その頂にあるもの 三
十三階――。
景色は他のフロアと変わらない。
そのはずなのに、まるで時間が止まっているかのようにひっそりとしていた。
風もないから、空気が鬱滞している。
サルが顔をしかめた。
「以前、ここには厄介なヘビが棲みついていてな。そいつのせいで、自由に行き来できなくなってたんだ」
「じゃあ、このアパートは十三階で分断されていたと?」
俺が尋ねると、彼はしわっぽいサル顔をさらに渋くした。
「そーゆーこったな」
「そのヘビは、なぜそんなことを?」
「知らねーよ。ここには頭のおかしな連中しか住んでねーんだからな。みんな自分勝手な理屈でしか動いてねェ。おおかた、そいつにとっていい餌場だったってだけだろ」
このフロアにはセンさんしかいなかった。
一人で三味線を弾いていた。
俺に危害を加えることもなく、ただ行かせてくれた。
いったい彼女は何者なのだろうか?
いちど、きちんと話したほうがいいかもしれない。
*
十四階、十五階、十六階と進んだ。
襲ってくるのは目のうつろな連中ばかり。血肉に飢えた食人鬼。だが、俺たちの敵ではなかった。いまのところは。
しかし疲労はあった。
「少し休憩しませんか? ちょうど知り合いの家があるんです」
俺の提案に、日暮さんもうなずいてくれた。
「助かるよ。俺もそろそろ座りたかったところだ」
ただ、本人がいるかどうか分からない。
俺はドアをノックして、中に呼びかけた。
「ジュリエットさーん! 霧島でーす! よかったら開けてくださーい!」
「……」
しばらく反応がなかった。
不在か、と、あきらめかけたそのとき、カタリと鍵の開く音がした。
「お邪魔します」
ドアを開ける。
中には誰もいない。
「なんだ? 罠じゃねーのか?」
サルが不審そうに廊下から覗き込んだ。
が、俺は構わず中に入る。
「大丈夫ですよ。知り合いですから」
きっとトイレだろう。
意外とシャイなのだ。
「ジュリエットさん、ごめんなさい。少し休憩させて欲しくて」
するとトイレのドアがバンと開き、オカッパ少女が顔を出した。
「うちは無料の休憩所じゃないんだけど」
「あとで埋め合わせするから」
「その言葉、忘れないで」
フッと笑みを浮かべて、ドアを閉めた。
出てくるつもりはないらしい。
日暮さんは溜め息だ。
「ずいぶん顔が広いんだな」
「けど、前回来たのはここまでですよ。ここから先は未知の領域。あとはそっちのサルが頼りになると思う」
信用していいのかはまだ分からないが。
あの金にがめついサルが無料で道案内をしてくれるなんて、怪しすぎる。
サルはへらへら笑ってる。
「おうよ! 大船に乗ったつもりでドンと任せてくれ!」
もし普通に階段をあがるだけなら、十六階くらいは数分で行ける。
しかしここは階段の場所があちこち飛んでいる上に、敵の襲撃もある。サルを助けるという給与外労働まで発生してしまった。まだ動けるが、それでも疲労は蓄積していた。
上へ行くほど危険度が高まるのだ。ここで夜を明かすのは悪い手ではない。
「日暮さん、提案があるんですが。ここで一泊して、残りは明日にしませんか?」
「俺もそう考えていた。この銃は、意外と体力の消耗が激しくてな」
彼の銃は、事務所のメンバーが使用しているのと同じタイプ。使用者の「気」を消費して発砲するものだ。しかし「気」とはいうが、普通に体力を奪われているとしか思えないが。
ムダな発砲の多い和木巡査は、もともと骸骨みたいな顔なのに、さらにゲッソリしている。
銃の撃ち過ぎで過労死しそうだ。
「ん? 待つっちゅ。あいつがトイレにいるなら、おしっこするときどうすればいいっちゅ?」
ちゅみみがそんなことを言い出した。
前回の悪夢がよみがえる。
「小さいほうは風呂場で済ませてくれ。家主の許可は得ている。ただし、絶対に流すこと! 絶対にな! 大きいほうは……。俺にも分からん」
「そうっちゅか。ま、普通に風呂入ってくるっちゅ。覗いちゃダメっちゅよ?」
誰が覗くかよ。
*
俺もシャワーを浴びた。
接近戦をしていることもあり、返り血を浴びまくっていた。ここでは血が金になるが、さすがに空気に触れて乾燥したものは価値を失う。一円にもならない命のやり取り。余計な労働と言うほかない。
サルが近づいてきた。
「なあ、あんた。聞いたぜ。文車の皇帝と、レジスタンスのリーダー、両方の首を刎ねたんだってな」
「そうだが……」
当事者から話でも聞いたのか?
「恐れ入ったね。ただの人間が、まるで神みてーにケンカ両成敗をやってのけたってわけだ」
「茶化すなよ。戦場に神なんかいない。あの場にいたら、俺以外の誰でもそうしたはずだ。俺は偶然その場にいただけの個人に過ぎない」
「それで? 恨みも買わずにいままで無事に生きてこられたのか?」
「レジスタンスは俺を恨んでないし、王朝のほうは新しい皇帝がうまいこと取りなしてくれたからな。けど、いつ殺されてもおかしくはない」
もともとレジスタンスは、王朝を打倒したのち、議会制の政権を発足させるつもりだった。朽拿が新しい王になろうとしたのは、完全な勇み足だ。レジスタンスも、担ぎ上げた神輿を間違えたことに気づいていた。
王朝は……。一部の守旧派が、俺を嫌っているのは知っている。だが俺が朽拿による支配を突っぱねて、首を刎ねたことは、少なからず評価されていた。おかげで王朝は滅ばずに済んだ。
両陣営の思惑が、たまたま噛み合った。
というか、ふうちゃんが裏で手を回してくれたおかげで、俺の問題は最小化された。
運がよかった。
サルはニヤニヤしていた。
「そう謙遜するなって。俺は感謝してるんだぜ。あの暴君をぶっ殺してくれたんだからな」
「俺はただ仕事としてやっただけだ。思想はない」
「好きだぜ、そういうの」
なんだこいつは?
なにが目的なんだ?
気味が悪いな。
*
体を休めていると、かすれた「通りゃんせ」が流れ始めた。
あのクソデカいウーパールーパーは、いまだにトラウマだ。戦闘とかいうレベルじゃない。災害だ。斬っても斬ってもダメージにならない。幸い、アパートが音楽で出現を知らせてくれるからいいものの……。
「少しいいか?」
そろそろ寝ようかというとき、朽拿が声をかけてきた。
「時間なら腐るほどある」
「そうじゃない。ちょっと内密の相談があるんだ」
「分かった」
ここじゃ話せないようなことだろう。
俺を暗殺するつもりじゃなければいいが。
いちおう刀を持っていくか。
*
ひっそりと静まり返った廊下に出た。
主の姿はすでにない。痕跡さえない。
「で? ご用件は?」
「理解していないのか? あのサルのことだよ」
朽拿は、まるで自分だけが気づいているといった様子だ。
「あいつのことなら俺も信用してない」
「彼は猿の末裔だ。王朝の力が弱った今、国家転覆を狙って攻めてきてもおかしくない」
「一理ある」
一笑に付してもよかったのかもしれない。大袈裟だと。だが、俺もいまの王朝の行く末は気になっていた。邪魔するヤツは歓迎しない。
朽拿はかすかに溜め息をついた。
「よかった。まともに聞いてもらえなかったらどうしようかと。みんな最初は僕の意見を笑うんだ。そんなことあるけがない、考え過ぎだ、ってね。けど、最終的に僕の言った通りになる。天才とは孤独なものだ」
「苦労してきたんだな」
「分かってくれとは言わない。だが君は、僕ほどじゃないが、まあまあ頭は回るらしい。そこだけは認めよう」
ずいぶん上から評価してくる。
これではレジスタンスでも嫌われていたはずだ。九字羅の甥ということ以外、特に見所もない。いや、実際、頭もいいのかもしれないが。
俺はつい笑った。
「けど、どうするんだ? 天才軍師どのにはなにか策でもおありなのか?」
「皮肉はよせ。それを一緒に考えようというんじゃないか。一人の脳では限界がある。僕は自分だけでなんでもできると考えるうぬぼれ屋じゃない」
これでうぬぼれ屋じゃないのか。
そもそも、あのサルを助けたのは朽拿だ。なにか策を用意しておいて欲しかった。まあ自分から動いた点だけは評価してやってもいいが。
師匠は言っていた。
可能な限り情報を集めろ、と。
もし必要な量の半分しか情報を得られなかった場合、そのまま戦えば俺たちは命の半分を失う。
俺はしばし思案したのち、こう応じた。
「いまはまだ泳がせてもいいかもしれない。意図がひとつも見えない状態だからな。俺たちを案内するフリして、罠にハメる可能性もある」
「なぜ?」
「あくまで可能性の話だよ。とにかく、あいつがボロを出すのを待つんだ。あるいは待つだけでなく、誘発する」
あのサルは聞いてもいないことを勝手に喋る。
きっと揺さぶりをかければ、こちらの期待以上の回答を出してくるはず。
そういうヤツだ。
*
翌朝、口論で目を覚ました。
「なんで流さないんですかぁ!?」
「ひぃぃっ」
サルが、ジュリエットに包丁で追い詰められていた。
どうせ夜中に風呂場で小便をして、そのまま流さず寝たんだろう。自業自得だ。
「霧島さんが流すよう説明しましたよね? なんで流さないんです? 確固たる思想に基づいて流さないんですか? それとも忘れてましたか? 自分の家じゃないから?」
「ち、ちち、違うんだ! 流したつもりだったんだ! ただ、寝ぼけてて……」
「寝ぼけてた? そんな程度の低い脳味噌、要ります? 摘出してあげましょうか?」
「た、助けてくれ!」
いまこの場でジュリエットがサルを始末してくれたら、だいぶ話が簡単になる。
だが、どうせ不命者は生き返るのだ。
このまま死なれては、サルの目的が分からないまま、恨みだけ買うことになる。
俺は勢いよく土下座した。
「ごめんなさい! この不始末は俺の責任です! このクソザルに代わって、心からお詫び申し上げます!」
「……ふぅん?」
「いまは手持ちがないのでアレですが、前回同様の慰謝料をお支払いするとともに、のちほど可能な限りおもてなしさせていただきます! どうかひらにご容赦を!」
「まずは流してきて」
「はい!」
即座に立ち上がって風呂場へ。
ただシャワーで流すだけでなく、石鹸で床や壁も洗い流した。服が濡れようが関係ない。サルの痕跡を残さないよう、完璧に仕上げなければ。
「終わりました!」
「いいでしょう。許します。私も、これ以上、友達を失いたくありませんから。ケーキ食べ放題、楽しみにしていますよ」
「お任せあれ!」
問題を起こしたクソザルは、尻もちをついたまま詫びのひとつもない。まあ怖すぎて喋れないんだと思うが。
なぜ俺がサルの小便の世話をせねばならないのか。
いや、いい。
これでサルに絡む理由ができた。このネタで絡みまくって、情報を引き出させてもらう。労働の代償は、情報だ。どうしても喋らないようなら、俺がジュリエットに代わって脳を摘出してやってもいい。
(続く)
 




