通していない」


 職員は、名保持確認票の上へ手を置いた。


「昨日、外門責任者から、身元確認を厳格にするよう指示がありました」


「名持ち証を発行するように?」


「そこまでは」


「誰が、この見出しを?」


「既存の本人確認票へ、分かりやすい名前を付けました」


 分かりやすい名前。


 その下で、別の判断が始まっていた。


***


 リオが、ミウの紙束を見る。


「届け先は?」


「内塔記録補修室」


「ネラか」


「たぶん」


「この紙が届かんかったら?」


「今日の修復が止まる」


「名持ちの証明より先に、仕事の確認はできとるな」


 職員が言う。


「しかし、規則が」


「どの規則や」


「外門通行者の本人確認です」


「本人が誰か分からんのか」


「ミウと名乗っています」


「なら」


「その名前が公的記録と一致するかを」


「公的記録にない者は、本人やないんか」


 リオの声は大きくない。


 後ろの列が静かになる。


***


 朔は、机にある二枚の紙を見た。


 一枚は名保持確認票。


 もう一枚は配達記録。


 配達記録には、


 ミウ。


 旧紙市場ミエル倉勤務。


 補修記録紙十二束。


 内塔記録補修室へ。


 とある。


「配達する人としては、確認できていますか」


「雇用主の印があります」


「では、今日は配達する人として通せませんか」


「名持ちとしてではなく?」


「名持ちとして門を通る必要がありますか」


 職員は外門責任者を見る。


 責任者は列の横で、別の者の出生証明を確認していた。


 話を聞き、机へ来る。


「暫定措置です」


 責任者が言った。


「人影の発言が公表され、塔へ名前の確認を求める者が押しかけました。偽造札も出ています」


「だから、全員の名前を証明する?」


「混乱を抑えるためです」


「抑えられていますか」


 列は、門の外まで続いている。


 証明を受けるために、混乱が形になっていた。


***


「ミウさんの配達を、通常の配達手続きで通してください」


 朔が言った。


「名保持確認票は?」


「使わない」


「あなたに決定権はありません」


「ありません」


 朔は認めた。


「だから、責任者が決めてください」


 責任者は配達記録を読む。


「荷物の確認を行います」


「開けるの?」


 ミウが眉を寄せる。


「封を傷つけない範囲で」


「糊は触らないで」


「分かりました」


「名前の証明は?」


「今回は、配達者として確認します」


「ミウって書く?」


「はい」


「家族名なしって?」


「空欄にします」


「なしって決めないで」


 ミウが言った。


「使ってないだけ」


 責任者は一度、ミウを見る。


 配達記録の家族名欄に、


 本人は現在使用していない。出生時記録は未確認。


 と書いた。


 なし、とは書かなかった。


***


 ミウは門を通る前に、朔へ尋ねた。


「あんた、名持ちなの」


「黒川朔です」


「家族名あるんだ」


「ツヅリ村では、サクと呼ばれています」


「二つ?」


「同じ人を呼ぶ、違う形です」


「じゃあ、どっちを証明するの」


 朔は答えられなかった。


 ミウは待たない。


「紙、乾くから行く」


 補修紙を抱え、塔の中へ入っていった。


***


 名保持確認票の使用は、その場で中止されなかった。


 列には、すでに何十人も並んでいる。


 自分の名前を証明できれば安全になると思っている者。


 証明がなければ、塔から追い出されると思っている者。


 家族の分まで紙を持ってきた者。


 外門責任者は、昼まで新規受付を止めると決めた。


 すでに並んでいる者には、用途が未確定であることを伝える。


 証明書は発行しない。


 提出された紙は、本人が希望すれば返却する。


「返さない場合は?」


 朔が尋ねた。


「本人確認記録として保管します」


「何のため?」


 責任者は答えを持っていなかった。


「目的が決まるまで、預からないでください」


「後で必要になるかもしれません」


「必要になるかもしれないから、名前を集める?」


「混乱への備えです」


「集めた紙が、別の混乱を作るかもしれません」


 責任者は、すぐには同意しなかった。


 だが、新しい紙を受け取る手は止めた。


***


 その日の午後、塔下審査室に名保持確認票が置かれた。


 赤い枠はない。


 危険を示す紙ではない。


 それでも、欄は人を分けていた。


 一、現在使用している名前。


 二、出生時の名前。


 三、家族名。


 四、公的登録番号。


 五、家族または所属者による確認。


 六、本人による自称。


 七、名前の変更履歴。


 八、発声による本人確認。


「最後の欄は何ですか」


 朔が尋ねた。


 グラドが答える。


「本人が自分の名前を言えるかです」


「言えなければ?」


「確認困難」


「名を持たない?」


「そうは書きません」


「でも、確認票は完成しない」


「別の方法を使います」


「誰かが代わりに言う?」


「家族や所属者が」


「その人が、本人の名前を決めることになりますか」


「証言するだけです」


「紙には、どう違いが残りますか」


 グラドは欄を見る。


 今の書式では、違いは残らない。


***


 会議には、


 グラド。


 セオ。


 ネラ。


 ベド。


 イサラ。


 エリオ。


 ノエ。


 マレア。


 朔。


 外門責任者。


 そして、名保持確認票を最初に書き換えた若い職員もいた。


 責任を押しつけるためではない。


 なぜ必要だと思ったのかを、本人の言葉で聞くためだった。


「最初に」


 イサラが言った。


「この紙は、何をするためのものですか」


 若い職員が答える。


「名を持つ者であることを確認するためです」


「なぜ、確認する必要がある?」


「黒い人影が、名を持つ者だけ来いと発言したからです」


「外門を通る者全員が、黒い道へ行きますか」


「いいえ」


「では、外門で必要な理由は?」


「名前を持たない者が塔へ入った場合、何が起きるか分からないためです」


「名前を持たない者がいると、確認されていますか」


「いいえ」


「名前を証明できない者が、危険を起こした記録は?」


「ありません」


「それでも止めた?」


「何か起きてからでは遅いと思いました」


 デルと同じ恐れではない。


 だが、似た形がある。


 何もしなかった後で、なぜ確認しなかったと問われること。


***


「誰かに、確認を厳しくしろと命令されましたか」


 イサラが尋ねる。


「外門責任者から、身元確認を厳格にと」


「名保持確認票を作れとは?」


「言われていません」


「見出しを変えたのは?」


「私です」


「なぜ?」


「今、何を確認しているのか分かりやすくするためです」


「名を持つ者かどうかを?」


「はい」


「あなたは、名を持つ者の意味を知っていますか」


 職員は黙る。


「知りません」


「では、知らない言葉を確認する紙を作った?」


「はい」


 声が小さくなる。


「罰するために聞いているのではありません」


 イサラが続ける。


「何を守りたかったですか」


「塔の中の人です」


「ほかには?」


「自分の勤務で、知らない人を通したくなかった」


「怖かった?」


「はい」


「何が?」


「名前を聞いても、本当か分からないことが」


***


 マレアが紙の八番目を指す。


「名前を発声できることを、本人確認へ使う案は、以前からありましたか」


「治療区画の意識確認票を参考にしました」


 若い職員が答える。


「意識確認では、名前を言えるかを見ることがあります」


「はい」


「名前を言えない場合、その人に名前がないと判断しますか」


「しません」


「では、その欄をここへ移した時、意味が変わっています」


 医療上の状態確認。


 名を持つ者の証明。


 同じ質問でも、置かれた紙で意味が変わる。


***


「俺は、自分の名前を言えます」


 エリオが言った。


「エリオ・レイスです」


「登録もあります」


 グラドが答える。


「家族記録も?」


「あります」


「では、この確認票では、名を持つ者になりますか」


「すべての欄を満たします」


「黒い人影は、私を来るなと言いました」


 部屋が静かになる。


「名を持つ者であることが証明できても、人影が求める条件を満たすとは限りません」


「はい」


「では、この紙は黒い道への安全を証明しない」


「はい」


「塔へ入る安全も?」


「現時点では関係が確認されていません」


 エリオは紙から手を離した。


「なら、私の名前を使って、ほかの人を止めないでください」


***


「私も、名前を言えます」


 ノエが言った。


「ノエ・ハーラです」


「はい」


「前回、姓の音が黒い人影へ影響する可能性を検討しました」


「ハルと似ているためですね」


「はい」


「名を持っていることが、安全になりますか」


「なりません」


「名前を隠すことも?」


「しません」


「では、何が必要ですか」


「その時の目的と、誰が行くかを別に決めることです」


 名前の有無だけでは、危険を比べられない。


***


 ネラが、名保持確認票の三番目を指す。


「家族名がない場合は?」


 外門責任者が答える。


「所属者の証言を」


「所属がない場合は?」


「近隣住民」


「誰も証言しない場合は?」


「本人の自称」


「自称だけでは不十分では?」


「複数の身体的特徴を」


「傷や身体を、名前の証明に使いますか」


 ラグの月形の火傷。


 曲がらない右手薬指。


 家族が、本人確認のためだけに渡した情報。


「身体的特徴は、本人を照合する材料にはなります」


 ネラは言った。


「ですが、その人の名前を決める材料ではありません」


「同一人物だと確認できれば」


「同一人物であることと、何と呼ばれるかは別です」


***


「では、未来の調査で、誰が帰ったかをどう確認しますか」


 グラドが尋ねた。


「それは必要です」


 誰も否定しなかった。


「黒い道では、声が違って聞こえる。名前が出なくなる可能性もあります」


 マレアが言う。


「身体の形も、距離によって違って見えることがあります」


 セオが続ける。


「誰が出発し、誰が帰ったかを確認しなければならない」


「なら、名前の証明が必要では?」


 グラドが問う。


「違います」


 イサラが答えた。


「必要なのは、出発した人物と、戻った人物を比較するための情報です」


「名前は?」


「情報の一つです」


「中心では?」


「本人にとっては中心かもしれません」


「安全確認では?」


「それだけにはできません」


***


 セオが、新しい紙を出した。


 見出しはまだ空白。


「参加者が出発前に、自分で書く欄を作りますか」


「本人が書けない場合は?」


 マレアが尋ねる。


「本人の言葉を、別の者が書く」


「本人が話せない場合は?」


「普段使っている意思表示を」


「それもできない場合は?」


 セオは止まる。


「空欄にします」


 朔が言った。


「確認できないまま?」


「はい」


「危険では?」


 グラドが尋ねる。


「確認できないことを、確認できたと書く方が危険です」


***


 新しい紙の欄を、一つずつ決めた。


 今日、本人が使用する呼び名。


「公的登録名ではなく?」


「違ってもいい」


 朔が答える。


「偽名でも?」


「何のために違う名を使うかは確認します」


「本名かを判定しない?」


「本人が今、その名で呼ばれることを選んでいる事実を残します」


 次。


 本人が、同行者へ伝えてよい別の呼び名。


「なければ空欄」


 次。


 今日、どこへ何をしに行くか。


 次。


 本人が、出発前に怖いと感じていること。


「必須ですか」


 エリオが尋ねる。


「言いたくない場合は?」


「言いたくない、と残す」


「恐怖がない場合は?」


「本人が、今は自覚していないと書く」


 ない、と決めない。


 次。


 帰還時、本人へ確認してほしいこと。


「名前ですか」


 グラドが問う。


「本人が希望すれば」


 マレアが答える。


「ほかには?」


「今日の目的。同行者。持っていた物。帰ると決めた時のこと」


 名前だけを尋ね続けない。


***


「確認者の欄は?」


 外門責任者が尋ねた。


「必要です」


 グラドが答える。


「家族、所属者、同行者」


 朔は紙を見る。


「確認者ではなく、知っていることを話す人にできませんか」


「何が違う?」


「その人が、本人の名前を正しいと決めるように見えます」


「では」


 ネラが見出しを考える。


 帰還した本人について、出発前から知っている事実を伝える者。


「長いですね」


 ベドが言う。


「短くすると?」


「照合者」


「本人を照らし合わせる者?」


「そう読めます」


「本人確認補助者」


「補助する対象が、名前なのか身体なのか分かりません」


 しばらく、誰も短くできなかった。


「長いままにします」


 ネラが言った。


 紙の欄が広げられる。


***


「その人は、何を伝えてよい?」


 イサラが尋ねる。


「出発前に本人から許可されたこと」


 セオが答える。


「許可が取れない状態で帰還した場合は?」


「生命を守るために必要な情報は使う」


 マレアが言う。


「名前は?」


「名前を呼ぶことが身体状態の悪化へ繋がる可能性があれば、使いません」


「名前が分からない場合」


「分からないと伝える」


「誰かが知っている名前を、本人へ教える?」


「本人の状態を見て決める」


 一つの手順にはしない。


***


「名を持つ者の証明は、作らないんですか」


 若い職員が尋ねた。


「作りません」


 イサラが答える。


「でも、市民は不安です」


「はい」


「自分が名を持つと確認できれば、安心します」


「何に対して?」


「黒い人影に、拒まれないこと」


「確認できません」


「では、何を渡すんですか」


 イサラはすぐに答えなかった。


「安全の証明は渡せません」


「それでは」


「王都の登録がないから危険だ、という判定をしないことは伝えられます」


「名前を言えない者を、名のない者と扱わないことも」


 朔が加える。


「それで安心できますか」


 職員が尋ねる。


「できない人もいます」


「では」


「できない安心を、証明書の形で渡さない」


***


 名保持確認票には、赤い線が引かれた。


 破棄ではない。


 使用停止。


 作成者。


 使用した門。


 止められた人数。


 提出された紙の枚数。


 ミウが一時的に通行を止められたこと。


 なぜ作られたか。


 何が不十分だったか。


 すべて残す。


 見出しの横に、


 「名を持つ者」の意味が未確認であるため、身分、安全、通行、人物価値の判定には使用しない。


 と書き加えられた。


***


 外門へ出す公示も作られた。


 王都は、「名を持つ者」であることを証明する書類、札、腕輪を発行していません。


 王都登録名、家族名、出生記録、本人が発声できるかどうかを、黒い道での安全、通行資格、人としての価値を示す証明には使用しません。


 本人確認が必要な場面では、その目的に応じた通常の確認を行います。


 名前を言えないこと、名前を公にしないこと、記録上の名前が確認できないことを、「名前を持たない」と判定する理由にはしません。


「通常の確認とは?」


 ベドが尋ねた。


「配達なら、届け先と荷物」


 朔が答える。


「治療なら、必要な処置と本人の同意」


 マレア。


「黒い道の調査なら、参加条件と帰還確認」


 イサラ。


「全部に同じ紙を使わない」


 ネラが言った。


***


 公示が貼られたあとも、列はすぐには消えなかった。


「でも、自分の名前が登録されているかだけ確認したい」


「腕輪を買ったんですが、無効ですか」


「子どもの名前も届けた方が安全では?」


「家族名が違うと、黒いものに同じ家族だと分からないのでは?」


 質問は続いた。


 外門の職員たちは、一人ずつ答えた。


 分からないことは分からないと。


 王都が証明していないものは、証明していないと。


 名前の登録を希望する者には、通常の住民登録の目的と影響を説明する。


 黒い道の安全札としては受け付けない。


***


 ロウが、列の横にいた。


 第五章の最初に、勇者とヴァルハの遊びをしていた子ども。


 母親らしい女性の服を引いている。


「妹の分は?」


 母親の腕には、まだ歩けない幼い子がいる。


「何が?」


 朔が尋ねた。


「名持ちの紙」


「発行していません」


「でも、妹は名前を言えない」


「まだ小さいから?」


「うん」


「名前は?」


 母親が答える。


「メイです」


 幼い子は、朔を見ている。


 自分で名前を言わない。


「じゃあ、メイは名持ち?」


 ロウが尋ねる。


「その言葉の意味は、まだ分かりません」


「でも、名前はあるよ」


「はい」


「言えなくても?」


「はい」


「お母さんが言ったから?」


 朔は少し考える。


「お母さんは、メイと呼んでいることを教えてくれました」


「それで、メイの名前?」


「今、メイ本人がどう受け取っているかは分かりません」


「赤ちゃんだから?」


「はい」


「じゃあ、違うって言ったら?」


 母親が少し困った顔をする。


 朔は幼い子を見る。


「その時、聞きます」


「紙は?」


「その時のメイより先には決めません」


 ロウは完全には分かっていない顔をした。


 だが、妹の分の証明書を求めるのはやめた。


***


 昼過ぎ。


 ミウが内塔から戻ってきた。


 紙束はない。


 代わりに、受領印の付いた小さな紙を持っている。


「届きましたか」


 朔が尋ねた。


「届いた」


「糊は?」


「ぎりぎり」


「名保持確認は?」


「されてない」


 ミウは外門の公示を見る。


「もう証明しなくていいの」


「名を持つ者である証明は発行しません」


「じゃあ、私は何で入ったの」


「紙を届ける人として」


「名前は?」


「配達記録に、ミウと」


「それで足りた?」


「今日の配達には」


 ミウは受領票を見る。


「次も?」


「同じ仕事なら、同じとは限りませんが、同じ目的で確認します」


「面倒だね」


「はい」


「でも、知らない家族名を作るよりはいい」


 ミウは、受領票を服の内側へ入れる。


「これ、私の名前の証明?」


「配達した証明です」


「名前も書いてある」


「はい」


「じゃあ、どっち?」


 朔は答える。


「ミウさんが配達したと記録した紙です」


「私がミウだって証明は?」


「していません」


「じゃあ、別のミウが持ったら?」


「その人がこの紙の配達者だったことにはなりません」


「見分けられる?」


「今日の職員は、あなたの顔と荷物を見ています」


「ずっと覚えてる?」


「分かりません」


「紙って、便利じゃないね」


「はい」


 ミウは少し笑った。


「でも、ないよりはましか」


 そう言って、旧紙市場へ帰っていった。


 紙を絶対にも。


 無意味にも、しなかった。


***


 夕方には、名持ちの腕輪を売る露店の看板が変わっていた。


 朝。


 黒い道公認・名持ちの証。


 夕方。


 王都登録にも便利・名前入り安心腕輪。


「公認という言葉は消えましたね」


 朔が言う。


 ベドが隣で看板を見る。


「公示を読んだのでしょう」


「安心は残った」


「売り物ですから」


「止められますか」


「王都公認を名乗れば止められます。名前を縫う腕輪として売るだけなら」


「買った人が安全になると思っていても?」


「説明に虚偽があれば確認します」


「説明しなければ?」


「客が自分で意味を足すことまでは、すぐには止められません」


 腕輪には名前がある。


 それだけは嘘ではない。


 その名前が、何を守るかは書かれていない。


***


 塔へ戻ると、セオが新しい紙の見出しを決めていた。


 出発時本人確認票


「本人を証明する紙ですか」


 朔が尋ねた。


「違います」


「でも、本人確認と」


「出発時点で、本人が何を選び、何を伝えたかを残す紙です」


「帰った人が本人かを決める?」


「決める材料にはします」


「紙が?」


「紙だけでは決めません」


 朔は見出しを見る。


「本人確認票だと、紙が本人を確認するように見えます」


 セオは筆を止めた。


「では」


 ネラが言う。


「出発時記録」


「何の?」


「参加者ごとの」


 新しい見出し。


 調査参加者別・出発時記録


 短くはない。


 だが、証明という言葉はない。


***


 最初の試し書きは、朔が行った。


 今日、本人が使用する呼び名。


 黒川朔。ツヅリ村ではサク。


 伝えてよい別の呼び名。


 空欄。


 今日、どこへ何をしに行くか。


 まだ決まっていない。


 怖いと感じていること。


 黒い人影を、ハルと呼びたくなること。


 帰還時、確認してほしいこと。


 予定した問いを増やしたか。


 誰かを置いて先へ進もうとしたか。


 自分の名前を、同じように選べるか。


「最後は、名前の証明では?」


 グラドが尋ねた。


「違います」


 朔が答える。


「同じ名前を言えなければ、本人ではない?」


「そうはしません」


「では、なぜ聞く?」


「戻った俺が、何を選ぶかを知るためです」


 出発前の答えを、正解として押しつけない。


 違った時に、何が変わったかを聞く。


***


 その紙を、眠り区画でユイが読んだ。


「名前を言えない時は?」


「空欄にします」


 朔が答える。


「誰かが代わりに書く?」


「本人が選んだことだと確認できるなら」


「確認できない時は?」


「書かない」


「ずっと空欄?」


「分かるまで」


 ユイは十一枚の身体記録を見る。


 名前を知っている者。


 まだ知らない者。


 本人が名前を出すことを許可していない者。


「空欄がある人は、行けない?」


「名前の空欄だけを理由にはしません」


「でも、帰ってきた時、誰か分からない」


「身体。呼吸。傷。知っていること。同行した人。本人の反応。分けて見ます」


「紙より先に?」


「本人を見ます」


 ユイは頷いた。


***


「この紙、行く人だけ?」


「今は」


「戻る人は?」


「行った人が戻ります」


「違う」


 ユイは言った。


「ここで待つ人」


 朔は紙を見る。


 参加者の名前。


 目的。


 恐れ。


 帰還時に確認してほしいこと。


 どこにも、外で待つ者の欄はない。


「待つ人は、名前を持たないの?」


「持っています」


「紙には?」


「ありません」


「じゃあ、帰ってきた時、誰が読むの」


 朔は答えられなかった。


 出発した者の名前を記録する。


 帰還した者を確認する。


 その間、紙を持ち。


 時刻を見て。


 帰ってくる者を待つ人がいる。


 だが、今の書式には、その人がいなかった。


***


「次に、作ります」


 朔が言った。


「何を?」


「待つ人の欄」


「名前を書く?」


「本人が、書いていいと言った形で」


「待つ人が、行けって言える?」


「それは別です」


「帰ってこなかったら?」


「その時に何をするかも、先に決めます」


「待ってるだけじゃない?」


「はい」


 ユイは、空欄になっている紙の端を指で押さえた。


「ここ」


「はい」


「行く人の横じゃなくて」


「では?」


「戻るところ」


***


 その日、名持ちの証明書は作られなかった。


 名前を言える者。


 家族名のある者。


 王都へ登録された者。


 誰かに証言してもらえる者。


 そのどれかだけを、名を持つ者とはしなかった。


 証明を作らないことは、何も確認しないことではない。


 配達する者には、届け先と荷物を確認する。


 治療を受ける者には、身体と意思を確認する。


 道へ行く者には、目的と危険と帰路を確認する。


 戻った者には、出発前の紙だけでなく、今そこにいる身体を見る。


 同じ質問を、すべての人へ使わない。


***


 名前は、門を通る札にはならなかった。


 少なくとも、王都はそう決めた。


 だが、名前を記した紙は残る。


 本人を閉じ込めるためではなく。


 戻った者へ、出発前の自分を押しつけるためでもない。


 何を選んで出ていき。


 何を怖いと言い。


 誰と帰ると決めたのか。


 帰ってきた本人と、もう一度話すために。


***


 そして、その紙にはまだ足りない者がいた。


 道へ進まない者。


 黒い線を見ない者。


 声を聞かない者。


 扉の外で時刻を持ち、名前を預かり、帰る場所を残す者。


 名を持つ者だけ来い。


 その言葉を聞いた時、朔たちは進む者ばかりを考えていた。


 だが、名前は進む者の身体だけにあるわけではない。


 誰かの名を覚え。


 勝手に続きを決めず。


 帰ってきた時に、同じ名を押しつけず。


 それでも忘れずに待つ者がいる。


 ユイが押さえた紙の端には、まだ見出しがなかった。


 ただ、空欄だけが残っていた。


 何もない場所ではない。


 これから、待つ者の名前を書くための場所として。

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